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宗教改革

16世紀、ローマ=カトリック教会を批判したルターに始まるキリスト教の改革運動。社会変革と結びつくと共にキリスト教世界を二分する新旧両派の激しい宗教戦争を巻き起こした。

 The Reformation 16世紀の前半、ドイツのルター、スイスのジュネーヴにおけるカルヴァンらの教会改革から始まって、キリスト教世界をカトリック教会プロテスタントに二分することとなり、同時に社会と政治の変動をもたらした大きな変革が宗教改革である。イギリス宗教改革イギリス国教会のカトリックからの離反と言うかたちで行われた。
 宗教改革はヨーロッパの精神世界と政治世界においても最高権威であったローマ教皇を頂点とした教会支配を脅かすものであったので、その動きに対抗して、カトリック教会でも対抗宗教改革が試みられ、大きく変化した。またほぼ同時期に展開されていたルネサンス大航海時代との密接に結びつき、ヨーロッパ世界の近代への移行を準備したと言うこともできる。宗教改革から始まった新旧二派の対立は、深刻かつ広範囲な宗教戦争に転化し、ほぼ17世紀まで続くこととなる。この宗教戦争を経ることによりヨーロッパには主権国家が形成されていく。

ルターの宗教改革とその広がり

 ローマ教皇がドイツにおいて贖宥状を発売したことに対して1517年、ルターが『九十五ヶ条の論題』を発表して批判したことからドイツの宗教改革が始まった。ルターは「信仰によってのみ義とされる」(信仰義認説)と説き、その理念はローマ教会の「信仰と善行によって救済される」という教義とするどく対立することとなり、ドイツは大きな混乱に巻き込まれた。時の神聖ローマ皇帝カール5世は1521年のヴォルムス帝国議会でルターに教義撤回を迫ったが拒否されたため、ヴォルムス勅令を発してルターを異端と断定、追放に処した。ルターはザクセン選帝侯フリードリヒに保護され、聖書のドイツ語訳を完成させ、『聖書』やルターの主著『キリスト者の自由』は活版印刷によって民衆の間に新しい宗教観を浸透させることとなった。

農民戦争と宗教戦争

 こうして宗教改革はドイツ国内でキリスト教信仰をめぐる対立として始まったが、封建末期の矛盾が強まる中で没落しつつあった騎士階級であるフッテンはルターに同調して騎士戦争(1522年)を起こしたが大領主たちに鎮圧された。また、教会から搾取されてローマの牝牛とさえ言われていたドイツ農民がルターを支持して蜂起し、ドイツ農民戦争(1524年)が起こった。こうして宗教改革は反封建闘争という社会改革と結びつくこととなったが、ルターは結局これらの武装闘争に反対し、いずれも鎮圧された。
 宗教改革の時代背景には、神聖ローマ皇帝とフランス王の対立であるイタリア戦争、オスマン帝国のバルカン半島・地中海への進出というヨーロッパ事態の危機があり、それらと教皇と皇帝の対立、諸侯同志の対立などが複雑に絡み合って、単なる宗教上の問題を超えて政治的な駆け引きも行われた。カール5世も一時はルター派を公認したものの、再び否認に戻ったため、ルター派諸侯は結束して皇帝に抗議したところから、抗議する者=プロテスタントといわれるようになった。ローマ教皇とカトリック教会を支持する諸侯も結束し、新旧両派諸侯はシュマルカルデン戦争(1546~47年)という宗教戦争を戦うこととなった。

宗教和議の成立

 ドイツにおいては、ようやく1555年のアウクスブルクの和議で両派の和議が成立し、新教の信仰が公認されるに至った。これがドイツにおける宗教改革の一応の終結と言うことができるが、しかしそれは「領主の宗教、その地で行われる」と言われたとおり、信仰の自由は領主層に限られてており、農民レベルは領主の信仰に従わなければならなかった。そのため、ドイツにおける宗教対立はその後も続き、17世紀前半の三十年戦争となり、その講和条約である1648年のウェストファリア条約でアウクスブルクの和議が確認され、カルヴァン派も含めて信仰の自由が認められ、宗教戦争は終わった時点までをドイツの宗教改革とする見方もできる。その後は、北ドイツ及び北欧諸国はプロテスタント、ドイツ南部ではカトリックがそれぞれ優位な状態が続く。

カルヴァンの宗教改革とその広がり

 ルターと同じころ、スイスチューリヒではツヴィングリが現れ、より徹底した改革がおこなわれたがカトリック側との内戦となりツヴィングリが戦死してこの改革は頓挫した。ついでフランス人でルターの思想の影響を受けて改革を称えて追放され、スイスのジュネーヴに逃れてきたカルヴァンが活動を開始した。彼はジュネーブ市民の支持を受けて徹底した神権政治を展開した。彼が説いた予定説はフランス、オランダ、イギリスなどの商工業者にひろがり、各地でカトリック教会との対立をもたらした。

フランスの宗教戦争

 特にフランスでの宗教戦争は16世紀後半のユグノー戦争(1532~98年)として展開され、その過程で激しい新教徒虐殺なども行われた。その対立は16世紀末、アンリ4世がカトリックに転じると共にナントの王令を出してプロテスタントの信仰を認めるまで続いた。フランスではその後、17世紀にルイ14世がナントの王令を廃止してカトリックを事実上の国教と定めたため、多くのプロテスタントが国外に逃れて、強固なカトリック国となった。また隣接する現在のベルギーはカトリックが、オランダはプロテスタントがそれぞれ優位となった。

イギリスの宗教改革

 一方、イギリスでは同じく16世紀前半に国王ヘンリ8世の王妃離婚問題から端を発してローマ教会と絶縁して独自のイギリス国教会を樹立するという宗教改革が行われた。イギリス国教会はローマ教皇から分離し、教義はカルヴァン派などの要素を取り入れたが、教会の儀礼ではカトリック的な面を残していた。またイギリスではその後、カトリック勢力も勢いを盛り返し、しばらくは国教会と激しい対立が続いたが、エリザベス1世の時に統一法などが成立してほぼ国教会の優位が出来上がり、同時に絶対王政の支配体制を成立させた。またカルヴァン派はスコットランドの長老派、イングランドではピューリタンと言われ、次の17世紀のピューリタン革命の中心勢力となった。またカトリック教会はイギリスの植民地であったアイルランドではその後も優勢を保った。 → イギリスの宗教改革

対抗宗教改革

 カトリック教会側でも新教に対抗してローマ教会の改革と、教皇の権威をの回復をはかり、勢力を挽回しようする運動が起こった。1545年にトリエント公会議で教会の刷新と共に、禁書目録を作成、さらに宗教裁判所を強化して新教勢力に対抗しようとした。この動きを対抗宗教改革(または反宗教改革)と言う。レコンキスタを経験して、強いカトリック信仰が継承されていたスペインで特にその運動が盛んで、1534年、イグナティウス=ロヨラらはイエズス会を結成、教皇への絶対的な服従と、ラテンアメリカやアフリカ、アジアという新天地に積極的に布教活動を展開した。その運動によって、カトリックはラテンアメリカやフィリピンでスペインの植民地支配と結びついて根をおろし、世界的な広がりをもつ宗教となった。

1517年という年

 ルターがヴィッテンベルク教会の門に『九十五ヶ条の論題』を張りだし、宗教改革を開始したこの年、ヨーロッパはルネサンスのうねりがまだ強く残っており、また大航海時代の幕がきって落とされた直後であった。政治的にはイタリア支配をめぐって、フランスと神聖ローマ帝国が争うというイタリア戦争が展開中であった。またヨーロッパの東方、バルカン半島と東地中海には、イスラーム教国オスマン帝国の脅威が迫っていた。そのオスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼしたも同じ1517年である。なお、中国は明の後半にさしかかり、日本は室町幕府が弱体化し戦国時代に入ってきた時期である。

宗教改革と人文主義

 ルターの宗教改革はヨーロッパの思想全体にも大きな衝撃となったが、同時代のルネサンスの中で、マキァヴェリの『君主論』(1513年執筆)、トマス=モアの『ユートピア』(1516年刊行)がほぼ同時であることに注目しておこう。他にもエラスムスロイヒリンなどの人文学者が活躍していた時代である。特に、ルターの宗教改革に先行してヒューマニズム(人文主義)の思想が展開されていたことは重要である。ヒューマニズムはギリシアやローマの古典文学などを学ぶことによって、被造物(神に作られた)として人間ではなく、人間本来の感情や肉体を見直して、人間本来の姿を生き返らせようとする思想であった。必ずしもキリスト教その者を否定する運動ではなかったが、古典としての聖書研究は、聖書よりもローマ教皇の権威を絶対視する当時の教会のあり方に対する批判となったので、教会と人文学者はたびたび対立した。ルターの宗教改革の直前に起こったロイヒリンの裁判などもその例である。
神の水車
森田安一『ルターの首引き猫』p.39

「エラスムスが卵を産み、ルターが孵した」

 人文主義の中でルターの宗教改革に大きな影響を与えたのがエラスムスの聖書研究であった。エラスムスの思想がルターの聖書中心主義を生み出したという理解は当時の民衆に共通であったので、「エラスムスが卵を産み、ルターが孵した」とさえ言われ、エラスムスの影響は大きいと考えられていた。そのことをよく示すのが、当時発行されたビラに描かれた寓意画である。右に示す図は「神の水車」と題された1521年にスイスのチューリヒで出版されたパンフレットの挿絵であるが、そこには水車でひかれた粉からパンができるまでに託して、宗教改革の意義を説いている。まず左上の神の恩寵として流された水によって水車がまわり、イエス=キリスト(a)が粉ひき職人として袋から小麦を注ぎい入れている。小麦は動物の姿をしているが、これはマタイ(人)、マルコ(ライオン)、ルカ(雄牛)、ヨハネ(鷲)、パウロ(剣を持つ人)をそれぞれ象徴しており、聖書を意味している。製粉職人の助手として働いているのがエラスムス(b)で、製粉機から出てきた粉を粉袋に入れている。その後ろで袖まくりしてパン粉をこねているのがルター(c)。出来上がったパンは聖書として描かれ、中央の人物から右手の聖職者に渡されようとしているが、かれらはそれを手に取ろうとせず、聖書は落ちていく。聖職者は枢機卿や司教、修道士などで右側に描かれたのがローマ教皇である。この中央の人物には名前が記されていないが、チューリヒの宗教改革者ツヴィングリ(d)であろうと推定されている。その上で農民(カルストハンス)が大きな「からさお」をふりまわし、聖職者たちを撃とうとしている。またかれらの頭上には不気味な翼竜が「バン・バン」(ドイツ語でバンは破門の意味)と鳴いている。<森田安一『ルターの首引き猫』1993 山川出版社 p.38-84>
 ただし、エラスムス自身は、『愚神礼讃』等の著作を通じて、ローマ教会とカトリック教会の古い体質を批判していたが、ルターの急進的な改革には否定的であった。彼自身はルターに影響を与えたとは考えておらず、ローマ教皇の権威そのものを否定したわけではなかった。彼の立場は、同時期にイギリスでローマ教会から分離しようとしていた国王ヘンリ8世を批判したトマス=モアに近いものであった。
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ノートの参照
8章3節 ア.宗教改革の始まり
書籍案内

小田垣雅也
『キリスト教の歴史』
1995 講談社学術文庫

森田安一
『ルターの首引き猫』
1993 山川出版社