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ウマイヤ朝

アラブのイスラーム国家最初のカリフ世襲制度による王朝。661~750年、ウマイヤ家がシリアのダマスクスを都として西アジアを支配、さらにその版図を中央アジアや北アフリカ、さらにイベリア半島まで拡大した。しかしウマイヤ朝カリフを否定するシーア派の出現によりイスラーム世界の分裂がはじまり、8世紀に非アラブのイスラーム教徒の不満の高まりなどによって衰え、アッバース家によって倒された。

 イスラーム教を奉じるアラブ人の王朝で、正統カリフ時代(632~661年)時代に続く、661年から750年まで西アジアを支配した。正統カリフ時代のカリフは信者の互選で選出されていたが、ウマイヤ朝からカリフの地位は世襲とされ、初代はムアーウィヤ以後、ウマイヤ家が代々世襲した。都はダマスクスに置かれた。

スンナ派とシーア派の分裂

 ウマイヤ朝の出現によって、イスラーム帝国は最大の領土を持つこととなったが、同時にカリフの地位を巡って、ウマイヤ家のカリフを認めるスンナ派と、第4代カリフの子孫のみをカリフと見なすシーア派の対立が始まり、教団としては分裂の時代となる。
 680年、ムアーウィヤが死去しカリフの地位をその子ヤズィードが世襲すると、アリーの後継者フサインがクーファなどのシーア派に支援されて反ウマイヤ朝の反乱を起こした。しかし、バグダード近郊のカルバラーの戦いの戦いでウマイヤ朝軍に敗れ、フサインは従者と共に殺害された。これは「カルバラーの殉教」といわれ、カルバラーはシーア派の聖地とされ、その殉教の日(イスラーム暦のムハッラム月10日)を殉教者フサインを追悼するアーシュラーの祭りを挙行している。ムハンマドの血統をひくアリーとその子フサインの死によってシーア派は少数派としてイラクなどに存続することとなる。

内乱の克服

 フサインの死後、ウマイヤ朝のカリフが相次いで若死にしたためにその支配はしばらく不安定な状態が続いた。特に683年からメッカを拠点としたイブン=アッズバイルがカリフを称し、ウマイヤ朝に反旗を翻した。これを正統カリフ時代末期の第一次内乱(656~661)に次いで、第2次内乱(683~692年)ともいう。クーファのシーア派も呼応し、内乱は拡大したが、ダマスクスのウマイヤ朝で第5代カリフとなったアブド=アルマリクがメッカに討伐軍を派遣し、武将ハッジャージュが投石機で攻撃、イブン=アッズバイルの死によって抵抗は終わり、ウマイヤ朝の覇権が確立した。アブド=アルマリクは権威の確立のため、占領下のイェルサレム岩のドームを建設した(692年に完成)。

版図の拡大

 ウマイヤ朝は権力掌握後も教団の分裂の影響を受けて危機が続いたが、シーア派の抗争に勝利を占め、7世紀末の第5代カリフ、アブド=アルマリクが反ウマイヤ勢力をほぼ抑え込んだ。その時期からウマイヤ朝は領土拡張を展開し、大帝国を作り上げていった。その結果、西アジアを中心として、西はヨーロッパの一部、地中海域、北アフリカ、西は中央アジアからイラン、インダス流域に至る広範囲な「イスラームによる平和」(パックス=イスラミカ)が実現した。
 まず北方では中央アジアのソグディアナに進出、さらにイスラームの西方征服を進め、アフリカ北岸のビザンツ勢力を駆逐してチュニジアなどを獲得し、711年ついにはジブラルタルを越えてイベリア半島に侵入した。また、東は714年にインダス川流域に進出し、インドのイスラーム化の端緒となった。こうしてウマイヤ朝のイスラーム国家は大帝国となり、特にイスラームのヨーロッパ侵入は、ビザンツ帝国やフランク王国、ローマ教皇などのキリスト教世界に大きな脅威を与えた。732年にはピレネーを越えてフランク王国内に侵入したが、トゥール・ポワティエ間の戦いではカール=マルテル率いるフランク軍に敗れた。また717年など、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルをしばしば攻撃したが、ウマイヤ朝時代のイスラームのビザンツ帝国侵攻は、「ギリシアの火」などの戦術をとるビザンツ軍の抵抗により、失敗に終わった。

アラブ帝国としての性格

 ウマイヤ朝の時代には貨幣経済が発展し、アター制によって国家機構が整備されたが、その支配下には、アラブ人のみならず、多くの異民族、異教徒を含むこととなり、アラブ人とそれ以外のイスラーム教徒(イラン人、トルコ人など)との関係が問題となり始める時期でもあった。そのような中でウマイヤ朝では征服活動の先兵となったアラブ人戦士が貴族として支配階級を構成した(アラブ至上主義)。また、アラビア語を公用語として定め、アラブ人の帝国という性格が強まったので、ウマイヤ朝時代を「アラブ帝国」という場合もある。
非アラブ人ムスリムへのジズヤ課税 しかし、ウマイヤ朝は征服活動と帝国の巨大化に伴い、苦しくなった財政の財源を、本来は異教徒だけから徴収する人頭税(ジズヤ)を征服地の非アラブ人でイスラーム教に改宗したムスリム(そのような人々はマワーリーといい、改宗しない人々であるズィンミーと区別する)からも徴収した。そのため、帝国内の改宗した非アラブ人の不満が高まっていった。

アッバース家の台頭

 8世紀から非アラブのイスラーム教徒であるマワーリーやシーア派の反発が強まり、それらを背景に台頭したアッバース家のアブー=アルアッバースはウマイヤ朝に不満を持つ勢力を糾合してクーファで挙兵し、ホラーサーン地方のシーア派勢力を合わせ、749年にアッバース朝成立を宣言、翌750年にダマスクスに進撃してウマイヤ朝を滅ぼした。このとき、ウマイヤ家の中で難を逃れた人々は遠く西方に逃れ、イベリア半島に入って後ウマイヤ朝を建てた。

参考 ウマイヤ朝の終焉

 ウマイヤ朝は661年にムアーウィヤがダマスクスを首都に建国してから750年にアッバース朝によって倒されるまで、90年間、14代のカリフで終わった。次のアッバース朝や後のオスマン帝国などのイスラーム国家にくらべ、短命に終わった。それはイスラーム国家が都市の支配から始まり、世界帝国に転換していくという過渡期にあったためであると考えられるが、ウマイヤ朝の支配に内在する問題もあった。
 その一つはイスラームの信仰を巡る分派の誕生である。まず正統カリフ制からウマイヤ朝に移行する際にハワーリジュ派が分派し、さらにアリーの息子フサインがウマイヤ朝軍によって殺害されたことからシーア派が急成長した。
 もう一つは、アラブ人優位の政策から生まれた、イスラームの「ウンマは一つ」という原理と矛盾するアラブと非アラブの対立が明確になったことである。これらの内在する矛盾が一気にアッバース革命を成功させた要因であった。<小杉泰『イスラーム帝国のジハード』2006 講談社学術文庫 p.200-201>
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