印刷 | 通常画面に戻る |

淝水の戦い

383年、華北をほぼ統一した前秦の苻堅の率いる大軍が中国統一を目指して南下し、淮河支流の淝水で対陣した東晋軍に敗れた戦い。中国の南北分裂が固定化された。

 383年に起こった、規模においては中国史上最大の戦いと言われている戦闘。五胡十六国のひとつのが建国した前秦苻堅は、華北をほぼ完全に統一した後、歩兵60万、騎兵30万の大軍を三軍に分けて南下させ、淮水流域から一挙に東晋の都建康(現在の南京)を突こうとした。淝水(ひすい)は黄河と長江の間を流れる淮水(淮河)の中流の一つの支流。

苻堅の中国統一、失敗

 苻堅の率いる北軍(前秦軍)の内実はさまざまな北方民族や漢人からなる混成部隊で統制がとれていなかった。また戦闘意欲も高いとは言えなかった。
 迎え撃つ東晋の先鋒を務めた謝玄は、淝水(ひすい)の北岸で決戦をしようと前秦軍をおびきよせ、その大軍が集結する前に先制攻撃をしかけて混乱させた。総崩れとなった前秦軍では苻堅も流れ矢にあたって傷つき敗走、東晋軍の大勝利となった。前秦軍がかろうじて洛陽に帰り着いたときは総勢10万を残すのみであったという。

戦後の情勢

 苻堅が淝水の戦いで敗北したことによって前秦は衰え、華北は鮮卑や羌などが独立運動を開始、385年には苻堅も長安に入った羌族の手によって殺害された。その後、前秦は394年に鮮卑の慕容氏の後秦国に取って代わられ、華北は再び分裂状態となる。やがてその中から鮮卑が有力となり、439年に北魏が華北を統一することとなる。
 一方、江南の東晋では漢人社会の貴族文化(六朝文化)が開花するが、同時に皇帝司馬氏の権威は衰え、淝水の戦いで東晋の勝利の立て役者となった北府と言われる軍事集団を率いる武人が政治に介入するようになり、その中でも最も有力であった劉裕が、420年に東晋の皇帝から禅譲されて皇帝(武帝)となり、を建国する。この宋建国を以て中国は南北二分の態勢が確定、南北朝時代に移行したとされている。
印 刷
印刷画面へ