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李淵/高祖

618年、隋を倒し唐朝を建て初代皇帝高祖(廟号)となった。隋の律令政治を継承したが子の李世民に退位させられた。

 りえん。618年、を建国した初代皇帝高祖。南北朝の分裂時代を終わらせたが、煬帝の暴政によって短期間で瓦解した後、同じ鮮卑系である李淵が、強力な軍事力を背景に権力を奪った。その統治は北魏→西魏→北周→隋と継承された胡漢融合国家として、中国全土を中央集権体制のもとに置くことをめざした。しかし、李淵=高祖の時期の唐は、まだ完全に全土を支配したわけではなく、唐が全国を支配し、10世紀初めまで約300年続く大帝国を実現させたのは、父を排除して実権を握ったその子李世民(太宗)の時であった。

関隴集団

 李氏はもともと鮮卑系で、西魏以来の八柱国(将軍)の家柄であった。北周を事実上建国した宇文泰や、隋の楊堅らと同じように、北魏の六鎮の一つであった武川鎮を拠点とした、鮮卑系軍人と漢人土着勢力の融合した関隴集団の一人であった。李淵は西魏の高級軍人である八柱国の李虎の孫であり、母も同じく八柱国独孤氏の娘で、北周明帝、隋文帝の皇后と姉妹であった。このように北周、隋、唐の王朝は関隴集団の密接な血縁関係にあった。つまり、李淵は鮮卑系であるといえるが、当時はすでに漢化が進んでおり、漢民族であると自覚されていた。関隴集団については楊堅(文帝)の項、参照。

李淵の権力獲得

 李淵は北周の566年に生まれ、16歳の時、文帝(楊堅)に仕え、地方や中央の官僚を務めていた。隋末に反乱が起きると、617年に子の李世民(後の太宗)らとともに山西省の太原で挙兵し、まもなく都大興城を占領、煬帝の孫の恭帝をたて、煬帝が揚州で暗殺されると、禅譲(前皇帝から帝位を譲り受けること)によって皇帝となった(618年5月)。

唐の高祖の統治

 隋に代わって唐を建国し、長安を都とした。唐の初代の皇帝としては在位618~626年。621年には、漢の武帝の五銖銭以来の貨幣である開元通宝を鋳造、発行した。さらに624年には唐の最初の律令である武徳律令を制定した。しかし、高祖の時代にはまだ各地に群雄割拠し、唐朝の勢力は全土に及んでいなかった。

実子に幽閉される

 また626年、「玄武門の変」が起こり、第2子の李世民によって退位させられ、幽閉されてしまった。李世民は兄と弟を殺害して権力を握り、太宗として即位した。太宗が編集させた『高祖実録』では、高祖、つまり李淵は優柔不断な性格で、617年の太原挙兵もためらう李淵を決起させたのが李世民だったとされ、また兄の建成は酒色にふける不適格者だったとされている。これも割引して見る必要があるだろう。
 なお、唐の高祖李淵は、イスラームの創始者ムハンマド(576~632)や日本の聖徳太子(574~622)ほぼ同じ時期に当たる。
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第3章3節 ア.隋の統一と唐の隆盛