印刷 | 通常画面に戻る |

冒頓単于

匈奴帝国最盛期の王。東胡、月氏などを征服、一代で匈奴帝国を築き、前200年には漢の高祖を破った。

冒頓単于

トルコの切手になった冒頓単于。トルコ語ではメテという。今でもトルコ人にはメテ姓のものがいるという。

 ぼくとつぜんう。前3世紀末から前2世紀初頭の匈奴帝国最盛期の単于。父の頭曼単于を殺して単于の位につき、秦に奪われた地を回復し、月氏を討って西方に敗走させ、広大な帝国を完成させた。モンゴル草原の中央に本営を置き、それより東を左、西を右として、左賢王・右賢王などを置いて分治させ、騎馬と騎射にすぐれた30万以上の騎兵兵力を有していた。匈奴は文字を持たなかったので、冒頓単于の詳細な伝記、匈奴帝国の国家のしくみなどは、司馬遷の『史記』の匈奴列伝、あるいは班固の『漢書』に伝えられている中国側の史料に依存している。

漢の高祖を破る

 前200年漢の高祖(劉邦)の軍を平城付近の白登山という丘で7日間に渡って包囲した。高祖は脱出したが、事実上敗北を喫した高祖は、その後、特使を冒頓単于のもとに送り、王室の女性の公主(天子の娘)を単于の妻としてさしだし、毎年、絹、まわた、酒、米などを贈りもとするなどの和議を結んだ。また、この敗北以来、漢の皇帝が自ら軍を率いて外征をおこなうことはなくなった。
 高祖を窮地に陥れる勝利を占め、漢と対等な和親条約を締結した冒頓単于は、その後、楼蘭、烏孫などの西域諸国も制圧し、漢帝国を北方から圧迫し続けたが、前174年に没し、老上単于が即位する。漢が匈奴に対する巻き返しを図るのは、武帝の時、前133年からである。

冒頓単于の権力闘争

 冒頓単于については生まれた年など基本情報に不明な点が多いが、司馬遷は『史記』で生まれたばかりの漢帝国と激しく争い、しかも高祖に対しても優位を保った軍事的天才として、ある種の敬意を込めた筆致で彼の行いを伝えている。それによって、騎馬遊牧社会のすさまじい権力闘争の様子を知ることができる。以下、<沢田勲『冒頓単于―匈奴遊牧国家の創設者』世界史リブレット人14 2015 山川出版社 p.31-39>
父の策略の裏をかく 匈奴国家では単于の后を閼氏(あつし)といった。冒頓は父の頭曼単于の後を継ぐはずであったが、頭曼は愛する閼氏との間に子が生まれるとその子に単于を嗣がせるため冒頓を廃嫡しようとはかった。さすがに簡単ではないので一計を案じ、匈奴の西にあった月氏と和平交渉のためと称して冒頓を人質に送り、その上で約束を違えて月氏を責めれば、人質の冒頓は殺されるだろうと期待した。冒頓を人質として送り届けると、頭曼はただちに月氏を攻撃した。しかし、策略を見抜いていた冒頓は月氏の良馬を盗み出し、まんまと逃げ帰った。頭曼の思惑ははずれ、冒頓は匈奴の人々からその勇気を称えられて英雄として歓迎された。頭曼もやむなく冒頓に万騎を与えた。
鏑矢の訓練 万騎を率いる大将となった冒頓は、部下たちを鏑矢(かぶらや。戦いの合図に使う音の出る矢)で訓練した。冒頓は「余の射る方向に鏑矢を射ない者がいたら斬る」と言い放って自分の良馬の一頭を射て、部下の中でおどろいて射ない者はその場で斬り捨てた。次には閼氏の一人を鏑矢で射た。今度も射ることができない部下はその場で斬り殺された。さらに次に単于の良馬を鏑矢で射ると、部下の全員が躊躇なく一斉に単于の馬を射た。こうして冒頓は部下が自分の命令は絶対に従うと確信をもった。
父を殺害し権力を握る 前209年のある日、冒頓は父に随行して狩り出ることになった。絶好の機会が来た。冒頓が頭曼を鏑矢で射貫くと、部下たちも一斉に矢を放ち頭曼は倒された。冒頓は時をおかず継母や弟たち、頭曼に忠誠を誓っていた大臣たちを処刑、自ら立って単于となった。秦で始皇帝が没した翌年のことだった。
東胡を制圧 冒頓単于が即位すると、匈奴の東方に勢力を持っていた騎馬遊牧民の東胡(後の烏桓や鮮卑はその後裔)が、両者の間にある無人の地の割譲を要求してきた。無用の土地は与えていいいう意見を述べた部下に激怒し、「土地は国の基本である、どうしてそれをやれよう」といって、土地を与えてもいいと言った部下をすべて斬り捨てた。冒頓単于は馬に乗ると国中に「後れる者があれば斬る」と号令し、一気に東方を攻撃した。冒頓単于を甘く見ていた東胡は散々に打ち負かされ、王は殺され、人民の多くは奴隷として拉致された。

漢の高祖との戦い

 前202年、垓下の戦いで項羽を破り、楚漢戦争を終わらせた劉邦は王朝を開いて高祖(厳密には死後の謚)となった。しかしまだ各地に有力な抵抗勢力が残り、北辺の匈奴もそのころ冒頓単于のもとで急速に力をつけていたので不安定な状態だった。高祖は、匈奴に備えて北方の要衝馬邑に韓王信を派遣した。前201年、予想通り匈奴の大軍が馬邑に押し寄せてくると、韓王信は匈奴の強さを熟知していたので高祖の命令にそむいて和平交渉をしようとした。しかし、高祖はそれを許さず、問責使を送る。韓王信は漢王朝に自分の居場所はないと悟り、匈奴に降ることを決意した。韓王信が降伏したことで漢の兵力も加えた40万となった冒頓単于は、そのまま南下し平城(現在の大同)に迫った。高祖は部下の中には反対する者もいたが、自ら32万の兵を率いて迎え撃った。
 前200年、冒頓単于は弱兵(老兵など)を前面に出し、敗走するふりをして高祖を白登山におびき寄せ、包囲網に取り込んだ。匈奴軍の包囲は7日間に及んだが、漢の主力部隊は到着せず、兵士は飢えと凍傷に苦しみ二、三割の兵士がそのために死んだ。絶体絶命の高祖は、臣下の陳平の奇策で匈奴軍の一部が後退した隙に、兵士全員に矢をつがえ弓を強く引かせたまま、一気に敵陣を駆け抜けてからくも危機を脱し、長安に逃げ帰った。この事実上の敗北は「平城の恥」として長く漢の人に記憶された。

Episode 策士陳平

 高祖の危機を救ったという陳平の奇策とはどんなことだったのか。『史記』で「高祖は陳平の奇計を用いて、単于の閼氏に使いをやり、そのため囲みが開かれ、高祖は脱出した」としか書かれておらず、その奇計は恥ずべきものだったので、関わった者は口止めされ、口外は固く禁じられたとされいる。しかし、後漢の班固の『漢書』によると、陳平の奇策とは次のようなものだった。
 高祖は陣中から冒頓単于の閼氏(后)に手厚い贈り物を贈った。陳平はその使者に密かに策を授けた。使者は閼氏の天幕を訪ね「漢には多くの美女がおります。今あなた様の旦那様(単于)が漢を征服して漢地に至れば、旦那様はきっと漢の美女を愛し、貴女は廃されることでしょう」とささやき、画工に描かせた美女の絵をみせた。これを見た閼氏は、単于の寵愛を失うのを恐れ、「今、漢の地を得たとしてもあなたがそこに住むことはできません。漢にも神の助けがあるでしょう。よくお考え下さい」と兵を退くように説得した。単于は投降した漢兵の動きも気になっていたこともあって、兵の一角を退かせたのだった。<沢田勲『冒頓単于―匈奴遊牧国家の創設者』世界史リブレット人14 2015 山川出版社 p.44-46>

匈奴と漢の和親条約

 戦いの直後から数回にわたって漢の高祖と匈奴の冒頓単于の間で交渉がもたれ、前198年和親条約が成立した。その内容は次の三条からなる。
  1. 漢帝室の一女を公主と称して、単于の閼氏(夫人)として差し出し、両国は婚姻関係を結ぶ。
  2. 毎年、漢は匈奴に綿、絹、酒、米その他の食物などを献上する(文字は一部改めている)。
  3. 漢皇帝と匈奴単于は兄弟の盟約を結ぶ。
この和親条約は漢の武帝が匈奴に対する攻撃を再開するまで、基本的には守られ、漢を縛ることとなった。

Episode 冒頓単于のラブレター

 漢の高祖が前195年に死去すると、実権を握ったのはその后の呂后であった。呂后は夫勝りの激しい気性の女性として知られている(高祖の項を参照)。ところが何と冒頓単于は呂后にこんな手紙を送っている。
孤憤の君(冒頓のこと)、沮沢(しょたく=湿地)の中に生まれ、平野牛馬の域に長ず。数々(しばしば)辺境に至り、中国に遊ばんことを願う。陛下(呂后のこと)は孤立、孤憤は独居。両主、楽しまず。以て自ら虞(たの)しむことなし。願わくは有るところを以て其の無きところに易えんことを。
 これは呂后も一人、わたしも独身、一緒になりませんか、という求婚の手紙だった。これをみた呂后は、その無礼に怒ったが、気を取り直して次のような返事をしたためた。
単于、弊邑(漢のこと。へりくだった言い方)を忘れず。之に賜わるに書を以てす。弊邑恐懼す。退日自ら図るに、年老い、気衰え、髪歯堕落し、行歩度を失す。単于過って聴き、以て自らを汚すに足らず。弊邑罪なし。宜しく見赦に在るべし。窃かに御車二乗、馬二駟(四頭立ての馬二組)あり、以て常駕に奉ぜん。
 つまり、「もうわたしはおばあさんです。何かの間違いではありませんか。どうかこの度はお許し下さい。かわりに四頭立ての車を二台、差し上げますからお使い下さい。」というものだった。
 冒頓単于は呂后に「自分は中国の礼儀を知らず、失礼しました」と返事し、馬を献じて講和の意思を示したという。<佐藤武敏編著『中国古代書簡集』2006 講談社学術文庫 p.150-154>
 二人の往復書簡は『漢書』に記録されている。冒頓単于の結婚申込みは本気とは思えず、呂后をからかったのだろうか。今だったら国際的なセクハラになりかねない。激しい気性の呂后は怒り、すぐに出兵を命じようとしたが、高祖が敗れた戦いを忘れていない陳平などの重臣たちは必死になってなだめたのだろう。冒頓単于はその後も漢の文帝との間で書簡を取り交わし、前線で衝突事件がおこったものの、両国の和親策は維持された。なお、匈奴は文字を持たなかったが、亡命した漢人がたくさんいて単于に仕え、漢文を使って交渉していた。
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

沢田勲
『冒頓単于―匈奴遊牧国家の創設者』
世界史リブレット人14
2015 山川出版社

佐藤武敏編著
『中国古代書簡集』
2006 講談社学術文庫