劉裕/武帝(宋)
中国・南朝の宋の初代皇帝、武帝。東晋で実権を握り420年禅譲を受ける。土断法を実施するなど江南の開発をすすめた。
もと東晋の有力な軍団の北府軍団の軍人であった。揚子江南岸の京口の貧民に生まれ、北府軍団に入る。399年に起こった孫恩の乱という江南の海岸地方で起こった五斗米道系の宗教団体の反乱を鎮圧に活躍して頭角を現した。404年クーデターを起こして東晋の実権を握り、420年東晋の皇帝から禅譲を受けて宋王朝(劉宋)を建国し、江南の豪族勢力を抑える軍事政権を樹立した。都を建康(現南京)に置かれ、宋・斉・梁・陳と続く南朝の最初の王朝となった。 → 南北朝
土断法の実施
劉裕は東晋の実権を握ると、413年に土断法を実施した。これは、華北から江南に移住して、戸籍に登録されず、課税も課せられないでいた人々を戸籍に登録して、課税の平等化と同時に収入増を図ったものである。六朝文化のひろがり
東晋で劉裕が権力を奪うという政治不安が起こったことは、貴族社会とその文化に大きな衝撃を与えた。多くの貴族は現実逃避に流れ、詩作や清談に身をおいた。また、政治倫理を説いた儒教は人気が無くなり、道教思想や新来の仏教信仰に関心が高まった。すでに三国時代の魏から晋へ、晋から東晋へと続いていた政治不安から貴族の現実逃避は進み、六朝文化が形成されていたが、南朝のこの政変もまたその傾向を強めた。陶淵明が隠遁したのは劉裕のクーデターより20年前だが、彼もまたそのような傾向を代表する一人である。