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朱全忠

唐末の反乱軍から台頭し、節度使となり、907年に唐を滅ぼし、代わって後梁を建国した。

 の末期の人。はじめ朱温といい、若い頃父に死なれ、無頼の徒となり、黄巣の乱が起こると反乱軍に加わった。次第に頭角を現して部将となったが、黄巣を裏切って唐に降伏し、皇帝から朱全忠の名を与えられ節度使となる。901年、梁王を名乗り、開封を拠点とした。唐に圧力を加え、都を洛陽に遷させ、さらに昭帝を殺害して哀帝を立て、907年に哀帝から禅譲を受けたとしてみずから皇帝となった。これが後梁である。朱全忠の後梁は、李克用など対抗勢力も多く、政治は不安定であり、彼自身もその子に殺されてしまい、李克用の子の李存勗が後唐を建国し、短命に終わった。 → 五代十国の争乱

貴族と宦官を排除

 朱全忠は権力を握ると、唐の宮廷ではびこっていた宦官を処刑してその勢力を一掃し、また貴族勢力を一掃するため長安を棄てて新都を開封に定め、武断政治を開始した。これらは新しい時代を切り開いたことになる。特に貴族勢力が一掃されたことは、魏晋南北朝時代以来の門閥貴族の時代が終わったことを意味し、宋代以降の皇帝専制政治の端緒となったと言うことが出来る。

Episode 白馬の禍 科挙落第生の逆恨み

 朱全忠は唐の中央政府を手中に収めると、黄河に臨む滑州の白馬駅で、前宰相の裴枢(はいすう)以下唐の高官三十余人を皆殺しにして河に投じた。ときに天佑二年(905)、この事件を「白馬の禍」という。この事件について、司馬光の『資治通鑑』はつぎのように記している。
「時に全忠、裴枢等および朝士の官を貶せられし者三十余人を白馬駅に集め、一夕にして、尽くこれを殺し、尸(しかばね)を河に投ず。初め李振(朱全忠の第一の部下)しばしば進士に挙げらるるも、ついに第に中らず(合格せず)。故に……全忠に言いて曰く、此の輩は常に自ら清流と謂えり。宜しくこれを黄河に投じて濁流たらしむべし、と。全忠笑ってこれに従う。」
つまり、白馬の禍は、科挙の落第生だった李振の逆恨みをはらすことから起こったという。<村上哲見『科挙の話』講談社学術文庫 1980 p.245-247> → 黄巣
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ノートの参照
第3章2節 エ.唐の動揺