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アッシリア帝国

前3千年紀から北メソポタミアに起こり、オリエントの有力諸民族に服従していたが、前9世紀に鉄製武器・戦車などにより有力となり、前663年までに、メソポタミア・エジプトにまたがるオリエント全域を最初に統一した世界帝国。ニネヴェを中心に楔形文字などの高度な文明を築いたが、領内の諸民族の抵抗により、前612年に滅亡した。

オリエント世界を初めて統一

アッシリア地図
アッシリア帝国の最大領土(前7世紀)
 オリエントの、メソポタミアの北部に起こったアッシリアは、前3千年紀にはアッカド王朝、ウル第3王朝などに支配されていた。この時期のアッシリアは古アッシリアといい、帝国期のアッシリアと区別する必要がある。
 おそらく小アジアのヒッタイトから鉄器の製造技術を学び、前9世紀ごろには、鉄製の戦車と騎兵隊を採用して、次第に強大となってきた。

Eisode アッシリアの狼

 アッシリアは一時版図を縮小したが、前10世紀の後半以降、軍事遠征を繰り返した結果、前9世紀中頃までにすべて取り返し、なおかつ領土を拡大した。反乱軍を容赦なく征伐し、略奪した。見せしめにおこなわれた、「串刺し」「目をくりぬく」「皮膚をはぐ」などの残虐な場面が、浮彫などで強調されている。この過度な見せしめは効果をがあり、「アッシリアの狼」と恐れられた。<小林登志子『古代オリエント史』2022 中公新書 p.63-64>

弱小民族からオリエントの覇者へ

 前8世紀の中ごろ、ティグラトピレセル3世(在位前745~727)は領土の拡大につとめ、服従した国は属国として支配し、抵抗した国は滅ぼして属州とする「帝国主義的」な政策に転換した。こうしてオリエント世界を支配するようになってから以降をアッシリア帝国といい、多くの民族・原語・文化を包括して支配する世界帝国の類型に当てはまる。
 彼はさらに軍制改革をこない、戦車などの武具を改良し、強大な軍事力を有してシリア・パレスチナ方面に遠征し、前732年にはダマスクスを占領してアラム人を征服し、さらに東方では前729年にはバビロンを征服し、メソポタミアを統一、アッシリア王とバビロニア王を兼ねてた。
ティグラトピレセル3世の軍制改革
(引用)ティグラトピレセル3世はアッシリアの軍制を大改革して、それまでの主として自由農民や奴隷によって編成さていた軍隊を属州や属国から徴募され訓練された職業軍人による常備軍に替え、従来の二人乗りで6本幅の車輪の戦車に替えて大型の8本軸の車輪を持つ三人乗り戦車を採用した。また歩兵の武具や攻城具をも改良し、これによってアッシリアは強大な軍事力を獲得した。<山我哲雄『聖書時代史・旧約編』2003 岩波現代新書 p.137>

最初の世界帝国

サルゴン2世 前8世紀末のサルゴン2世は、前722年にパレスチナ北部のイスラエル王国の都サマリアを占領して滅ぼし、直轄領とした。パレスチナ南部のユダヤ人の国家ユダ王国は征服を免れたが、アッシリアに朝貢することを義務づけられ、属国となった。サルゴン2世はイスラエル王国の住民をアッシリアに連行し、そのかわりに支配地の諸民族をサマリアに移住させるなどの措置を取ったため民族の混交が進んだと言われている。
 次のセンナケリブ王のもとでアッシリアはシリアフェニキアバビロンをつぎつぎと併合し、メソポタミア全域に対する支配を強めた。
エジプトを征服 このように、アッシリアはその支配下に多くの異民族を含むこととなり、オリエント世界を統一的に支配する世界帝国としての性格を強めたと言える。前7世紀に入ると、前663年に、アッシュール=バニパル王がエジプトを征服したことによって、全オリエント世界が統一的に支配され、メソポタミアとエジプトという二つの文明圏を含む、最初の世界帝国としてのアッシリア帝国を完成させた。
都ニネヴェの図書館 アッシリア帝国の最盛期の都はニネヴェであった。ニネヴェのアッシュール=バニパル王の王宮が発掘されたことによって、厖大な楔形文字を記した粘土板が発見され、これは王が帝国各地の情報を集めるために作った、世界最初の図書館として機能したと考えられている。
駅伝制 アッシリア帝国は広大な領土をいくつかの州に分けて総督を置き、交通制度として駅伝制を整備して中央集権体制を維持しようとした。ニネヴェの図書館は、各州から集まる情報を集積する、帝国の情報センターの役割を担っていた。
強制移住政策 アッシリア帝国は軍事遠征によって征服した土地の人々に対して、大規模な強制移住政策を実行した。それによってさまざまな言語、文化をもつ民族を支配する大帝国をつくりあげた。前8世紀後半に、記録にあるだけで157件、関係した人数は121万92人にもなる。これらの捕囚の民はアッシリア本土の主要都市に連行され、働かされた。また防備のために周辺地域に移され、兵力増強に役立てられた。これだけ多くの人がいやおうなく移動させられれば、地域共同体は崩壊し、神々を神殿で祀ることも出来なくなる。このアッシリアの強制移住政策は新バビロニア王国も継承し、バビロン捕囚を実行する。その状況の中でユダヤ教が成立していくこととなる。<小林登志子『古代オリエント史』2022 中公新書 p.65>

アッシリア帝国の滅亡

 しかしその支配は、軍事力による過酷なものであったためか、被支配者の諸民族が反発し、それを抑えるため軍事力に力を注いだ結果、次第に国力を消耗した。アッシュール=バニパル王の死後、バビロニアにはカルデア人(アラム系)が新バビロニア(カルデア)が台頭し、東部のイラン高原にはメディアが自立、さらにエジプトにはエジプト人の第26王朝が復活した。そして前612年、新バビロニアとメディアの連合軍によって首都ニネヴェを占領されてアッシリア帝国は滅亡した。
4国分立時代へ アッシリア帝国滅亡後、オリエントは新バビロニア王国(カルデア王国、メソポタミア地方)、メディア王国(イラン高原)、エジプト末期王朝(第26王朝など)およびこのリディア王国(小アジア)の4国分立時代となる。
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書籍案内

小川英雄・山本由美子
『世界の歴史4
オリエント世界の発展』
1997 中央公論社

小林登志子
『古代オリエント全史』
2022 中公新書