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魯迅

辛亥革命後の中国で活躍した文学者。日本への医学留学から帰って文学に転じ、1918年から『新青年』誌上で白話文学を実践した。代表作は『阿Q正伝』。北京、広州、上海で古典研究、創作を続けながら、南京国民政府の右傾化に反対し政治活動にも関わる。上海事変に遭遇、日本の侵略が強まるなか、1936年に死去した。

日本留学から文学運動へ

魯迅

魯迅 1881-1936

 1902年、医学を学ぶため日本に留学し、仙台医学専門学校(後の東北大学医学部)に入学した。日本は日露戦争の勝利に沸き立ち、日本という場所から清朝の衰退、社会の混迷という祖国の状況を痛感するようになった。仙台留学中の魯迅の苦悩は、後に日本人教師の思い出を語った『藤野先生』で描かれている。社会の問題に目を開きながら、一方で文学にひかれるようになった魯迅は、医学を諦め、帰国して別な道を歩もうと決心した。
 1909年、帰国後、辛亥革命が勃発し、清朝が倒れ、中華民国政府が成立した。しかし新政府のありかたや折から強まった列強の支配の中で絶望的となり、その苦悩の中から1918年に『新青年』に発表した『狂人日記』が新しい文学運動としての白話文学の先鞭となる。1920年に発表した「髪の話」では辮髪を批判している。1921年12月から『阿Q正伝』の連載を開始、その後社会性の強い小説や評論に活躍した。『阿Q正伝』は近代中国が苦悩する姿を描き、彼の代表作となった。

3.18事件

 1923年から北京市内の西三条胡同(フートン、共同住宅。現在、北京魯迅博物館になっている)で生活するようになり、北京女子師範学校の非常勤講師として生計を立てた。1925年に女子師範学校で学生運動に取り組んでいた許広平を匿ったことから二人は愛情を持つようになった。1926年3月、北京政府の権力をめぐる軍閥張作霖と馮玉祥が衝突、介入した日本、イギリス、アメリカなどの軍隊が介入し天津を砲撃した。3月18日、北京の学生・市民が抗議のために天安門広場に集まり西岸デモを開始したことに対し、北京政府軍が発砲、多数が死傷し、魯迅の教え子も死んだ。事件が革命運動に発展することを恐れた政府は、デモの指導者李大釗らに逮捕状を出し、魯迅ら進歩的知識人にも危機が迫った。魯迅は市内に身を潜めた後、8月に北京を脱出した。この「3.18事件」のことを魯迅は『花なきバラ』で書いている。

国民革命の進展 広州へ

 一時期、厦門大学の文学部教授として古典研究を続けたが、その間、第1次国共合作が成立し、国民革命は急転回、蔣介石の指揮する国民革命軍の北伐が始まり、中国南部は国民政府が統治する情勢となった。魯迅は共産党の郭沫若に招かれて1927年3月、広州に移り、中山大学の文学部主任となった。許広平も大学の助手となり魯迅と共同生活に入った。しかし、広州国民政府は、国民党内の汪兆銘と蔣介石の左右両派の暗闘、国民党と共産党の確執などが渦巻き安住の地ではなかった。その不安は1927年の上海クーデタとなって現実のものとなった。

上海での魯迅

 魯迅は上海に移り、国民党の反動化に反対して、1930年からは左翼作家連盟を結成して政治的活動も行った。1932年には上海事変に遭遇し、日本人の書店主内山完造のもとに難を避けた。日中戦争勃発直前の1936年に没した。

NewS 魯迅ゆかりの内山書店が復活

 魯迅と縁の深かった上海の内山書店は、1945年に閉店になっていたが、2021年7月10日、天津で復活した。開店式には魯迅の孫の周令飛さんも出席し「祖父が生きていたらとても喜ぶと思う」と語ったという。内山書店は上記のように上海で日本人の内山完造さんが創業した書店で、1935年には東京でも開業し「中国を知る書店」と言われた。上海事変の際に魯迅が難を避けて身を寄せたところとしても知られていたが、戦後は長く途絶えていた。天津のテレビ局が内山書店の番組を制作したことがきっかけとなり、天津で復活することになった。<時事ドットコムニュース>Jiji.Com 2021/7/18
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書籍案内

魯迅/竹内好訳
『阿Q正伝他』
岩波文庫

丸山昇
『魯迅 文学と革命』
1965 東洋文庫