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文治主義

宋で採用された文官を重用した政治。軍事優先の武断政治に対する言葉。科挙によって任用された官僚が運営した。

 五代十国の混乱を収めて中国を統一した宋(北宋)は、太祖趙匡胤以来、藩鎮(節度使)勢力の削減に努め、軍の指揮権を皇帝に直属する文官である枢密院に与え、文官(事務系官僚)による国家統治の方法をとった。唐以来の門下省(詔勅の審議機関)を中書省(詔勅の起草機関)に吸収して中書門下省とし、貴族合議制を廃して科挙官僚による官僚制を整備した。このような政治体制を、唐末から五代十国の節度使の台頭を許した武断政治に対して文治主義(文治政治)といい、第2代の太宗のときにさらに整備された。

文治主義への転換の影響

 宋の文治主義への転換によって権力の分散は避けられ、皇帝の独裁権力が生まれたが、それを支える多数の官僚(その登用法として科挙が整備された)に対する俸給は国家財政を圧迫するようになる。また軍事力を削減したため、漢~唐まで続いた漢民族の王朝を中心とした東アジア国際社会は崩壊して周辺の異民族である契丹西夏(大夏)高麗大理、そして日本(鎌倉幕府)などが自立することとなった。
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第6章2節 ウ.宋の統治