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秦(戦国)

中国西部を基盤に有力となった戦国の七雄の一つ。次第に他の六国を統合し、前221年に始皇帝のもとで中国の統一を実現した。

春秋時代の秦

 周(西周)の時代には陝西省の西部を基盤とした勝負族に過ぎなかったが早くから騎馬戦術を取り入れ、次第に有力となった。特に周の東遷の時に周王を助けて功績を挙げ、前770年に諸侯に列せられた。この時から春秋時代が始まるとされている。秦の穆公(在位前659~前621)の時には東の有力国晋とたびたび戦い、また周辺の遊牧諸部族を従えて有力となった。穆公は春秋の五覇の一人に数えられることもあるが、彼の時代は秦の支配圏は中原には及んでいなかった。

戦国時代の秦

 前403年以降の戦国時代に入ると、秦は鉄製武器の使用や騎馬戦術の強化に努め、国力をさらに増強させ、南部の蜀(現在の四川省)に進出し、戦国の七雄の一角を占めるようになった。しかし当初は、中原諸国からみればもっとも辺境にあり、国内の改革も遅れていたが、前4世紀中頃、孝公の時、都を 咸陽に定め、法家の学者商鞅を招いて改革を実施(商鞅の変法)し、什伍の制などの新しい地縁原理に基づく国家機構を作り上げ、強大となる。秦が強大となると、他の6国は、連合して秦に当たるか(合従策)、秦と個別に協調するか(連衡策)、いずれの外交策を取るかで論議がされた(縦横家)。秦はまず最も近い魏に侵攻し、最も遠い斉とは和平策をとった。これが有名な遠交近攻策である。

秦による中国統一

 戦国時代末期にあらわれた昭王(在位307-251)の時には、将軍白起が、趙を攻め、前260年の長平の戦いでは45万もの趙兵をだまし討ちにして生き埋めにしたという。その間、趙に人質となっていた子楚は趙の都邯鄲を脱出して咸陽に戻り、秦王となった。その子楚が趙の女性との間でもうけたのが政(正ともいう)であった。前247年に政は父が早世したため13歳で秦王となった。
 秦王政は、父を支えていた呂不韋を排斥した後、ブレーンとして李斯を登用し、その補助によって前230年頃から東方の6国の攻略に乗り出し、前221年までに最後のを滅ぼし、統一権力としての王朝を樹立した
 秦は全国に郡県制を敷いて中央集権化を進め、文字・通貨・度量衡など次々と統一策を推進した。さらに、北方の匈奴、東方の朝鮮、南方の越などに対する征服活動を展開した。前210年に死去、始皇帝と諡(おくりな)され、世襲王朝となるはずであったが、直後から農民反乱が勃発、各地の豪族も離反して、秦の統治はわずか15年後の前207年に終わりを告げることとなる。<司馬遷『史記』1 秦本紀 小竹文夫・武夫訳 ちくま学芸文庫>
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2章3節 エ.春秋・戦国時代
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司馬遷
『史記』1 本紀
小竹文夫・武夫訳
1995 ちくま学芸文庫