印刷 | 通常画面に戻る |

托鉢修道会

13世紀に修道院の改革を始めた修道士団体。イエスとその使徒に倣った厳しい清貧生活を送り、福音を説いた。ドミニコ会、フランチェスコ会があり、異端審問で活躍した。

 キリスト教修道院は、世俗から離れた山中に建設されて信仰を深めるための場であったが、土地の寄進などを受けて次第に封建領主として世俗化し、修道士の堕落が問題になるようになった。そのため、本来の修道院に戻すための改革運動である修道院運動が、たびたびくりかえされた。13世紀に盛んになった托鉢修道会の活動も、そのような運動の第三の波として始まったもので、ドミニコ会フランチェスコ会修道会がその代表的な団体である。

「托鉢の清貧」

 托鉢修道士は、土地や富を蓄えることを否定して、都市や農村を歩き回り、信者からの寄付のみで生活しながらキリストの教えに忠実に生きようとする修道士たちの組織であった。托鉢(たくはつ)の托は「托する=のせる」、鉢とはお布施を受ける鉢のことで、「修行僧が、経文を誦えながら各戸の前に立ち、施与する米銭を鉄鉢で受けてまわること(広辞苑)」という仏教用語を流用している。要は、イエスとその使徒たちと同じように、財産をもたず、定住せず、清貧を貫き、ひたすら教えを説くことを実践した。

Episode 「帯の中に金貨も銅貨も入れてはならない」

 托鉢修道会の修道士が目指した生活実践は「よき指導者の模範に従って務めをはたし、福音を説くこと、謙遜に振る舞うこと、金貨も銀貨も身につけずに徒歩で行くこと、要するに、あらゆる点にいて使徒の生活を模倣しようとする態度」であり、それが「使徒的修道院すなわち托鉢修道会」であった。ドミニコ会で守らなければならないのは簡単で厳しい生活の実践、つまり完全な清貧である。
(引用)それは私的財産の放棄だけでなく、共同体のものであれ財産はいっさい所有しない。「あなたの帯のなかに金貨も銅貨も入れていってはならない」。パンでさえ、そして旅のために袋や財布ももってはならない、日条の暮らしは、日々の善意と施しに任せなければならない。食物は出会う人びと、正確には説教する相手の気持ちしだいである。また衣服も簡素でなければならず、チュニック(簡素な上着)に限る。さらに履物を履いてはならない。これが使徒的な生活つまり「托鉢の清貧」というものである。<朝倉文市『修道院にみるヨーロッパの心』世界史リブレット21 1996 山川出版社 p.66

ドミニコ会とフランチェスコ会

 托鉢修道会は、13世紀のドミニコ会フランチェスコ会修道会がその代表的な組織である。ともに教会・修道院の腐敗を批判し、修道院運動の先頭に立って活動した。しかし、ローマ教皇を中心としたカトリック教会を攻撃したわけではないので、ローマ教皇は托鉢修道会を民衆教化の団体として公認し、その活動は西ヨーロッパ各地の農村に及ぶこととなった。
 また15世紀の宗教改革の時期になってカトリック教会の絶対的権威が動揺し、教会批判が強まると、それらの教会批判を異端として捉え、異端審問魔女裁判に告発する先頭に立つようになった。

『中世の秋』の托鉢修道会

 中世末期のキリスト教に敬虔と腐敗の両極端があったことを述べたホイジンガの『中世の秋』には、托鉢修道会にふれた次のような記述がある。
(引用)14世紀から15世紀にかけて、遍歴の民衆説教師たちが各地にひきおこした、はげしい感動は、この時期に、一時の沈滞からのたちなおりをみせた托鉢修道会の活動を示すものであった。ところが、また、他面においては、いつもきまってその堕落ぶりを糾弾され、嘲笑と軽蔑の対象とされたのは、まさに、その托鉢修道会の修道士たちなのであった。物語文学に登場する、けしからぬ坊主ども、たとえば小銭三枚を払えば、ミサをあげてくれたという、賃金奴隷なみの坊主、「すべてをゆるすという条件つきで」懺悔聴聞の予約をつのったという坊主、こういった連中は、たいていの場合、托鉢修道会の修道士ということにされてしまっている。(中略)
 托鉢修道士に体現された、教会教義にいう「貧困」概念、すでに、これには不満の声が多くあがっていた。宗教理想としての象徴的形式的貧困をこえて、視線はすでに、社会現実の悲惨さへとどきはじめていたのである。<ホイジンガ/堀越孝一訳『中世の秋』(下)1976 中公文庫 p.9-10
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

朝倉文市
『修道院にみるヨーロッパの心』世界史リブレット21
1996 山川出版社