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異端

正統に対して、誤った信仰として否定された教説とその一派をいう。特にキリスト教では正統とされた教派から激しく排除された。

 キリスト教において、教会によって公認された教である正統に対し、間違えた教義、有害な教義とされ、否定されてた教義を奉じる教派を異端(heresy)といった。
 キリスト教がローマ帝国の313年にコンスタンティヌス帝の出したミラノ勅令によって、ローマ帝国で公認されてから、国家との結びつきを深めたため、教義の統一が必要とされるようになった。325年にコンスタンティヌス帝によって招集されたニケーア公会議ではアタナシウス派三位一体説が正統とされたのに対して、アリウス派が異端とされた。

異端の続出

 それ以降にも、グノーシス派、ドナートゥス派、ネストリウス派単性説などが異端として排除されていった。中世ヨーロッパでのワルド派(アルビジョア派)、などなども南仏を中心に大きな勢力を持っていたが異端として弾圧される。
 キリスト教の教義において問題となるのは、単純化して言えば、主としてイエスは神であるか、人であるか、あるいはその両方であるのか、という論争であった。三位一体説が正統教義として確立してイエスは神性と人性の両面をもつとされたわけだが、イエスの神性か人性のいずれかだけをもつと主張するものが異端とされることが多かった。
 7世紀にイスラーム教が成立し、その脅威がビザンツ帝国に及んできたことを背景にして726年にビザンツ皇帝が出した聖像禁止令に端を発した聖像崇拝問題では、ローマとコンスタンティノープルの両教会はともに三位一体説を掲げていたにもかかわらず、聖像の解釈で対立し、ついに1054年に互いに破門しあって分離した。

異端審問・宗教裁判

 11世紀にローマ教皇権が絶頂に向かう反面、ローマ教会の権威を否定する異端に対する取り締まりも強化され、魔女裁判(魔女狩り)が盛んに行われるようになった。その一方で、教会の腐敗・堕落を批判して信仰の深化を目指した修道士たちによる修道院運動がたびたび起こっている。13世紀のドミニコ会などの托鉢修道会は厳しい修養と自らに課すと共に、異端取り締まりの先頭に立ち、異端に対する激しい攻撃を行うようになった。
 14世紀ごろになるとアナーニ事件や教会の大分裂によって教皇権が衰退し、教皇や教会を批判する聖職者も現れてきたが、教会側は異端審問(宗教裁判)を強化し、異端と断じるとともに、。1414年のコンスタンツ公会議では聖書中心の信仰を説いたウィクリフフスを異端として断じて処刑した。一方ではルネサンスでのヒューマニズム思想は、文学や科学の面でも新しい知見をもたらし、教会の権威を揺るがすこととなったが、カトリック教会は地動説を異端とするなど、その動きに背を向けていた。

宗教改革・宗教戦争

 16世紀以降はローマ=カトリック教会は宗教改革の嵐に曝されることとなり、ルターを破門してその勢力を抑えようとしたが、カルヴァンなどのプロテスタント諸派が次々と生まれ、諸侯や農民のあいだに拡がっていった。徐のような情勢の中でローマ教皇への絶対の服従をかかげるイエズス会が生まれ、ローマ教会側の改革である対抗宗教改革も進められた。こうしてキリスト教両派の対立は16~17世紀に激しい宗教戦争となってヨーロッパ全土を覆った。そのなかで、カトリックとプロテスタントは互いに異端として排除し合い、悲惨な殺し合いを続けたが、異端裁判や魔女狩りはカトリック国のスペインなどだけでなく、プロテスタント側でもさかんに行われている。またイギリスでは国教会が国家の正統な教会として確立するが、その過程でカトリックやカルヴァン派のピューリタンとの激しい宗教対立を繰り広げた。

異端と破門の終焉

 17~18世紀にヨーロッパ各国が主権国家としてのあゆみをはじめると共に、国民の統合を図る必要から、政治と宗教の分離と宗教への寛容を建て前とすることが多くなった。それは市民革命でさらに徹底された。その中で、カトリック教会も異端や破門を振りかざすことはなくなった。カトリック教会でも長く続けていた異端審問や宗教裁判について、ようやく20世紀に入って第2ヴァチカン公会議においてローマ教皇がその過ちを認めたのだった。1971年2月4日、ローマ教皇庁は「今後は異端および破門という呼び方、考え方を無くする」と発表し、ここに異端と破門の問題は終結した。
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第1章3節 ク.迫害から国教化へ