印刷 | 通常画面に戻る |

広州

中国の南部の繁栄した商業都市であり、政治的にもしばしば華北政権への地方政権が樹立された。

 現在の広東省の省都。日本では広東(カントン)と言うことがあるが、それは省名であり都市名ではない。都市としては広州が正しい。珠江(チュー川)の広州湾河口にある。古くからの華南の最大の貿易港として栄え、唐では交易を管轄する市舶司が置かれた。また宋・元の時代もムスリム商人などが渡来して盛んに海外との交易が行われた。明代にははじめてヨーロッパからポルトガル商人が来航して、広州近傍のマカオに拠点を設けた。また清朝は海外貿易の独占を計り、広州などに海関を置いて管理した。さらに乾隆帝の時に広州は外国貿易の認められた唯一の港となり、公行(外国貿易特許商人)が設けられた。それに対してイギリスをはじめとするヨーロッパ諸国の自由貿易の要求が強まり、ついにアヘン戦争となって、広州以外の諸港が開港される。その後も広州は華南の主要都市として重要な舞台となり、特に孫文らの反清運動から辛亥革命の大きな動きの拠点とされていく。

唐~宋~元代の広州

 特に唐時代には、陸路の絹の道に代わって、海路による東西交易が盛んになったが、その拠点が広州でり、貿易事務を担当する市舶司が置かれた。イスラーム教徒であるアラビア商人(ムスリム商人)が多数やってきて取引に従事していた。アラビア人は中国では大食(タージー)と言われ、蕃坊という外国人居住区に住んだ。その繁栄は、宋(北宋)に引き継がれたが、南宋では泉州が繁栄して、広州は衰退した。元代にはマルコ=ポーロによってカンフーと紹介されている。

明代の広州

 広州には早くから行といわれる商人の同業組合が作られ、広州の七十二行と言われていた。明の時、1517年にポルトガルの商人が来航、その南方のマカオに居住を認められ、広州での交易にあたるようになり、外国貿易で繁栄した。

清朝の貿易独占政策

:清朝は、1685年に解禁をゆるめ、外国貿易港として広州など4港を定め、海関を置いて管理した。乾隆帝時代の1757年からは外国貿易を広州一港に限定したので唯一の貿易港として重要度は増した。日本の長崎と違い、どの国の商船とも交易が行われ、広州城の西約200mの一帯を外国人居住地として「夷館」と称していた。清代の康煕帝ごろになると、広州(外国商人は広東と呼んだ)の中で特に特許を得た有力な貿易商人十三人(家)が「広州十三行」と言われるようになった。そのような特許商人を公行(コホン)という。公行以外の商人の取引や、広州以外での貿易は認められず、自由貿易は否定されて貿易も制限されるという鎖国体制であった。

イギリスの自由貿易要求

:広州の公行貿易という制限貿易に飽き足らないイギリスなどの外国商人は、中国との貿易の拡大を要求、1793年のマカートニー使節団を初めとして何度か交渉を試みたが、清朝は朝貢貿易の姿勢を変えず失敗した。1834年にはネイピアが広州に上陸し、交渉を目指したが同じく失敗した。イギリスはついに1840年にアヘン戦争という強硬手段に訴えた。その結果、南京条約が締結され、広州の近くの香港が割譲され、上海などが開港され、外国貿易の自由化が始まると、由一の貿易港としての広州の地位はなくなり、衰退する。