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始皇帝

前221年に中国統一を達成した秦の皇帝。初めて皇帝を名乗る。

秦の王名としてはという。前247年、13歳で秦王となる。当時は、渭水盆地を支配する諸侯にすぎなかったが、灌漑事業(鄭国渠の開通など)を推進して国力を充実させていた。相国(総理大臣に当たる)の呂不韋の陰謀事件を乗り切った政は、軍備を増強するとともに、法家の思想家李斯を登用して法治国家の整備を行い、独裁権力を打ち立てた。前230年頃から他の6国の攻略に乗り出し、前221年までに最後のを滅ぼし、ほぼ現在の中国の国土に匹敵する地域に統一権力としての王朝を樹立した。

始皇帝の統一政策

秦王政は始皇帝を名乗り、世襲の皇帝によって支配される秦帝国の建設を進めた。その政策はの多くは李斯によっていた。まず周以来の封建制を廃止し、郡県制を採用し、中央集権体制の確立を図った。全土を統一的に支配するのに必要であったのが、貨幣・度量衡・文字の統一であった。貨幣は、戦国の各国が発行した青銅貨幣は布貨、刀貨、円貨など流通するものが違っていたので半両銭という統一通貨を発行した。また度量衡ではまず長さ(度)の単位の一歩を6尺と定め、量をはかる「ます」(秦量)と重さ(衡)をはかる「はかり」(秦権)の標準器を製造して全国に分配した。文字では秦で使われていた大篆をもとに簡略体を作り、それを小篆として、全国共通の統一字体と定めた。

思想統制と外征・土木事業

 また法家の李斯の建言により、儒家を弾圧し、焚書・坑儒を行った。前214年には軍隊を派遣して、中国南部に南海郡(現在の広東)、桂林郡(広西地方)と象郡(ベトナム北部)の3郡を置き、領土を拡大した。また北方からの脅威であった匈奴に備えて万里の長城を建設(実際には戦国時代の各国が築いたのをつなげたもの)、その他、宮殿の阿房宮や陵墓の造営に莫大な富と人員を動員した。

陵墓の造営

 彼は不老不死を望み、東方に仙薬を求めたが得られず、前210年に死去した。その死後は秦の支配力は急速に衰える。彼の巨大な陵墓からは1974年に大量の兵馬俑が出土し世界を驚かせた。

Episode 陰謀渦巻く始皇帝の周辺

 始皇帝の周辺には尋常ではない陰謀が渦巻いていた。まず、彼が幼少で秦王となったとき、実権を握っていた相国(総理大臣)は呂不韋という人物だったが、彼はもとは商人の出で先代の秦王荘襄王に取り入り、自分の愛人を献上してのし上がり、食客三千人という権勢を誇っていた(彼が食客たちに書かせた『呂氏春秋』という書物は今に伝わっている)。王子政、つまり後の始皇帝は、荘襄王の子となっているが実は呂不韋とその愛人の子であったという。その愛人は今や前王の后となって権勢をふるおうとし、政に対してクーデターを起こしたが、機先を制した政に捕らえられてしまった。その黒幕であると疑われて捕らえられた呂不韋は配流の途中で自殺する。<西島定生『秦漢帝国』講談社学術文庫版など>
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第2章3節 カ.秦の統一