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ゼーランディア城

1624年、オランダが台湾南部に設けた支配拠点。1662年までオランダの台湾支配の拠点となった。

 オランダ(ネーデルラント連邦共和国)は1602年に東インド会社を設け、アジア貿易に進出した。東南アジアから中国・日本にも進出し、平戸に商館を設けて盛んにポルトガル商船や中国商船に対して海賊行為を展開した。しかし、中国沿岸に拠点を設けていなかったので、まずポルトガルの拠点マカオを奪おうとしたが抵抗を受けて奪うことができず、また澎湖島の占領を狙ったが、これも明の反撃で失敗した。そこで、台湾に眼を着けて、1623年にその南部のタイオワンの占領をはかった。タイオワンは現在の台南市の外港である安平のことで、オランダはそこに城塞を建築し、ゼーランディア城と名づけた。ゼーランディア Zeelandia とは、オランダのゼーラント州に由来する(ニュージーランドに同じ)。

タイオワン事件

 1628年の台湾のタイオワン(ゼーランディア城)で起こった日本の末次平蔵所有の朱印船とオランダ商館の衝突事件。その頃、長崎を拠点にした日本の朱印船貿易もタイオワンにも入港し、中国商人から生糸を得ていたので、その地がオランダに占拠されたため新たな紛争が起こった。有力な朱印船貿易家で長崎代官であった末次平蔵は、配下の浜田弥兵衛に指揮させた持ち船二隻をタイオワンに入港させたところ、オランダの長官ノイツは日本船に課税した上、武器を携行しているとして乗組員を捕らえた。交渉のために長官の屋敷に赴いた浜田はいきなりオランダ人二人を殺し、ノイツに飛びかかって縛りあげて日本船に連れ帰った。オランダ側と浜田弥兵衛が交渉し、長官ノイツを釈放する代わりに互いに人質を出し合い、幕府の裁定を仰ぐことになった。ところが幕府では折りから将軍秀忠が亡くなったこともあって、裁定が遅れ、その後5年にわたって幕府とオランダは絶交状態が続いた。ようやく強硬派であった末次平蔵が死去し、オランダ側もバタビアの総督スペックスがノイツの責任を認めて損害を賠償する措置をとったので1632年に事件は解決し、貿易が再開された。

Episode 貿易の利益で私腹を肥やした幕府高官

 このタイオワン事件については日本では浜田弥兵衛の冒険談としてしか知られていない。ところが、平戸のオランダ商館に保存された日記が解読された結果、末次平蔵の背後には時の江戸幕府の幕閣にあった土井大炊頭利勝や酒井雅楽頭忠世らが幕府高官に禁じられていた貿易への出資や、朱印船貿易家への利益誘導、はては長崎奉行竹中重義、江戸町奉行島田弾正らがオランダ商人に賄賂をねだるなど、さまざまな形で利害を有していたことが明らかになった。なお同じくオランダ商館日記の一部には、末次平蔵は悪事が露見することを恐れるあまり発狂したとか、幕閣の誰かに暗殺されたなどの噂があったことが記録されている。<永積洋子『平戸オランダ商館日記』1981 講談社学術文庫版 2000 p.66-79>

オランダの台湾支配、その後

 オランダは1624年から1662年までの38年間、ゼーランディア城を拠点に台湾を支配した。台湾北部にはスペインが進出したが、オランダは1642年にスペイン人を撤退させた。しかし、1620年代から福建などに本拠をおいた海賊の鄭芝竜が明の後援を得て台湾に進出、その子鄭成功は台湾を清に抵抗する拠点としようとしてゼーランディア城のオランダ軍を水軍で包囲し、1661年に落城させた。翌62年にオランダは台湾から撤退し、その支配が終わった。
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ノートの参照
7章1節 カ.東アジアの状況
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永積洋子『平戸オランダ商館日記』
永積洋子
『平戸オランダ商館日記』
2000 講談社学術文庫