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鎖国

17世紀初頭、日本の江戸幕府が、キリスト教を厳禁し、同時に外国との貿易をオランダ・中国だけに限定して統制した、外交上の政策。

南蛮貿易とキリスト教布教

 1549年のザビエルの来日以来、西日本ではキリスト教が拡がり、また宣教師のもたらすポルトガルとの南蛮貿易の利益もあって、特に西日本にキリシタン大名が出現した。「霊魂と胡椒」と言われたように、宣教師の布教と南蛮貿易の利益は一体であったが、戦国の世を統一した豊臣秀吉にとっては、長崎がキリシタン大名大村純忠からイエズス会に寄進され、長崎がキリスト教布教の拠点となると同時に、西国大名が貿易の利益を独占するのではないかという危機と映った。島津氏を討って九州を平定した秀吉は、1587年、長崎を直轄領にするとともにバテレン追放令を出して宣教師を国外追放とした。キリスト教取り締まりはここから始まるが、秀吉は貿易についてはその利益を独占するために、朱印船貿易を始め、宗教統制と経済とを分離する政策を採った。 → キリスト教の禁教(日本)

朱印船貿易

 16世紀初頭に江戸幕府を開いた徳川家康は、秀吉の政策を受けつぎ朱印船貿易を盛んに行ってため、日本人の貿易商は東南アジア各地で活躍し、また多くの日本町が各地に生まれた。家康はメキシコとの交易を目指して使節を派遣したほどであった。この間、平戸にはポルトガル人、スペイン人が商館を設け、16世紀からはオランダイギリスも進出してきた。1570年からは長崎にも外国船が入港して盛んに貿易が行われるようになった。特に中国産の生糸(白糸)が多く輸入され、その対価として日本から銀がもち出された。

糸割符制度

 白糸(中国産の生糸)は、ポルトガル商人がマカオで安く仕入れて平戸で高い言い値で売られていた。そこで江戸幕府は、ポルトガル商人による一方的な価格設定や買い取り商人の競争で騰貴するのを防ぐために、京都・堺・長崎の有力商人に糸割符仲間を作らせて一定の価格で一括購入させ、それを仲間で分配して国内で売るという糸割符制度を1604年に開始した。この貿易統制は、ポルトガルだけでなく平戸に開設されたオランダ東インド会社にも適用されたが、このような貿易統制策が行き着いたのが鎖国政策であった。

キリスト教禁制の強化

 キリスト教禁制は江戸幕府初期には貿易が盛んだったこともあって、緩められていたが、幕藩体制が整備されていくに伴い、キリスト教信仰が体制否定に繋がる恐れを強く感じるようになり、段階的に禁教令が出されるようになる。まず、1612年に天領と直轄領の家臣に対して禁教令が出され、翌13年にはそれが全国に及んだ。背景には新教国のオランダとイギリスが、カトリック国のポルトガル・スペインが布教を口実に植民地化を画策していると幕府に告げたことも上げられる。1616年、家康が死去すると、その後の幕府はキリスト教禁制と貿易統制の強化を結びつけた鎖国政策に急速に進め、同年に貿易港を平戸と長崎に限定した。さらに1624年にはスペイン船の来航を禁止した。なお、イギリスは1623年にオランダとの東南アジアでのアンボイナ事件で衝突して敗れたため、日本貿易からも撤退し、インド経営に専念するようになっていた。

鎖国令

 その後、3代将軍徳川家光の時に、鎖国令といわれるものが次々と出される。その主なものは次の通りである。
・1633(寛永10)年の鎖国令 奉書船以外の海外渡航と5年以上の海外居住者の帰国禁止。
・1635(寛永12)年の鎖国令 日本人の海外渡航と海外在住の日本人の帰国の全面禁止
・1639(寛永16)年の鎖国令 ポルトガル船の来航の禁止 → 一般にこれをもって鎖国の完成とする。

島原の乱

 この間、1637年に九州で島原の乱が起こって幕府は農民統制のためにもキリスト教取り締まりを強く意識することとなった。キリシタン大名であった有馬晴信と小西行長の領地であった島原・天草地方には、牢人や農民の中にキリシタンが多かった。新領主となった島原の松倉氏と天草の寺沢氏は、折りからの飢饉にもかかわらず、重税を課し、さらにキリシタンを厳しく取り締まった。反発した牢人や農民は天草四郎といわれた益田時貞を頭領として一揆を起こした。原城に立て籠もった一揆勢は3万に上り、幕府はその鎮圧に苦慮し、12万の大軍で翌38年にようやく鎮圧した。このとき、平戸のオランダ商館は幕府軍に大砲や銃器を提供し、「オランダの御忠節」と言われた。

オランダとの貿易

 この間、1634年に長崎に出島を築造、ポルトガル商館を平戸から移した。さらに39年にポルトガル人を追放して、ヨーロッパ人との貿易の特権をオランダ一国のみに与えた。さらに1641年にオランダ商館を出島に移し、鎖国体制は確立した。オランダにとっては活動を出島だけに限られ、その活動は大きく制約されることとなったが、ヨーロッパの国の中で唯一、貿易が認められたことは、東インド会社にとって有利なことであった。オランダ東インド会社各地の商館で、最も利益を上げていたのが長崎であった。また、幕府にとっても密貿易の取り締まり、キリスト教宣教師の密入国という二つの目的を果たす上で出島は役立つと考えられた。しかし、オランダからの輸入品の多くは中国産の生糸であったので、中国船は競争相手として強力であり、しばしば対立した。日本からの輸出品は金・銀・銅であったが、特に銀・銅の流出は後に大きな問題となり、幕府による貿易制限がなされることになる。 → 日本とオランダ  出島

オランダ風説書

 オランダ商人は長崎の出島に隔離され、日本人との自由な接触は禁止され、年一度の貿易船のもたらす商品は幕府の管理下に置かれた。それでもオランダ商館長は毎年江戸に上り、将軍に「オランダ風説書」を提出するなど、日本にとって唯一の世界情勢を知る窓口となった。オランダ風説書は当初の「通常の」風説書は出島のオランダ商館で作成されていたが、19世紀になってアヘン戦争後はバタビアのオランダ領東インド政庁で作成されて幕府に提出されるようになり、アメリカのペリー艦隊の来航などの情報をもたらした。<松方冬子『オランダ風説書』2011 中公新書>

中国との貿易

 幕府は1635年には中国船の入港も長崎一港に限定した。中国船とは鄭成功支配下の台湾や明の勢力の残る中国南部からの船であったが、それらはオランダ船と競合した。清朝政府は鄭氏台湾を抑えるため1661年に遷界令を出したため、一時中国との取引は停滞したが、1683年に鄭氏台湾が降服し、海禁が撤回されたので中国船の来航も急増した。彼等は直接に中国産生糸をもたらすのでオランダ商人を次第に圧倒し、長崎でも中国船の入港の方が多くなり、そのため日本からの銀の流出が問題になった。また比較的布教が自由だった中国からのカトリック宣教師の潜入も懸念されたため、幕府は1688年に長崎に唐人屋敷を設け、出島のオランダ商人と同じように隔離した。中国商人は唐人と言われ、日本人との自由な接触は禁止されていたが、オランダ人に比べて比較的自由であったので、長崎には中国文化の影響が色濃く残ることとなった。 → 唐人屋敷

「鎖国」観の変化

 「江戸時代の日本はオランダと中国を除き、諸外国との交渉を断ち、国を閉ざした」と説かれてきた。現在でも常識的にはそのように言われることが多い。しかし、「鎖国」観は微妙に変化してきている。例えば、山川の詳説世界史では
旧々課程版「江戸幕府が幕藩体制を維持するためにキリスト教の禁止や貿易の統制などをおこない、さらに鎖国を断行してからのちは、長崎で中国・オランダと交易するにとどまり、世界の進展からとりのこされた。」(昭和50年代 村川堅太郎・江上波夫・山本達郎・林健太郎編)」
旧課程版「江戸幕府が幕藩体制を維持するためキリスト教の禁止や貿易の統制などをおこない、17世紀前半にいわゆる鎖国体制をかためてからは、対馬を通じて朝鮮と交易したほかは、長崎で、中国・オランダと交易するにとどまった。(1997年刊 江上・山本・林・成瀬治編)」
新課程版「日本では、1630年代の鎖国の後、江戸幕府は対外関係をきびしく統制したが、長崎における中国・オランダとの交易、対馬をつうじての朝鮮との関係、琉球をつうじての中国との関係など、隣接諸国との交流は江戸時代を通じて続いた。(2011年刊 佐藤次高・木村靖二・岸本美緒編)」
と変化している。つまり、「国を閉ざした」ということは言われなくなっているのであるが、これは日本史及び東アジア史の研究が進み、「鎖国」の見直しが進んだ結果である。

江戸時代の「四つの口」

 現在では、江戸時代の日本には、「対馬口」で朝鮮と、「薩摩口」で琉球と、「松前口」でアイヌと、そして「長崎口」でオランダ人や唐人とつながっており、それらを「四つの口」、または「四口」(よんくち)という、というのが定説になっている。長崎口の唐人とは中国人が主体だが東南アジアの人びとも含まれる。そしてこの「四つの口」はそれぞれ間接的に中国に繋がっており、主たる交渉国は中国であった。当時の日本が、経済的な交渉相手とし、文化的な知見を求めた相手国は中国しかなかった。このような日本の対外姿勢を、「鎖国」と呼んだのは、むしろオランダ側だったのであり、幕府の公式な用語ではなかった。鎖国という言葉が現れるのは、ずっと後の1801年、オランダ商館のドイツ人医師ケンペルの著作『日本誌』を翻訳したオランダ通詞志筑忠雄が「鎖国論」として題したのが最初である。

「鎖国」に対する評価

 山川詳説世界史の旧々版にあるように、鎖国によって日本は世界の文明の発達から取り残された、という評価もかつては根強かった。しかし、その同時代のヨーロッパでも「鎖国」―あくまでヨーロッパ諸国との交渉をオランダだけに限ったという意味での―にたいする積極的な評価を見ることもできる。よく知られているカントの『永遠平和のために』では、
(引用)中国と日本は、外国からの客を一度はうけいれてみた。しかし後に中国は来航は認めても入国は認めなくなった。日本は来航すら、ヨーロッパのオランダに認めるだけで、来航したオランダ人をまるで捕虜のように扱って、自国の民の共同体から切り離したのだが、これは賢明なことだったのである。<カント『永遠平和のために/啓蒙とは何か』1795 光文社古典新訳文庫 2006刊 p.187>
と述べている。その前段で、カントは永遠平和のための第三確定条項として「歓待の権利」であるとして、「開化された民族、とくにヨーロッパ大陸で商業を営む諸国」は、ほかの大陸や諸国を訪問する際に、きわめて不正な態度を取っていたことを批判する。彼らの訪問とは、「征服を意味していた」のであり、「これらの諸国がアメリカ、黒人の諸国、香料諸島、喜望峰を発見したとき、これらは誰の土地でもないとされ、そこに住む住民は全く無視され」、軍隊を導入し、住民を圧迫し、人類を苦しめるあらゆる種類の悪の嘆きをもたらしたのだ、と告発する。そのような「歓待に欠けた」態度を取る国に対しては、国を閉ざすことが賢明であり、正しいのだとカントは指摘している。この指摘は、ヨーロッパ諸国の「文明の発達」に背を向ける結果となった当事者である我々(もっとも鎖国政策を採ったのは国民的な判断ではなく、あくまで権力者の江戸幕府であるが)にも、その意味を考えさせる重要な観点であると思われる。

「鎖国政策」から「鎖国体制」へ

 江戸幕府が行った鎖国は、「四つの口」の一つである長崎において、ヨーロッパ諸国との交渉をオランダ一国に限定したものであるが、それはキリスト教(カトリック教)の流入を食い止めるという宗教政策を主とするものであり、同時に貿易を統制して密貿易を取り締まり、その利益を幕府が独占するという経済政策とを統合させたものであった。17世紀後半までにたびたびキリスト教徒に対する弾圧をおこない、寺請制度などによる禁教政策が完成し、また貿易では鄭氏台湾が清朝に降服して、遷界令が撤廃され、長崎における中国貿易が安定したこと伴い、「鎖国政策」は完成した。この段階では「鎖国」という言葉は用いられていないが、18世紀はそのような鎖国政策がもっとも安定した時期であった。
 ところがその間、世界は大きく変動した。ポルトガル・スペインのカトリック国の没落は決定的となり、この二国がカトリックの布教をしつつ領土を獲得していくという動きは全くなくなった。それに対して一時は東アジアから撤退したイギリスと、ルイ14世のもとで新たにアジア侵出を開始したフランスの動きが活発となり、その両国の殖民地抗争は新大陸にアメリカ合衆国を誕生させ、さらにフランス革命をもたらした。また並行してイギリスでは産業革命が始まった。そして一方でロシアがバルトの覇者となり、盛んに南下政策とともに東アジアへの進出を開始した。
 オランダもフランス革命の余波を受けて連邦共和国が崩壊し、一時フランスの支配を受け、1799年にはオランダ東インド会社を解散させるという大きな変化を迎えた。こうして19世紀の日本近海にはイギリス、フランス、アメリカ、ロシアという新しい勢力が姿を現すようになった。それは従来の「鎖国政策」では対応できない、まったく新しい動きだった。この動きに対して苦慮した幕府は、これらの諸国に対して、従来の政策を幕府の「祖法」として守るという体制をとることとした。ここで初めて「鎖国」という概念が国家政策に取り上げられ、「鎖国体制」が採られることとなった。それはもはやキリスト教対策という枠組みを超え、西洋近代に対する国家装置へと転換した。
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ノートの参照
7章1節 カ.東アジアの状況
9章2節 ア.アジア市場の攻防
書籍案内

カント/中山元訳
『永遠平和のために/啓蒙とは何か』
2006 光文社古典新訳文庫

松方冬子
『オランダ風説書』
2010 中公新書