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南蛮貿易

16世紀日本での、ポルトガル商人・スペイン商人との平戸、長崎などにおける貿易をいう。

ポルトガルとの交易

 ポルトガルは1510年にインドのゴアを武力占領し、さらに翌年にマラッカ王国を征服して南シナ海に進出、中国との接触を開始した。中国商人と接触するようになったポルトガル商人は、ジャンク船を使って東シナ海にも進出して行き、そこで倭寇と接触を持つようになった。1543年にはポルトガル商人の乗った倭寇(中国人)の船が種子島に漂着以来、ポルトガル商船は日本の有益な交易相手国と考えるようになった。マカオを拠点としたポルトガル商人は、中国から生糸などを積み込み、日本に運び、日本の銀と交換する貿易を始めた。日本ではポルトガル人を南蛮人と呼んだので、この貿易を南蛮貿易という。九州の諸大名も鉄砲・火薬などを手に入れるために領内の港に南蛮船の来航を認めた。島津氏の鹿児島港、松浦氏の平戸、大村氏の横瀬、大友氏の府内(大分)などが来航地であったが1571年以降は長崎が主要な南蛮船の来航地となっていく。長崎はこうして南蛮貿易の交易として繁栄し、教会堂の建設など、南蛮文化の面でも中心となっていった。

スペインとの交易

 スペイン(イスパニア)は、1571年にフィリピンにマニラ市を建設して、メキシコのアカプルコとの太平洋をまたぐガレオン貿易を開始した。すでにスペイン人宣教師のザビエルが1549年に日本で布教を開始していたが、スペインの日本との交易は遅れ、1584年にようやく平戸に商館を設けて交易を開始した。しかし豊臣秀吉は1587年にキリスト教の布教禁止に転換していたが、1596年にスペイン船のサン=フェリペ号が土佐沖に漂着したとき、乗組員がキリスト教布教をスペインの世界征服のためであると誇張してのべたためにキリスト教取り締まりを強化するとともにスペインと国交を断絶した。また豊臣秀吉はルソン島征服を一時計画したためにスペインとの関係はさらに悪化したが、徳川家康はスペインとの関係を修復して使節の大西洋横断をさせるなどを行った。

南蛮貿易の内容

 ポルトガル商船がもたらす商品で最も重要であったのは、中国産の生糸であった。生糸は当時日本ではほとんど生産されていなかったので、とくにその上質のものは白糸といわれて珍重された。またその対価として日本から持ち出されたもので最も重要なものが日本銀である。当時日本は石見銀山などを有し、世界有数の銀の産地であった。
・日本の輸入品:中国産の生糸絹織物、ヨーロッパ産の鉄砲・火薬・毛織物、東南アジア産の香料・革製品など
・日本からの輸出品:日本銀・銅・刀剣・工芸品など

南蛮貿易の衰退

 17世紀にはいると、ポルトガル・スペインが後退し、オランダ・イギリスの進出するという国際情勢の大きな変化が起こった。この新教国の両国は東インド会社を設立してアジアの中継貿易に参入し、盛んに海賊行為を行いポルトガルの南蛮貿易の利益を奪うようになった。日本ではこの両国人を紅毛人と呼んで南蛮人と区別した。また新教国であった両国は、ポルトガル・スペインがカトリックの布教を進める日本を侵略する意図を持っていると盛んに吹き込んだので、江戸幕府は次第にキリスト教禁止に向かっていった。
 一方、徳川家康はキリスト教禁止とは切り離して、盛んに朱印船貿易を行って貿易を統制しようとした。そのため17世紀初頭は、ポルトガル・スペインの南蛮船、オランダ・イギリスの紅毛船、中国のジャンク船、日本の朱印船が競合しながら、東アジア海域では活発な交易が展開された。
 しかし、家康の死後、江戸幕府はキリスト教禁止の強化と貿易制限に大きく転換し、鎖国に踏み切った。1624年にはスペイン船の来航禁止、さらに1639年にはポルトガル船の来航が禁止され、南蛮貿易は終焉した。
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ノートの参照
7章1節 カ.東アジアの状況