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エラム人

前12世紀、イラン高原に起こり西アジアを一時支配した民族。系統は不明。エラム王国は都のスサを建設した。

 イラン高原の南西部、後のアケメネス朝の都スサを中心とした一帯で起こった民族。その系統は不明であるが、インドヨーロッパ語族のアーリア人が侵入する以前のイラン高原に、最初に居住していた民族の一つである。
エラム線文字の使用 紀元前3千年紀、シュメール人が文字を使用し始めてからやや遅れて、イラン高原でも絵文字のような記号が使われるようになった。これはイラン高原で最初に活動を開始したエラム人が使用したものと考えられ、そこから変化したと思われる線文字も見つかっており、「エラム線文字」といわれている。しかし、まだ解読されておらず、シュメール人の文字との関係も不明である。エラム人は紀元前2千年紀にはシュメール人やバビロニア人に倣って楔形文字を使用するようになる。

エラム王国

 エラム人は紀元前24世紀のアッカドのサルゴン王の碑文などに現れ、たびたび侵攻されている。エラム人もメソポタミアにたびたび侵攻したとが碑文に遺されており、紀元前22世紀にはスサ地方に進出して、王朝国家を建国した。前2004年頃にはメソポタミア南部に侵入し、ウル第3王朝を滅ぼし、前18世紀にはバビロン第一王朝ハンムラビ王と抗争した。。
ハンムラビ法典を持ち去る 前12世紀にはスサを都とした新王朝が成立、メソポタミア中央部に入り、カッシート王国(バビロン第3王朝)を滅ぼし、オリエント最大の軍事勢力となった。バビロニアの諸都市を征服したエラム王国の王は、バビロンを都としたハンムラビ王の遺品をスサに持ち去った。ハンムラビ法典の記された石碑もこのとき持ち去れレたのであり、それがバビロンの遺跡ではなくイランのスサで発見されたのはそのような事情があったからである。<山本由美子『オリエント世界の発展』1997 中央公論新社 世界の歴史4 p.81-92>
チョガ=ザンピルのジッグラト  前13世紀ごろのエラムの王が建設したとされるのが現在のイランの南西部のチョガ・ザンヒルのジッグラトで、1935年に油田探索の調査飛行中に土で出来た不思議な塔が発見され、調査の結果ジッグラトであることが判明して復元され、現在は世界遺産に登録されている。一辺105mで四隅が東西南北を指し、五層でからなる高さ約28mの最大のジッグラト。ジッグラトはメソポタミア起源でイランのものではないが、ウル第3王朝を滅ぼしたエラムが継承したものと考えられる。<小林登志子『シュメル-人類最古の文明』2005 中公新書 p.270-271>
エラム王国の衰退 前12世紀の終わりごろから弱体化が始まり、記録上からも姿を消す。前640年にアッシリア帝国のアッシュール=バニパル王によって破壊され、エラム王国は滅亡した。紀元前7世紀末までに、スサを中心としたエラム人の地域は北方のメディア王国の支配下に入り、その後は独立することはなかった。しかし、エラムのすぐれた行政制度や官僚機構は、メディアに続くペルシア帝国にも採り入れられ、エラム語は公用語の一つとされてアケメネス朝の中ごろまで使われた。またエラムの都だったスサは、アケメネス朝でも諸官庁が置かれる政治上の都として続いた。
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ノートの参照
1章1節 ウ.メソポタミアの統一と小アジア
書籍案内

山本由美子他
『オリエント世界の発展』
1997 世界史の歴史 4