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司馬睿

晋の王族の一人で、拠点を江南の建康に遷し、西晋滅亡後の317年に建康で東晋を建国した。

東晋司馬睿

東晋元帝・司馬睿
中国のトランプより

 司馬睿(しばえい、276~322)は西晋の王族の一人であったが、八王の乱を避けて山東に移った。さらに307年、江南の中心地建業に乗り込んで、豪族を支配した。江南の豪族は司馬睿を立てて安定した政権を期待した。311年の永嘉の乱で西晋の都洛陽が匈奴の劉聡に奪われ、さらに316年、劉曜によって長安が陥落、西晋最後の皇帝愍帝が拉致されたことで最終的に滅亡すると、翌317年に長江南岸地方の建業に入り晋王として晋王朝を復興した。ついで、318年に皇帝に即位、初代皇帝(謚を元帝)となった。正式にな王朝名は晋であるが、西晋と区別するために東晋と言っている。

司馬氏を支えた「琅邪の王氏」

 永嘉の乱で華北が騒乱状態になると、人々は続々と江南に避難した。やがて彼らは西晋王朝の一族、琅邪(ろうや)王司馬睿を中心に結束した。司馬睿は、司馬懿の曾孫にあたり、永嘉の乱の起こる4年前の307年に、八王の乱で混乱する華北に早々と見切りをつけ、祖父以来の領地である琅邪(山東省)を離れて南下し、幕僚の王導とともに江南に渡り、建業を根拠地とした。司馬睿をサポートした王導は、親孝行で名をあげた王祥を祖とする、魏以来の名門貴族である「琅邪の王氏」の出身で、琅邪王司馬睿とはかねてから親しい間柄だった。
 王導は江南に入ると、かつて西晋に滅ぼされた怨みを持つ呉の土豪を巧みに味方につけ、政権の基盤を築いていった。楚の最大の協力者は従兄の王敦(おうとん)で、こちらは軍事的才能が豊かで、司馬睿に敵対する勢力を次々と討伐していった。この王導と王敦という二人の「琅邪の王氏」が司馬氏政権を支えたので、東晋は「王(導・敦)は馬(司馬睿)と天下を共にする」と喧伝された。
 王導は有能だっただけに敵も多く、司馬睿が死ぬと宮廷で冷遇され、それを怒った王敦が反乱を起こすこともあった。その後も「琅邪の王氏」は東晋王朝を支える門閥貴族として重きを成したが、次第に政治や軍事よりも文化面での活躍が目立つようになる。書家としてあまりにも有名な王羲之もこの琅邪の王氏の一人だった。<井波律子『裏切り者の中国史』1997 講談社選書メチエ p.130-138>