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ネーデルラント連邦共和国(1)

1568年にホランド州を中心としてスペインからの独立戦争を開始し、1581年に独立を宣言、1648年に国際的に承認された。17世紀に積極的に海外進出を行い、オランダ領東インド植民地を経営。鎖国中の日本とも交易を継続した。

 現在オランダと言われる地域は、ネーデルラントの北部を占め、1568年にスペインからのオランダ独立戦争を開始し、北部のホラント州を中心とするユトレヒト同盟の7州が1581年にネーデルラント連邦共和国として建国を宣言した。1609年にはスペインとの休戦協定が成立し、事実上の独立を達成した。その後、三十年戦争の講和条約である1648年のウェストファリア条約によって国際的に独立が承認された。厳密にはネーデルラント連邦共和国であるが、日本ではその中心であった州の名からオランダ共和国とも言う。 → ネーデルラント連邦共和国(2)

連邦共和国の実態

 この国家はその名の通り7州の連合国家であり、連邦議会をもち、共和政の形態をとっていた。しかし、その国家組織は「世界史上もっとも奇妙で、もっとも複雑である」と言われており、連邦共和国でありながら世襲の「オランダ総督(全州総督)」を君主として戴く形態であった。また、7州の代表で構成される連邦議会が最高議決機関であり、連邦全体の行政、外交、軍事を統括するが、各州はそれに従う義務はなく独立性が強かった。事実上連邦議会を動かしていたのは他の州に対し圧倒的な経済力を持つホラント州であり、その中心がアムステルダムの実権を握る大商業ブルジョアジーである都市貴族(レヘンテン)であった。ネーデルラント連邦共和国の共和政はこのホラント州の都市貴族によって支えられていた。一方で、法的には連邦共和国の最高軍事司令官にすぎない「総督」(スタットハウダー)は独立戦争の指導者オラニエ公ウィレム以来、オラニエ家(英語ではオレンジ家)が独占し、1631年には総督職のオラニエ家の世襲が法制化され実質的なオランダ王家となった。オラニエ家を支持したのは、中小市民や農民層であった。しかし海外植民地の利益を背景にした都市貴族層の勢力もその後も続き、議会共和政を主張して総督の統治を否定、二次にわたる無総督期が出現する。17世紀のオランダ共和国の歴史は、隣接するイギリス・フランス両国との関係で激しく動いていく。

海洋帝国としての繁栄

 オランダは、独立戦争ではイギリスの支援でスペインからの独立を達成したが、17世紀に入る頃からスペインポルトガルの旧勢力に代わって海上交易に進出した。国土の狭いオランダは、ヨーロッパ各国間、あるいはヨーロッパと新大陸やアジアとの物資を中継する、中継貿易に食い込んみ、1602年には東インド会社を設立してインド及び東南アジア、中国・日本との交易に乗りだし、さらに1621年には西インド会社を設立してアメリカ新大陸に進出した。この東西のインド会社は、当時スペインに併合されたポルトガル領で盛んに略奪を行い、ポルトガル人の勢力を駆逐していった。それによって得られた富がスペインからの独立戦争の財源となった。また当時ヨーロッパ大陸では三十年戦争(1618~48年)が展開されていたが、オランダは直接的な惨禍が拡がることなく、経済発展を続けた。

日本との交易

 1600年、オランダのロッテルダムの商人が派遣したリーフデ号が日本の豊後に漂着し、乗員のヤン=ヨーステンやイギリス人ウィリアム=アダムスが徳川家康に用いられたことから、オランダの東アジア進出が始まり、1602年の東インド会社設立となった。1609年に平戸に商館を設け、江戸幕府が鎖国政策を採った後、1641年に長崎の出島に商館を移されたが、日本にとっての唯一の西欧との窓口となって幕末まで続いた。

アジア諸地域への進出

 オランダは1596年、初めてジャワ島西部のバンテンに姿を現し、1609年に東インド総督を置き、アジアにおけるすべての商館をその指揮下に置き、1619年にバタヴィアを建設して根拠地とした。モルッカ諸島(香料貿易)をポルトガル、イギリスと争った。中国本土への進出には失敗したが、台湾に進出し、拠点として1624年にゼーランディア城を設けた。なお台湾は、1662年に鄭成功によって奪われたために撤退した。また、1641年にはマラッカをポルトガルから奪い、オランダ領東インドへの進出の足場とした。オランダの貿易活動はアジア各地の産物を売買する中継貿易であったが、同時に公然とした海賊行為であり、ポルトガル船がその標的とされた。
 本国とアジアの中継地として1652年にケープ植民地を建設し、アジアでは1656年スリランカを攻略し、植民地を広げた。とくに東インド会社によるインドネシアでの植民地経営はオランダに多くの富をもたらした。
 このオランダの海外進出はイギリスとの利害の対立を強めることとなった。1623年には香料諸島をめぐってのアンボイナ事件でイギリスと衝突して勝利を収め、イギリスは日本も含めて東アジア・東南アジア海域から撤退した。17世紀中葉にはクロムウェル航海法を定めてオランダ商船のイギリス寄港を禁止したことからイギリス=オランダ戦争(英蘭戦争)(1652~74年)を断続的にくり返した。オランダは新大陸では劣勢であったが、アジア・アフリカ方面では貿易拠点を確保し、海洋帝国としての繁栄を維持した。

アメリカ大陸への進出と後退

 オランダは大西洋の奴隷貿易にも進出、さらにアメリカ大陸での植民地獲得を図った。1609年に、ヘンリー・ハドソンを派遣して北米大陸東岸を探検させ、1621年に西インド会社を設立し、イギリス殖民地に割り込む形でハドソン川河口にニューネーデルラント植民地を建設した。さらに1625年にインディアンからマンハッタン島を安価で買収してニューアムステルダムを設置し、その拠点とした。しかしオランダ西インド会社はブラジルへの奴隷貿易などの利益が大きく、植民地農業の経営には不熱心であったため、北米植民地は定着することができず、1664年にイギリスによって奪取され、ニューアムステルダムはイギリス領となってニューヨークと改称された。

17世紀の文化の発展

 スペイン、ついでイギリスとの抗争を展開するなかで、新大陸とアジアに積極的に進出したことは、首都アムステルダムなどを繁栄させ、新しい文化を生み出す背景となった。三十年戦争時代の思想家のグロティウスは『海洋自由論』などでオランダ海洋帝国の理論的な基盤を作った。また、またフランス人の哲学者デカルトはオランダで活動し、その大陸合理論はスピノザに継承された。科学のレーウェンフック、画家のレンブラントなどもアムステルダムで活躍した。

オランダの繁栄の基盤

 17世紀のオランダはウォーラーステインの提唱する「近代世界システム」でも最初のヘゲモニー国家となったとされているが、国土面積としては小国に過ぎないオランダが世界経済の中で優位に立てたのは、アムステルダムにおける中継貿易と金融による利益だけでなく、ライデンなどの毛織物工業、東インド会社によるアジア貿易によって得られた富があった。単純に中継貿易国とだけととらえることはできない。そのような経済的繁栄と文化的発展ををイギリス・フランスとの激しい戦争を展開しながら実現したことは驚異である。

独立後の連邦共和国の推移

 オラニエ家はウィレムの次にマウリッツ、ウェレム2世という有能な人物が出て、独立戦争を指導し、1648年に国際的に独立を承認させるまでになったが、その間、実施的な王政を目指すようになった。もともとオランダ内部には議会共和政を志向する都市貴族(大商人)層と、王権強化を志向するオランニェ派が対立しており、前者は宗教的な寛容を主張、後者はカルヴァン派による宗教の国家統制を主張するという宗教的対立もあって、政治的混乱が続いていた。
第1次無総督期 独立後もその両派の対立は解けず、1650年にウィレム2世が24歳で若死にすると、その子ウィレム(後の3世)も子供だったため、都市貴族層はオラニエ家の総督を認めず、州議会による統治としたため、総督は不在となり第1次無総督期(1650~72年)が続いた。その間ヤン=デ=ウィットがホラント州の実質的な首相として権力を握った。
英蘭戦争 さらにイギリスでピューリタン革命が起き、権力を握ったクロムウェル航海法を制定し、植民地貿易の利益をオランダから奪おうとした。そのために連邦共和国は苦境に陥って、1652年に英蘭戦争(第1次)に突入した。これは1654年に和平となったが、王政復古後のイギリスはさらに航海法を再制定し、1664年にはオランダのアメリカ植民地(ニューネーデルラント)を攻撃し、ニューアムステルダムを占領してニューヨークに改めた。それを機に1665年に第2次英蘭戦争となり、オランダ海軍はイギリス海軍との激しい海戦を戦った。
 しかし、その頃フランスで親政を開始していたルイ14世が盛んに領土拡張策に乗り出し、1667年にフランドルに侵入(フランドル戦争)したため、オランダは脅威を感じイギリスとの戦争を同年に講和させた。

ネーデルラント連邦共和国(2)

1688年のイギリス名誉革命で、オランダ総督ウィレム3世がイギリス王ウィリアム3世となる。18世紀には総督の統治する共和制は動揺が続き、またイギリス・フランス・プロイセンの周辺の強国におされて衰退し、フランス革命の時期にネーデルラント連邦共和国は消滅する。オランダ領東インドは植民地として存続した。

ウィレム3世の時代 17世紀後半

イギリスとフランスの侵攻 1670年にはイギリスのチャールズ2世がカトリック復興を策してフランスのルイ14世と提携(ドーヴァーの密約)したため、オランダは孤立、ヤン=デ=ウィットは陸軍に影響力のあるオラニエ公ウィレム3世(このとき21歳)を担ぎ出し、陸軍総司令官に任命した。1672年、ほぼ同時に第3次英蘭戦争オランダ侵略戦争が開始され、オランダは最大の危機に陥った。
総督復帰と1672年の勝利 民衆はオラニエ公ウィレム3世の下で戦うことを要求し、その結果、オランダ総督への復帰が実現した。ウィレム3世の下で結束したオランダは、海軍が英仏連合艦隊を破ると、イギリス議会が戦費の支出を拒否したためチャールズ2世が侵攻を断念して脱落(1674年、英蘭戦争の終結)、さらに陸軍はフランスの大軍に対して干拓地の堤防の堰を開く洪水作戦を敢行し、侵略を阻止、さらにフランス軍が基地としていたボンを占領、フランス軍を撤退させた。1678年、ナイメーヘン条約で講和し、オランダは失地を回復、フランスは正式にオランダの独立を承認した。しかしなおルイ14世の脅威は去らなかったので、1677年、ウィレム3世はイギリスのチャールズ2世の継嗣ジェームズ(後のジェームズ2世)の娘メアリ(後のメアリ2世)と結婚し、イギリスとの提携を強化した。
イギリス名誉革命 1688年、イギリスのジェームズ2世が、カトリックを強要しようとして議会と対立すると、イギリス議会はウィレム3世をイギリス国王に招聘しようと密使を送った。ウィレム3世は母がチャールズ2世の娘であり、また妻がジェームズ2世の娘メアリであり、しかもプロテスタントであったからである。ウィレムはその要請に応え、軍隊を率いてイギリスに上陸、ジェームズ2世(岳父にあたるわけだが)は戦わずしてフランスに亡命、ここにウィレム3世はイギリス国王ウィリアム3世として、妻のメアリ2世とイギリスを共同統治することとなった。これがイギリスの名誉革命である。オランダ総督を兼ねているので、これによってイギリスとオランダは実質的な同君連合王国となった。  → ウィレム3世のイギリス遠征の意図については名誉革命の項を参照。
ファルツ戦争とウィリアム王戦争 ヨーロッパ大陸では、ルイ14世はナイメーヘン条約後も侵略をやめず、ストラスブール、ルクセンブルクを併合した。それに対抗するためウィレム3世は1688年にスペイン、ドイツ諸侯との間でアウクスブルク同盟を結成し、フランスの脅威に対抗した。ルイ14世は同年、ファルツ、ラインラントに侵攻、ファルツ戦争(プファルツ継承戦争、アウクスブルク同盟戦争、九年戦争ともいう)が開始された。この戦争はウィレム3世のイギリス上陸(名誉革命)と同時並行で行われていた。イギリスを平定したウィレム3世(つまりウィリアム3世)は大陸に戻り、フランス軍と戦うこととなった。しかもこの時、一方ではアメリカ植民地支配を巡って、フランスと戦った。それはウィリアム王戦争といわれている。ファルツ戦争は、1697年、ライスウェイク条約で講和が成立、フランスはようやくウィレムをイギリス国王として承認し、ストラスブール以外の占領地から撤退した。
オランダの低落始まる ウィレム3世(ウィリアム3世)が戦ったフランスとの戦争の時、陸軍ではオランダとイギリスが5対3、海軍では逆にイギリスが5,オランダが3の比率で戦備を分担することとしたが、海軍でイギリスの比率が高かったことは、オランダ海軍の弱体化をもたらすこととなった。またオランダはこの時「自由航行・自由貿易」という伝統的な原則を放棄、イギリスの敵国フランスとの交易を禁止に同調することとなった。このような海軍力の低下、自由貿易の後退がオランダの衰退を招く要因となった。「今やイギリスが海上で主導権を握る事態となり、結果的にはオランダはウィレムの王朝的野望のためにあまりにも大きな代償をはらったということになる」<『スイス・ベネルクス史』世界各国史14 1998 山川出版社 p.265-266>

オランダ共和国の動揺 18世紀

 オランダ総督とイギリス王とを兼ねたウィレム3世(ウィリアム3世)のころから、イギリスの優位が次第に明らかになった。彼は積極的なフランスとの対抗策やイギリス銀行の創設などイギリスの国力を充実させ、海軍力を増強し、その結果、18世紀のイギリスはフランスとの植民地戦争に勝利してアメリカ大陸などに植民地を拡大しイギリス第一帝国といわれる繁栄期を迎える。それにたいして彼の本国オランダは、アメリカ大陸の拠点を失い、その植民地経営の中心はほぼインドネシア経営のみに限定されていく。
イギリスとの分離と第2次無総督期 1702年、ウィレム3世が事故死したが、子供がなかった。イギリス国王の地位はメアリ2世(既に死去)の妹アンが継承したため、オランダとの同君連合は解消されることとなった。しかしオランダ総督は誰が継承するか問題となり、ウィレム3世はオラニエ家の分家の子弟を指名していたが、連邦共和国議会はそれを認めず、再び無総督時代となった。これが第2次無総督期(1702~1747年)である。この時、スペイン継承戦争が始まっており、フランス軍が再び南ネーデルラントへ侵入、オランダはイギリスおよびオーストリアと共同で戦った。この戦争は孤立したフランスが敗れ、1714年のラシュタット条約で、南ネーデルラントはオーストリア領とされ、フランスの緩衝地帯となったため、フランスの脅威は一旦後退した。オランダ連邦の権力は都市貴族が握っていたが、あいつぐ戦争で国家財政は破綻し、また海外貿易の利益はイギリスに奪われ、国際金融市場としてのアムステルダムの繁栄だけが維持されている状態が続き、次第に都市貴族の寡頭支配に不満が強まっていった。
オラニエ家の再々登場 1740年、オーストリア継承戦争が起こるとフランス軍がオーストリア領南ネーデルラントに侵攻したため、オランダ南部ではパニックになった。そのようなとき、連邦議会の実権を握る都市貴族に対する不信をつのらせていた市民が1747年にオラニエ家の分家のウィレム4世を総督にかつぎあげた。これが共和国の史上、初めての全州総督(それまでの総督はホラント州総督といくつかの州総督を兼ねるに過ぎなかった)である。このウィレム4世が現在のオランダ国王の家系につながる。
第4次英蘭戦争と愛国派の台頭 オランダ連邦共和国は七年戦争、続いて起こったアメリカ独立戦争では中立を守った。しかしアムステルダムの貿易商はアメリカと密貿易をつづけていたため、イギリスは1780年、オランダに宣戦布告した。これを第4次英蘭戦争ともいう。イギリス海軍は西インドやインド・スリランカのオランダ領を攻撃、東インド会社の艦船も被害を受けた。この戦いでオランダは海外植民地の多くを失ったためオランダ総督に対する新来も薄れ、国内にはオラニエ家や都市貴族などの従来の支配者層に代わって、より徹底した共和政をもとめる愛国派(パトリオッテン)といわれる勢力が台頭、全州総督はハーグを放棄した。全州総督ウィレム5世は妻がプロイセン王家出身であったのでプロイセン軍の介入を要請、1787年にはプロイセン軍に守られてハーグに凱旋、愛国派を弾圧するという内戦状態となった。弾圧を逃れた愛国派はフランスに逃れ、おりから始まったフランス革命の革命派と合同した。それに対してウィレム5世はイギリス・プロイセンと結んで革命勢力と対抗しようとした。
ネーデルラント連邦共和国の終末 フランス革命の進行する中、1793年にフランス国民公会はイギリスとオランダに宣戦布告し、オーストリア領南ネーデルラントに侵攻した後、1795年にオランダの全土を制圧した。国内の愛国派(共和政派)はフランス軍と結んで、オラニエ家の全州総督支持派と戦い、総督ウィレム5世はイギリスに亡命し、ネーデルラント連邦共和国は終わった。オランダにはバタヴィア共和国が生まれた。バタヴィアとはネーデルラントの古い民族名に因んでいる。

その後のオランダ

 ナポレオンはバタビア共和国を征服して、1806年に弟のルイを国王にしてオランダ王国とした。さらに1810年にはフランスに併合した。ナポレオン没落後のウィーン会議において、オランダ立憲王国として復活し、ベルギーと併せて統治することとなった。しかし、オランダ本国とオランダ領インドネシアを結ぶ中間点として確保していたケープ植民地はイギリス領とされ、オランダ系植民者ブール人は独自の道を歩むことになる。ウィーン体制下で民族主義運動が強まり、1830年にベルギーが独立したため、現在のオランダの領域となった。ベルギーの独立はオランダの財政難をもたらしたので、植民地であるオランダ領東インドに対する収奪を強め、強制栽培制度を実施することになる。 → 19世紀以降のオランダ