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平戸

九州西北に位置する港。1550年にポルトガルが商館を設け南蛮貿易で栄え、以後スペイン、オランダ、イギリスも商館を設けた。

長崎の北、北松浦半島の先にある平戸島にある古くからの港で、1550年にポルトガル船が来航し、領主の松浦氏から商館の設置を認められ、交易が始まった。しかし、松浦氏はキリスト教の布教は認めなかったので、ポルトガル人は1570年に長崎を領主大村氏から許可を得て寄港地とした。スペインはポルトガルより遅れて、1584年に平戸に商館を設けた。その後平戸はいわゆる南蛮貿易の中心地として栄え、とくにポルトガル船はマカオとの間で、スペインはマニラとの間で活発な交易を行った。
 1609年にはネーデルラント連邦共和国(オランダ)の東インド会社の商船が入港して、1619年からはバタヴィアの出先機関として日本との交易にあたった。さらに1613年にはイギリスの商船が入港して、平戸に商館を設けた。こうして平戸はヨーロッパの4ヵ国の対日貿易の拠点として、多くの商船が出入りし繁栄した。1616年には中国船を除く外国船の入港を平戸と長崎に限定する措置がとられた。
 イギリスは1623年に日本との貿易から撤退して平戸の商館を閉鎖し、江戸幕府の鎖国政策も徐々に進行して、24年にはスペイン船の来航が禁止された。1634年にポルトガル商館は長崎に新たに築造された出島に移され、さらに1639年には来航が禁じられ、1641年に平戸のオランダ商館が長崎の出島に移されたため、平戸の貿易港としての繁栄は終わった。

資料 平戸オランダ商館の日記

 平戸のオランダ商館は1609年から1641年まで活動を続けたが、その間のバタヴィアの総督に宛てた手紙や公式の日記、帳簿類がハーグ国立文書館に多数残されている。これらの記録は、南蛮貿易・朱印船貿易・糸割符制度、そして鎖国に至るさまざまな交渉など、幕府の公式な法令の背後の緊迫した遣り取りを知る唯一の貴重な資料となっている。これらの記録を翻訳した永積洋子さんは『平戸オランダ商館日記』全4冊を刊行したが、それをもとにした一般向けの文庫本にも興味深い話が満載されている。
 とくに驚かされるのは、オランダ商館で翻訳された幕府の法令がたいへん正確であること、日本側の役人の賄賂要求や役得、幕府高官が貿易に出資して利益を得ていたこと、商館員と平戸藩主松浦重信や長崎代官末次平蔵らとの生々しい取引、オランダ船の海賊行為、タイオワン事件や島原の乱とオランダの関わりなどである。

Episode オランダが残った理由

 島原の乱は江戸幕府にとってキリスト教信仰と百姓一揆が連携した深刻な反体制暴動と捉え、キリスト教の徹底的な取り締まりを最終的に決意させ、キリスト教を根絶やしにするためには宣教師を密かに乗船させ続けているポルトガル船の来航を、全面的に禁止するしかないと考えるようになった。島原の乱の鎮圧のため九州まで来ていた松平信綱は、オランダ商館が直ちに大砲を搭載した商船を差し向け、反乱軍に向けて発砲して鎮圧に貢献したことを大いに悦び、帰路に平戸によってオランダ商館長をねぎらった。幕府要職はポルトガル船の来航を禁止した場合、それと同じ量の生糸をオランダ船が持ってくることができるか、またポルトガルがマカオから反撃した場合、オランダはそれを抑えられるか、などの点を密かにオランダ商館に問い合わせた上で、1639年にポルトガルとの国交断絶に踏み切った。しかし、一方でオランダも同じキリスト教国であることには違いないという疑念をぬぐい去ることはできなかった。そこで、平戸のオランダ商館を閉鎖して、長崎の出島に移すことを考えた。出島はもともとポルトガル人を日本人と接触させないための収容所として建設したものであったが、ポルトガル人は全面追放となったので、空いていた。長崎の糸割符仲間の商人たちは取引相手がいなくなってしまうと困るので、オランダ商館を平戸から長崎に移すことを熱望した。
 長崎商人の要望に応える口実で幕府は平戸のオランダ商館を長崎に移すことを決め、特使井上筑後守政重を平戸に派遣、1640年11月9日、商館長カロンに通達した。商館取り壊しの表だった理由は、キリスト教暦の年号を掲げていることだった。このとき、井上はオランダ側が激しく抵抗するか、あるいは再考を懇願して、流血の事態になると予測し、屈強な男20人をのも陰に待機させて、もし拒否したらその場で商館長を殺す手はずになっていた。また戦争に備えて密かに肥前、肥後、有馬の兵士にオランダ船を破壊する準備をさせていた。ところが商館長カロンは一言も抗議せず、平伏して受諾した。あっけなく商館取り壊しが決まり、石造りの建物は直ちに破壊された。カロンは、オランダ商館長の任期は一年という幕府の定めに従って国外に退去、翌年、新館長が着任してオランダ商館は長崎の出島に移り、平戸の時代は終わった。
 カロンが何故簡単に承知したか。カロンは1619年にコック見習いとして平戸に来てから日本滞在が長く、江戸参府にもたびたび同行し、完全な日本語も話せた。彼は、将軍の命令には「承知した」と答えるしかないと知っていたのだった。永積洋子さんは、彼が「一言も抗議せず、将軍の命令を直ちに実行したことは、ヨーロッパ諸国の中で、オランダだけが日本との通交貿易を許されることになる要因の一つである」と書いている。カロンはその後、セイロン遠征の艦隊司令官、台湾長官、バタヴィアの事務総長などを歴任して50歳で帰国、フランスのコルベールフランス東インド会社を設立するにあたってその主席理事として招請され、1667年に67歳で再びアジアに向かった。しかしフランスに協力したためオランダからは永久追放に処せられ、1673年にインドのスラットからフランスに帰る途中、リスボン港外で船が浅瀬に乗り上げ、ここで溺死した。<永積洋子『平戸オランダ商館日記』1981 講談社学術文庫 2000刊 p.236-256,330>
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9章2節 ア.アジア市場の攻防
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永積洋子『平戸オランダ商館日記』
永積洋子
『平戸オランダ商館日記』
2000 講談社学術文庫