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日本のキリスト教

1549年、イエズス会のザビエルによって伝えられ、南蛮貿易とともに宣教師の活動が拡がり、17世紀初頭までに西日本中心に拡がった。しかし、豊臣秀吉のバテレン追放令から禁教が強まり、江戸幕府は鎖国に踏み切る。

キリスト教の伝来

 対抗宗教改革の一環としてカトリック教会の立場でのキリスト教布教を熱心に展開したイエズス会では、その創設者の一人であるフランシスコ=ザビエルが、インドのゴアから中国布教に赴く途中、フィリピンで日本人アンジローに会い、1549年まず鹿児島に上陸して、日本布教の第一歩を記した。領主島津貴久に謁見した後、平戸、山口を経て京都に至り、将軍への謁見を願ったが、当時室町幕府の将軍足利義輝が細川氏の家臣三好長慶によって京都を追われていたため果たすことができず、山口に戻った。そこで大内義隆の保護を受けた。また府内(大分)では大友宗麟に謁見、日本でのキリスト教布教の基礎を築いたが、1551年に豊後からインドに向かった。
 特にポルトガルがアジア貿易の拠点として設けたマカオは、ポルトガルがローマ教皇からアジア布教の使命を与えられたことから、キリスト教布教の拠点となり、そこから日本に渡ったポルトガル商船に同乗したキリスト教宣教師が日本に渡来し、平戸や長崎を中心に布教活動を行ない、信者はキリシタンと言われるようになった。

Episode 日本人最初のキリスト教徒

 ザビエルがマニラで日本布教を決意したのは、一人の日本人に会い、その話から布教の希望を抱いた事による。この日本人はアンジロー(またはヤジロー)といい、鹿児島の出身だが殺人を犯し、国外に逃亡、東南アジアを転々とし、マニラでザビエルにあったらしい。アンジローはザビエルから洗礼を受けて、日本人最初のキリスト教徒となり、ザビエルに伴って1549年、鹿児島に戻った。その後、日本で伝道にあたっがが、その後の消息は不明である。

織田信長のキリスト教容認

 1559年、宣教師ガスパル=ヴィレラが京都に入って布教しようとしたが、京都は室町幕府の権威がまったくなくなって、戦国大名の争乱が続いており、比叡山や法華宗などキリスト教を非難する勢力も強かったので、布教は出来ないでいた。織田信長が1568年に京都に入ると事情は一変し、信長はルイス=フロイスらに京都での布教を認め、教会が教会学校(セミナリオ)が作られるようになった。キリスト教布教を積極的に認めた織田信長は、仏教勢力に対しては苛酷な弾圧を行い、1571年には延暦寺を焼き討ちし、一向一揆を盛んに弾圧した。信長が兼営した安土城の城下にも教会やセミナリオ、コレジオ(神学校)が作られた。

天正少年使節の派遣

 特に九州の戦国大名は、宣教師を通じてポルトガルとの交易である南蛮貿易を有利に行い、鉄砲や火薬などを手に入れるために、キリスト教に改宗しキリシタン大名となったものも現れた。代表的なキリシタン大名である大村純忠は1579年、長崎と茂木をイエズス会に寄進し、有馬氏は浦上村を同じく寄進した。また大村・有馬・大友の三大名は、巡察使ヴァリニャーノの勧めにより、1582年に天正少年使節をローマ教皇の元に派遣、使節伊東マンショらは苦難の航海の末、1585年にローマ教皇グレゴリウス13世に謁見した。


キリスト教禁止令

豊臣秀吉のバテレン追放令

 島津氏を討って九州を平定した豊臣秀吉は、長崎とその周辺がイエズス会領とされている状況を問題視し、1587年にバテレン追放令を発した。バテレンとは、ポルトガル語のパードレが訛ったもので、宣教師を意味する。ここでザビエル以来のキリスト教布教は36年目で大転換し、自由な布教ができないこととなった。この時秀吉は、イエズス会に対して、・人民にキリスト教を強制している、・寺社を破壊している、・大切な家畜である牛馬を食べている、・ポルトガル人は日本人を奴隷として買い取っている、の4点を詰問しており、長崎・茂木・浦上の地を没収して直轄領とた。しかしそのねらいは、長崎における南蛮貿易の利益を秀吉が抑えることにあったので、ポルトガル船の来航は禁止されなかった。またバテレン追放令後のキリシタン取り締まりは、それほど厳しくはなく、日本に残った宣教師も多かった。彼らは非公然ではあるがかなり自由に活動していた。またこの段階では日本人のキリスト教信仰が禁止されたわけはなかった。また、中国でキリスト教の布教禁止が行われるのはこれよりかなり後の1723年の雍正帝の時である。

長崎二十六聖人の殉教

 ところが、1596(慶長元)年十二月、突如、二十六聖人殉教事件が起こった。京都、大阪などで捕らえられた神父ペドロ=バプチスタなどのスペイン人やポルトガル人の六名と日本人信徒二十名は、片耳をそがれ、町々を大八車で引き回されたのち、長崎に送られ、刑場で処刑された。最年少の12歳の茨木ルイスは、信仰を捨てれば自由にするといわれたが、これを拒絶し、十字架上で「パライソ(天国)、パライソ、イエズス、マリア」と叫びながら息絶えた。この事件はたちまち世界のキリスト教国に伝わって、1627年には教皇ウルバノ8世によって列福式が行われ(聖者に次ぐ福者とされた)、1862年には教皇ピオ9世によって「聖人」に列せられた。昭和36年には刑場あとに記念碑が建てられ、「殉教の丘」といわれてカトリック信者の世界的な巡礼地とされている。
 このとき中心人物とされたペドロ=バプチスタは、フランシスコ会の宣教師であった。イエズス会がポルトガルを背景としていたのに対して、フランシスコ会はスペインを背景とし、マニラを拠点にアジア布教を勧めようとしていた。秀吉がフィリピンとの貿易交渉を始めたことをきっかけに、ペドロ=バプチスタはフィリピン総督の外交使節として1593年に来日し、そのままさかんに布教活動を開始した。この新来のフランシスコ会は禁教令を無視して極めて情熱的、戦闘的に布教したことが弾圧された一因であった。また1596年に土佐に漂着したスペイン船サンフェリペ号の乗組員が、世界地図を広げてスペイン王国は宣教師の布教ののちに軍隊を送って征服し、版図を拡大したと豪語したことが咎められたとも伝えられている。<原田伴彦『長崎』1964 中公新書 p.29-31>

徳川家康の禁教令

 徳川家康は江戸幕府を開くと、秀吉が開始した朱印船貿易をさらに活発に行い、貿易の利益を上げようとした。またスペイン商船とも交易を認め、旧教国ポルトガル・スペイン(この両国は1580年にスペインがポルトガルを併合し同君連合となっていた)との南蛮貿易もさかんになった。そのため、カトリック宣教師によるキリスト教布教についても黙認され、1609(慶長14)年には全国の信者が75万という最盛期となった。しかしこの年に新教国のオランダ商船が来航し、平戸に商館を設け、さらにイギリス商館も平戸に開設されると、これら新教国(日本側は紅毛人と呼んだ)は盛んにポルトガル船・スペイン船に対する海賊行為を働き、一方で幕府に対しカトリック両国が布教を通じて日本を植民地化しようとしていると訴えた。豊臣氏の勢力を倒す大坂の陣を控えていた家康は、キリスト教勢力が豊臣方に付くことを恐れたこともあって、キリスト教禁教に傾き、1612年に天領(幕府領)でのキリスト教禁止に踏み切り、さらに翌年に全国禁教令を発布して京都や長崎など全国の教会を破壊した。このとき、高山右近や内藤如安など信者の有力者はマニラなどに国外追放となった。
 その背景には、1604年以来、中国産の上質生糸である白糸を輸入する際、幕府の定める価格で一括購入し、特定の商人に分配して販売させる糸割符制度による貿易統制を強め、キリスト教宣教師を介した南蛮貿易への依存度が減少していたことがあげられる。

元和の大殉教と鎖国政策

 大坂城が落城して完全な統一政権として確立し、1616年に大御所家康が死去すると、幕府はキリスト教禁止と貿易統制を統合する対外政策として鎖国政策に傾いていった。その象徴が1622年のキリスト教大弾圧(元和の大殉教)であった。これはイギリス船とオランダ船が共同で拿捕した船から、日本に密航しようとしたポルトガル人宣教師が発見されたことからキリシタン取り締まりが強められ、国内で摘発されたイエズス会・フランシスコ会・ドミニコ会の宣教師18名、修道士3名と日本人信者34名が長崎で処刑された。
 こうして1630年代には三代将軍家光のもとで次々と鎖国令が発せられ、1639年のポルトガル人の来航禁止、1641年のオランダ商館の長崎出島移転で鎖国体制は完成する。ただし、「鎖国」という言葉が当時使われたわけではなく、対外的な窓口が長崎だけになったというわけではないので注意を要する。  → 鎖国の項を参照
 幕府はキリスト教徒を取り締まるために踏絵を実施し、また寺請制度によって檀那寺に登録することで管理した。鎖国下の日本で、キリスト教が禁止され、その探索のために踏絵が行われていたことは、オランダ人を通じてヨーロッパにもよく知られていたようで、イギリスのスウィフトが1726年に発表した『ガリヴァー旅行記』でも出てくる。

参考 ヴォルテールの論じた日本の禁教

 豊臣秀吉、徳川家康と続いた日本におけるキリスト教迫害と鎖国への転換について、日本側から見ると、犠牲となった宣教師への同情と鎖国による日本の停滞、といいったマイナスイメージで語られることが多い。しかし、フランスの代表的な啓蒙思想家ヴォルテールは『寛容論』(1763)で次のように論じている。
(引用)日本人は全人類中最も寛容な国民であり、国内には温和な十二の宗派が根を下ろしていた。イエズス会士がやって来て十三番目の宗派を樹立したのだが、しかしすぐに他の宗派を容認しようとしなかったために、御存知のような結果を招いてしまった。すなわち、カトリック同盟の際(引用者注。フランスの宗教戦争のこと)にも劣らぬすさまじい内乱がその国土を壊滅してしまったのである。そのあげく、キリスト教は血の海に溺れ死んだのである。日本人は外の世界に自国の門戸を閉じ、イギリス人の手によってブリテン島から一掃された手合と同類の野獣のごとき存在としてしかわれわれヨーロッパ人を見なくなるに至った。大臣コルベール卿は日本人の助力を得たいと思ったが、相手側ではわれわれフランス人の助力を少しも必要としなくなったので、この国と貿易関係を樹立する企ては水泡に帰した。大臣は相手の意思がてこでも動かないのを知らされたのであった。それゆえこのように不寛容を説き、またこれを遂行することをしてはならぬ所以をわが旧大陸すべてがわれわれに立証しているところである。<ヴォルテール/中川信訳「寛容論」(『カラス事件』富山房百科文庫 1978所収) p.105-6>
 → キリスト教の布教禁止(中国)

隠れキリシタンの摘発

 この長く厳しい禁教の中でも、長崎とその周辺にはいわゆる「隠れキリシタン」が信仰を守っていた。彼らは踏絵を踏んだあとは密かに「痛恨の祈り」を捧げてその罪をきよめ、仏壇の裏にイエスやマリア像を隠し、盆踊りにカムフラージュして集会をもつなどして役人の目をくらましていた。しかし、秘匿された信仰も時には露見し、長崎では1790(寛政2)年の一番崩れ、1842(天保13)年の二番崩れ、1859(安政6)年の三番崩れといわれる検挙が続いた。既に幕府が開国してかなり経った1867(慶応3)年の四番崩れでは、茂吉というキリシタンが死んだとき、檀那寺の僧を招かずに自葬したことに端を発し、浦上村の村民が寺請制度を拒否するに至った。捕らえられた外国人宣教師や信者に激しい拷問が加えられ、それに対してフランス、プロイセン、アメリカなど列国の公使や領事が抗議し、国際問題となった。しかし問題解決の前に幕府は倒壊した。

明治政府のキリスト教弾圧

 ところが明治新政府もキリスト教禁止の幕府政策を継続した。明治政府は浦上村のキリシタンは全村民流罪という決定を下し、3414名が長州、薩摩、津和野、福山、徳島などの各藩に配流され、さらに長崎一帯の村々に及んだ。浦上キリシタンはこの流罪を「旅」といったが、旅先で人間扱いをされない激しい迫害を受け、特に長州藩ではその苦しみに耐えかねて千余名が背教し、562人が死んだ。このキリスト教徒弾圧を決定した政府の中心人物は維新の立役者であった木戸孝允や井上馨であった。明治政府は、文明開化をめざしながらも近代的な人権思想に無知であり、新たなである国家神道による思想統制をはかろうとしたものであったが、そのキリスト教徒弾圧は外国使節団の激しい抗議を受けて、ようやく1873(明治6)年に禁教令を廃止し、家康の1612年の天領禁教令から262年ぶりに日本におけるキリスト教信仰の自由が回復した。
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ノートの参照
7章1節 カ.東アジアの状況










































































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ヴォルテール/中川信訳「寛容論」
『カラス事件』所収
富山房百科文庫 1978