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灌漑農業

天水に頼らず用水やため池などによって水を得る高度な農業。メソポタミアやナイル川などの流域や中国の華北で発達した。

 作物を生育させるのに必要な水を、雨水だけ依存していた初期農業に対し、人工的な用水路やため池、地下水の利用などによって得る農法。土木工事が必要になるので、集団的、組織的な共同作業を通じて、より広範囲の農業共同体を生み出す。この農法によって、生産力は飛躍的に向上したが、また水利をめぐって共同体間の争いが起こり、地域権力が発生する。このような潅漑農業は、およそ前6000年紀なかごろ(前5500年ごろ)に、ティグリス・ユーフラテス川流域のメソポタミア、さらにナイル川流域のエジプトで始まった。この両地域では、定期的な氾濫を繰り返す大河との格闘の中から人々は潅漑農業の技法を獲得し、その発達を背景に、定住が大規模に進み、交易も広範囲となり、前3000年頃には、青銅器の使用、文字の使用などを指標とする都市文明が形成されたと考えられる。

潅漑農業の開始年代

 潅漑農業が始まったことを示す遺跡としては、メソポタミア南部のウバイド遺跡の前6000年紀後半(前5500年以降)の小神殿を持つ集落跡の出土などから想定されている。洪水が多いこの低湿地で、麦類の栽培を行うには、人々が水の統御に成功したからと考えられている。<『人類の起源と古代オリエント』1998 『世界の歴史』1 中央公論社 p.151>
 ナイル川流域では前5000年ごろ、おそらくメソポタミアの農耕文明が伝えられ、定期的な増水をくりかえすことからベイスン・イリゲイション(貯留式潅漑あるいは湛水潅漑)といわれる潅漑法を発達させた。<『同上書』p.379>

中国の潅漑農業

 農業用水を確保するための水利工事は春秋時代から行われていたが、戦国時代にに各国の富国強兵策の一環として積極的に進められた。中でも有名なのは、秦王政(後の始皇帝)が鄭国という人物の策をいれて渭水の支流から水を引き、咸陽の北方の原野を灌漑した鄭国渠(ていこくきょ)である。

Episode 敵のスパイがつくった灌漑用水

 後の始皇帝、秦王政は隣国の韓からやってきた水利技術者鄭国の献策をうけいれて渭水北岸の荒れ地に300里(約120km)の用水を引くこととした。ところが工事の途中で、実はこの計画は秦の侵攻を恐れた韓が、秦の国力を灌漑工事に向け、攻撃を避けようとした策略だったことが判明した。秦王政はただちに鄭国を処刑しようとしたところ、鄭国はこの用水路が完成すれば必ず秦の利益になると弁明して、ついにこれを完成させた。たしかにそれによって秦は国を富ませ、後の中国統一を達成できた。<『史記』、鶴間和幸『秦漢帝国へのアプローチ』p.15 山川出版社 世界史ブレット6>