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関東軍

日露戦争で獲得した遼東半島(旅順・大連などの関東州)の権益を保護するために日本が中国に駐留させた軍隊。1919年、旅順に司令部を置き正式な関東軍となる。関東とは山海関の東の意味で、はじめは関東州と南満州鉄道の保護にあたっていた。たびたび日本政府、軍中央の統制に反して大陸侵出を独自に進め、1931年、関東軍参謀が謀略により満州事変を引きおこし、満州全域を軍事支配下に置き、1932年に満州国を成立させた。その後は満州全域を守備する軍隊となり、ソ連を仮想敵国として、1939年にはノモンハン戦争で直接衝突した。日中戦争の拡大、太平洋戦争への戦線拡大により兵力を引き抜かれてゆき、1945年のソ連軍の侵攻によって崩壊した。


 日本の20世紀前半の戦争に深く関わった関東軍は、満州事変、満州国設立、ノモンハン戦争など重大な岐路となったできごとを主導した。主として日本近現代史に含まれる事項であるが、とくに日中戦争・第二次世界大戦など世界史の動きの中でも知っておかなければならないことが多い。しかし、関東軍がなぜ強力な権限もち、謀略を行うことができたのか、どのような歴史的経緯があったのか、などについてはまだまだ誤解されている面も多い。特に「歴史総合」の学習で、近現代の日本と世界を学ぶ際に、戦争に最も重要な関わりを持っていた関東軍について正しく理解すること必要と思われる。

POINT  関東軍のポイント  まず、関東軍を理解する上で必要な点をまとめておこう。
  1. 関東軍の前身は、日露戦争の結果、ポーツマス条約で認められた、ロシアから継承した租借地である関東州と、満鉄の鉄道附属地を守備範囲とする海外出先部隊だった。
  2. 1919年、民政機関である関東庁と軍政機関である関東軍が設置された。関東軍司令官は天皇の統帥権に直属する強い権限を持ち、中国の軍閥の抗争に介入しながら、満蒙を日本の生命線と意識して勢力を伸ばした。
  3. 関東軍は1928年の張作霖爆殺事件、1931年の満州事変など謀略によって満州の現地政権を排除し、満州全域を軍事占領して満州国建国を主導した。
  4. 満州国成立後は関東軍司令官は駐満全権大使、関東長官を併任し、日満議定書で満州国の実質的軍事権も掌握した(別に満州国軍も組織された)。
  5. 1935年頃から華北分離工作、内モンゴル工作などに関わり中国本土への軍事侵攻を行った。
  6. 1939年にはソ連軍との間で国境紛争であるノモンハン事件などを独断で進め、敗北した。
  7. 太平洋戦争開始に伴い、兵力を抽出されて弱体化、1945年8月にソ連軍の侵攻を受けて満州国とともに崩壊した。

(1)日露戦争

 日本は日露戦争の講和条約であるポーツマス条約にもとづいて、ロシアから関東州(遼東半島南端の旅順・大連地区)の租借権(25年)とともに、南満州鉄道の旅順・長春間(東清鉄道の一部)の経営権を継承した。同年12月、清国との間で満州に関する日清条約を締結して、清にそれらを認めさせた。
 しかし、関東州と言っても満州全域のことではなく、遼東半島南部のごく一部であり、その租借権とはロシアが1898年に25年間の期限付きで認められていたものを継承したので、1923年には終わることになっていたものである。また関東州外の長春まで伸びる満鉄の沿線の行政と治安維持が認められたにすぎなかった。またこのときすぐに「関東軍」が設置されたのではないことに注意しておこう。関東軍が名実ともに動き始めるのは1919年のことであり、それまでには次ぎにまとめるような経過があったことを押さえておこう。
関東総督府から都督府へ 関東州の統治機構として1905年9月に軍政一般を管轄する関東総督府が遼陽に設置された。関東総督の指揮のもと、関東州と南満州鉄道沿線の守備にあたるため、2個師団の兵力が駐留した。ポーツマス条約の追加約款により、満鉄沿線には1キロあたり15名の守備兵(総計14,419名)を置くことが認められていた。これが後の関東軍の前身であるが、まだ関東軍とは称していない。しかし、関東州の統治を軍人である関東総督が行うことに対しては国内では伊藤博文等の反対意見があり、国際的にも批判が強かった。そのため、早くも翌1906年9月には関東総督府は廃止され、あらたに関東都督府が設置された。関東都督は外務大臣の監督を受けることに変更されたが、駐屯部隊の統率も認められ、しかも総督大島陸軍大将が都督に横滑りしただけだった。これには陸軍の強い意向が示されていた。
南満州鉄道株式会社(満鉄) 同1906年年6月には、南満州鉄道株式会社を設立し、その鉄道運行にあたることになった。このとき、日本は鉄道経営とともに沿線の撫順炭坑、鞍山製鉄所などの付帯事業と、鉄道付属地(線路の両側と駅周辺)の行政権および守備隊駐留権を得た。この旅順~長春間の満鉄本線に加え、日本軍が朝鮮国境の安東と奉天を結ぶ軍用鉄道として設置していた安奉線を加え、1907年4月に南満州鉄道は営業を開始した。関東都督府陸軍部は関東州の防衛とともに、この満鉄の護衛(ポーツマス条約追加約款により線路の両側幅約62メートル)にあたることとなった。
辛亥革命と軍閥抗争 20世紀初頭、世界が大きく変動する中、アジアでも最大の変革である辛亥革命がおこり、清朝の帝政が倒れ、アジア最初の共和国家中華民国が成立した。しかし帝政復活の動きが続き、中国はいくつもの軍閥が争う状態となった。立憲君主政をとる明治日本は共和制の成立に衝撃を受けながら、その混乱は大陸進出の好機ととらえた。それが袁世凱や段祺瑞政権支持という日本政府の姿勢に現れた。また出先である関東州の日本陸軍も奉天派軍閥の張作霖に日本人軍事顧問をつけたり、資金援助をするなど関係を深めていった。
第一次世界大戦と二十一カ条要求 1914年、第一次世界大戦が勃発すると、翌1915年1月、日本は中国政府に対し二十一カ条の要求を突きつけた。中国政府はすべてを拒否することができず、その大部分を認めたが、その第2項には関東州(旅順・大連)の租借権と南満州鉄道の経営権などを99年に延長することが含まれていた。二十一カ条要求の山東半島の割譲や関東州租借延期は中国民衆が強く反発したが、戦後のパリ講和会議で列強もそれを認めたため、1919年5月4日五・四運動が起こった。また、中国政府も旅順・大連(関東州)の返還を日本政府に強く求め、国際社会に訴えた(旅大回収運動)。日本政府はそのいずれも拒否したが、国際的には批判が強まるとともに、現地の関東州でも緊張は高まっていった。
 第一次世界大戦中の1917年、ロシア革命(第2次)が起こり、ソヴィエト政権が権力を握ったことも日本に大きな衝撃を与えた。日本は革命に干渉しシベリア出兵を行ったが、そのとき満州駐留軍も加わった。また、1919年、五・四運動と並んで、朝鮮で日本の植民地支配に対する抵抗運動として三・一独立運動がおこったことは、植民地化に抵抗する民族運動を力で押さえる必要を為政者に強く抱かせた。

(2)関東軍の成立

 1919年4月12日、日本政府はそれまでの関東都督府を廃止し、民政を担当する関東庁と、軍政を担当する関東軍を分離して設置することを決定した。このとき関東都督府陸軍部も廃止され、新たに関東軍司令部が設けられ「関東軍司令部条例」では、軍司令官は陸軍大将か中将が充てられ、天皇に直属して駐屯部隊を統率するとされた。関東軍はこうして遼東半島南端の租借地「関東州」(旅順・大連)の防備と、南満州に在る鉄道線路(満鉄線に限定されていないことに注意)の保護にあたる軍隊となった。<及川琢英『関東軍』2023 中公新書 p.36>
(引用)こうして軍側が日露戦争直後からいつでも望み、そして大正6年(1917年)にはある程度実現された、軍による南満の一手掌握の夢は破れた。ここに新しく生まれた「関東軍」は、形式的には単に関東州と満鉄路線の番兵でしかなくなった。しかし裏返していえば、そのためにこの満洲の日本軍隊は、かえってスッキリした姿になった。「作戦と動員計画に関しては参謀総長の区処(指揮)を受ける」と規定された陸軍大・中将の関東軍司令官は、この後、統帥権独立の名の下に、だれにもわずらわされずに、満蒙の広野で独自の道を歩むことができるようになった。その点に、機構改革の意図とはうらはらに、この軍隊が「独走」する可能性がはらまれていたのである。<島田俊彦『関東軍』1965 中公新書 p.39-40>

国際協調と関東軍

 1920年代は、第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制、さらにワシントン会議で成立したワシントン体制を柱とする「国際協調」が世界の大勢となった。ワシントン会議で日本も署名して中国に関する九カ国条約が成立し、中国の主権尊重・領土保全の原則が認められたことは、従来のような割譲や租借で中国の国土を奪う方式をとることは困難となり、日本も現地の親日的な政権を支援して間接的に支配を及ぼすという形をとらざるを得なくなっていった。その際、まず満州で支援の対象となったのは奉天派の張作霖であった。
 日本の20年代もそのような国際協調時代の制約を受けて、大陸侵出は抑制的で幣原喜重郎外務大臣(加藤高明内閣、若槻礼次郎内閣、浜口雄幸内閣で外相を務めた)がその国際協調外交の推進役となった(幣原外交)。この間は関東軍の動きも一定程度、内閣ー外務省の動きで独走が抑えられていたが、満洲の現地では軍閥張作霖と北京政府の対立が深刻となり、関東軍が政府の外交方針とは別個に、謀略をもってそれらに関わることが次第に多くなっていった。
  • 1924年 第2次奉直戦争 奉天派張作霖が再び北京を目指して進軍、北京の直隷派(呉佩孚)政権と戦った。直隷派の馮玉祥がクーデタで政権を倒し、奉天派に転じた。その結果、北京に段祺瑞(安徽派)を執政とする安徽派・奉天派などの連合政権ができた。このとき、日本政府・軍部は張作霖を支援。現地では謀略で馮玉祥のクーデタを起こさせた。
  • 1925年 郭松齢事件 奉天派の郭松齢が張作霖から離反して奉天を攻撃しようとした。日本政府(幣原外相)は軍事介入をしないことに決し、陸軍中央も関東軍に静観を命じたが、関東軍司令官白川義則大将は現地の判断として郭松齢軍の奉天侵攻を阻止し、張作霖に対して軍事援助を行った。そのため郭松齢の蜂起は失敗した。
 国内では政友会などから幣原外交の協調主義は日本の満蒙権益を喪失させるとして批判が起こった。ソ連の共産主義が満州に浸透することを防止するためにも日本権益を守ること、中国には治安を維持する能力がないので日本軍の積極的な介入が必要、などという主張であった。幣原外相はそれらはワシントン会議の精神、九ヵ国条約に反することであると反論した。

中国情勢の激変

 この間、中国の情勢は大きく変化した。1919年10月、孫文中国国民党を結成して軍閥との戦いと中国統一への新たな歩みを開始し、一方で1921年に中国共産党が結成され、両者は急速に接近して1924年には第1次国共合作が成立した。一方日本は1923年に関東大震災に見舞われ、経済状況が悪化する中、1925年にソ連(1922年にソヴィエト連邦が成立)を承認して日ソ基本条約を締結して接近を図った。孫文は1925年3月に死去したが、中国統一の悲願は蔣介石が受け継ぎ、1926年7月、北伐を開始した。国民革命軍の北伐は順調に進んだが、国共合作の矛盾は次第にふくらみ、1927年4月の上海クーデタで蔣介石は共産党を排除、その余波のためにいったん中断された。
東方会議 1927年6~7月、田中首相兼外相は外務省、陸海軍、植民地関係者、大蔵省などの幹部を集めて東方会議を主催、大陸政策の今後を検討、中国の統一が進むことを認め、従来の張作霖支持策を見直し、日本の特殊権益は自らの努力で保持する「適当の措置」をとるという「対支政策綱領」をとりまとめた。
山東出兵 1928年、蒋介石は北伐を再開、再び華北に迫った。田中義一内閣は居留民保護のためとして1927年5月の第一次に続き、28年4月に第2次として、二次にわたる山東出兵を行った。山東出兵は本国からの部隊とともに、関東軍も派遣された。1928年5月には北伐軍と日本軍が衝突、済南事件が起きている。この衝突は本格的な日本軍と中国軍の戦闘となり、後の日中戦争の前哨戦としての意味合いがあった。しかし蒋介石は日本軍との戦闘の継続を回避して迂回し、北伐軍を北京に向けて北上させた。北伐軍が北京に迫り、北京を押さえていた奉天軍閥張作霖は窮地に追いやられた。

(3)張作霖爆殺事件

 蒋介石国民軍が北京に迫ると日本政府陸軍中央は、北京の張作霖を拠点の奉天に引き揚げさせ、それを支援して南満洲の権益を守ることを策とした。しかし現地の関東軍はこの機会に勢力を満洲全土に及ぼし、独立政権を樹立することを考え、そのためには必ずしも日本に協力的であるとは言えない張作霖を排除する必要があると考えた。この陰謀は関東軍司令官・参謀長などの中枢ではなく、河本大作参謀などごく少数の幕僚と現地部隊によって立案され、実行に移された。
 1928年6月4日、北伐軍に追われ北京を撤退した張作霖は、京奉線が満鉄線と高架で交差するところを走行中、車両ごと爆破されて殺害された。関東軍は、実行犯は国民党の工作員であるとして中央の軍上層にに報告し、奉天軍が軍事行動に出る恐れありとして、その武装解除を計画した。しかし政府と軍中枢は事態の拡大と悪化を恐れ、関東軍のそれ以上の行動を認めなかった。奉天軍閥側も張作霖の死亡を公表しなかったので、日本国内で報道されることはなく、次第に事件の内容が知られるようになっても「満州某重大事件」として扱われ、国民は知ることができなかった。その事実が判明したのは第二次世界大戦が終わり、東京裁判などが進行したことによってであった。 → 詳しくは張作霖爆殺事件参照。
 5日後の6月9日、国民革命軍が北京に入城し、北伐は完了して国民政府の中国統一が成った。それをうけて、張作霖の息子の張学良が12月に「易幟」(国民政府の旗をのもとに合流したこと)によって東三省の中国への帰属が表明された。これによって関東軍の一部幕僚が構想した満洲南部に親日的な独立政権を樹立するという構想は潰えた。日本政府、軍上層も一部参謀の独走であることが判明したため、首謀者河本大佐を退役とした。当然、軍法会議にかけるべき事案であったが、軍の陰謀であることが公然とされることを恐れた首脳によって裁判も回避された。しかしこの一連の動きを昭和天皇から叱責された田中義一首相は総辞職のやむなきに至った。

国民政府の承認と不平等条約の改正

 中国統一を果たした蒋介石の国民政府は1928年6月15日、諸外国に対し、念願であった不平等条約の改正交渉に入った。まずアメリカが1928年7月25日に条約改正に応じ、関税自主権を承認、そのうえで11月に国民政府を正式に承認した。ドイツ、イギリス、フランスなど主要国がそれに続き、日本は済南事件の処理などで遅れていたが、浜口雄幸内閣の幣原喜重郎外相が主導して、1929年6月に国民政府を承認は、翌1930年5月には関税自主権の回復を認めた。
 政府はこのように中国との関係の正常化を進めたが、関東軍は逆に危機感を強めていった。それは国民政府による中国統一が国際的にも承認され、それが東三省(満州)に及べば、南満洲の日本権益が脅かされるのではないか、という防衛本能的な恐れであった。国内でも国粋主義団体や国家主義者は、このころから日露戦争での多大な犠牲を払って獲得した南満洲のの権益を守れとさかんに発言するようになった。1930年11月14日、東京駅頭で浜口雄幸首相が右翼に銃撃され重症を負った(翌年死去)は、直接的にはロンドン軍縮会議で海軍の軍縮に同意したことに対する統帥権干犯という非難から起こったことであったが、当時の日本に蔓延した軍事力による膨張をはかることで危機を打開しようという社会的な雰囲気が強まっていることも確かであった。中国の要求は条約改正に次いで、旅順・大連・満鉄の回収、関東軍の撤退にまで及ぶようになり、日本国内には幣原外交を軟弱外交として非難する声が高まった。
間島の反日暴動 1929~30年、満州東部の朝鮮国境に近い間島(かんとう)で大規模な朝鮮人による反日暴動が起こった。この地域には多くの朝鮮人が入植していたが、1910年に韓国を併合した日本は彼らを日本帝国臣民として扱い、土地所有権の他に治外法権を認めるよう中国に要求したため、中国人との対立が生まれていた。ところが間島の朝鮮人の中に、中国共産党の影響を受けて、五・三〇運動(1925年に上海などで起こった労働者のストライキ)に倣った日本帝国主義の打倒を掲げた運動が広がった。日本は領事館警察官を動員してこの暴動を力で弾圧した。当時、第一次国共合作が敗れた後に、毛沢東の指導による共産党が勢力を伸ばし、国民党との新たな内戦が始まっていたが、満州でもその動きを無視できない状況になっていた。
 これらの中国の新たな動きは、当時の日本では正しく受け止めることはできなかったが、関東軍の一部参謀が、危機感を最も強く意識したことは確かであろう。そしてその誤った行動が、日本を長期の戦争に導いていくことになる。

「満蒙問題」の武力解決路線

 張作霖爆殺事件の全貌が明らかにならないまま、関東軍幕僚の中に、より明確に満州・蒙古方面に勢力を拡大すべきであるという信念を持つ板垣征四郎や石原莞爾らの中堅参謀が加わるようになり、関東軍の独走の気運は強まった。しかし、かれらは国内でも中堅軍人のグループを作り、陸軍省・参謀本部と言った軍中枢にも同調者が多数活動していたので、その思想やその陰謀をも辞さない強硬手段をとる手法も、陸軍中枢においても一定程度理解されていたと言えるだろう。彼らの問題意識は「満蒙問題の解決」として共通のものとなり、陸軍省・参謀本部のなかでもさかんにグループが生まれ、横断的に議論されている。その点では、満州事変を「関東軍の独走」とだけで片付けられないことは、最近の研究でも指摘されるようになった。<川田稔『日本陸軍前史』1~3 2014 講談社現代新書/及川琢英『関東軍』2023 中公新書など>
 中堅将校の中で、ある場合はおおっぴらに、ある場合は秘めやかに「満蒙問題の解決」が議論され、煮詰まっていく間に、状況は緊迫した。一つは参謀本部から興安嶺方面への軍事用地図調査に派遣された中村震太郎大尉等が行方不明となる事件が起き、外交交渉でも中国側が殺害を認めなかったことから関東軍内に報復の気運がもりあがった。もう一つは1931年5月、長春の近郊の万宝山で朝鮮人入植者と中国人が衝突、さらに朝鮮で中国人に対する報復行為があって多数が殺害される事件が起こった(万宝山事件)。このような情勢の中、関東軍は密かに軍事行動を準備し、国内からの大砲の移動などを密かに行った。

(4)満州事変

 1931年9月18日、奉天の北、柳条湖(地名)で満鉄線が爆破されるという柳条湖事件が起こった。関東軍はたたちに満州の張学良軍の犯行であると断定し、満鉄防衛を口実として軍事行動を開始した。関東軍は奉天の中国軍を攻撃し、ついで長春、ハルビンなど満州の要地を軍事占領した。れは実質的な戦争の開始であったが、日本政府は、自己防衛行動であるとして、満州事変と称した。
 満州事変は当初は日本政府、軍中枢も関東軍の当然の任務の遂行として容認したが、それ以上の拡大に認めず「不拡大方針」をとった。しかし、戦後に判明したのは満鉄の爆破は関東軍自身の手で行われた謀略であり、さらに直後から次々と戦線を拡大していった関東軍の行動は明らかに中央の統制を逸脱するものであった。特に関東軍が朝鮮軍に援軍を要請、朝鮮軍の林銑十郎大将が奉勅命令を受けずに国境を越えて軍を動かしたのは明確な軍規違反であった。その時点でも朝鮮軍の越境は問題となったが、最終的には若槻首相が軍の意向をくみ、やってしまったものはしかたがない、という言い方で後追いで命令を出し形として不問に付した。林銑十郎は「越境将軍」といわれてもてはやされ、後に内閣総理大臣にまでなる。
錦州爆撃 特に10月8日に張学良軍の拠点をたたくという理由で飛行機で錦州爆撃を行い、一般市民にも犠牲が出て、さらに関東軍も遼河を渡って錦州に向かったことでアメリカ・イギリスの国際世論は一斉に反発した。そのため、幣原外相は関東軍を統制できないとして、辞任に追い込まれた。関東軍はさらに錦州占領を目指し、1932年1月3日に占領した。ついで2月5日にはハルビンを占領、満州の要地をほぼ押さえ、関東軍は目的を達成した。1月6日には陸海軍首脳と外務省との協定で満州国独立の方針を定めた。一方で陸軍は1月末、上海でも謀略で暴動を起こして軍(海軍陸戦隊)を派遣して中国軍と衝突するという第1次上海事変を起こし、世界の目を満州からそらそうとした。

満州国の建国

 関東軍は満州事変を構想したとき、当初は満州全域を日本が占領し直接統治することを想定していたが、事変後に満州をどのように統治するか、政府や現地の満州人と折衝を重ねる中で、「満州独立国家建設案」に収斂していった。その構想に基づき、天津で失意の生活を送っていた清朝最後の皇帝であった溥儀を担ぎ出して執政として満州国を建国することとなった。天津から溥儀を連れてくるのは土肥原賢二大佐が行い、1932年3月1日、満州国を建国した。
五・一五事件 国内では世界恐慌の影響が及んで不況が続き、小作争議・労働争議が続いていた。右翼国粋主義団体の血盟団が前蔵相井上準之助や三井財閥理事長団琢磨を暗殺するなど社会不安が続き、1932年5月には満州国承認に慎重姿勢をとっていた政友会の犬養毅首相等が海軍軍人等によって殺害されるという五・一五事件が起こった。テロによって政党内閣が倒され、日本は満州事変を境に、大正デモクラシー以来の政党政治が終わり、軍国主義の時代へと転換していった。
関東軍司令官と満州国 満州国が発足すると、その国家機構と関東軍の権限をめぐって、様々な利害が錯綜し決着を見るのが遅れた(在満機関統一問題)が、最終的には7月に関東軍の意向が通り、新機関設置を断念し、現役陸軍大・中将に関東軍司令官、駐満全権大使、関東長官を併任させることに決した。満鉄総裁は従来通りとされた。この「三位一体」といわれた最初の関東軍司令官として8月に武藤信義大将が就任した。
日満議定書 中華民国政府は日本の軍事行動を国際連盟規約などの国際法違反としての国際連盟に提訴をした。そのためリットン調査団1932年2月29日に来日、現地もふくめ6月まで調査にあたった。その報告が公表される前の1932年9月15日に日本政府は日満議定書を締結して満州国を承認した。これは満州国を自立した国家と認めることで国際世論を有利に導こうとしたものであり、同時に関東軍は満州国における軍事権を委譲され、駐屯と行動の自由が認められた。

国際世論への逆行

熱河作戦 関東軍が構想した満州国は、東三省と言われた黒竜江省、吉林省、遼寧省だけでなく、その南西に隣接する熱河省も含んでいると宣言していた。しかし満州国建国時には、熱河省は関東軍の支配下に入っていなかったので、熱河作戦によって奪取する方針を固めた。1933年2月23日、関東軍は航空機、戦車、装甲車を動員して猛攻を加えて熱河省を制圧し、さらに万里の長城の東端である山海関を占領し、3月4日には省都の承徳を占領した。中国軍も激しく抵抗したが、日本軍は万里の長城を越えて侵攻し、5月下旬には北京(当時は北平)に迫った。
国際連盟脱退 国際連盟は、中華民国(国民政府)の提訴を受け、リットン調査団1932年2月29日~6月)の報告に基づき、満州事変から満州国設立までの経過を審議したが、日本に対する満鉄沿線以外の撤兵勧告案が42対1で可決されたのは、熱河作戦開始の翌日、1933年2月24日であった。国際連盟での審議中にもかかわらず、関東軍が熱河作戦を強行したことは、著しく国際的な不信を増幅させることとなった。
 この年は、ヨーロッパでヒトラーの率いるナチスがドイツで政権を獲得、世界的なファシズムの台頭が顕著となった年であり、日本における軍国主義への傾斜も露わになった。3月27日、日本が国際連盟を脱退したのに続き、10月にはドイツが国際連盟を脱退し、同じ歩調を歩むこととなった。
 関東軍は満州事変で最終的には満州国の独立まで実現させ、国際的な非難にも関わらず実質的に勝利を得たと認識し大いに自信を深めた。一部参謀による独断専行の傾向は少なくなったとは言え、自信に基づく権威をみずから身につけたことによって俗に「泣く子も黙る」関東軍などと言われるようになった。石原莞爾など、独断専行して日本を戦争に誘導した軍人も、天才的な戦略家などと持ち上げられ、その風潮が現代にも続いている。

(5)日中戦争

 満州国成立・熱河作戦の次の焦点は、1935年から本格化する華北分離工作内蒙工作であった。
 熱河作戦では関東軍の一部は万里の長城を越えて中国本土に入ったが、それと戦ったのはかつて奉天から日本軍によって追われた張学良の率いる東北軍であった。そのころ蔣介石は対共産党作戦(囲剿作戦)を優先し、関東軍との戦いには出動できず、東北軍に任せたのだった。東北軍は敗れ、日本軍が北京に迫るという事態となったが、蒋介石は本格的な抵抗の姿勢を示さず、1933年5月31日塘沽停戦協定の締結に応じ、ひとまず日本軍の進撃を食い止めた。
華北分離工作 日本軍の中国本土の華北への進出は支那駐屯軍義和団事件(北清事変)の時の北京議定書で北京・天津間に駐留が認められた日本軍で天津に司令部を置いていた)が主体として行い、傀儡政権冀東防共自治政府を樹立して、中華民国から分離させるものであったので、華北分離工作といった。
内モンゴル工作 関東軍は長城以南は管轄外であったので、その以北の内蒙古(現在の内モンゴル自治区)に対する内蒙工作に着手した。それは満州国支配をソ連に備えてより安全にするため、第二の満州国の建設を進めようとしたものだった。内モンゴルは鉛、鉄、羊毛、塩などの資源が豊かであった。しかも中華民国からの分離独立の動きもあったので、関東軍はその動きを利用した。内モンゴルのチャハル省ではチンギスハンの子孫であるという徳王などを担ぎ出し、1933年8月に察東特別自治区を成立させ、さらに蒙古国の独立を支援した。関東軍は内モンゴルをソ連との戦争に備えて重視し、徳王政権を強化するため軍事援助を行い、さらにチャハル省の北西に広がる綏遠省の中国軍を攻撃させた。1936年、11月から関東軍と蒙古軍による綏遠侵攻は、中国軍の抵抗で失敗した(綏遠事件)。しかしこの無謀な作戦の失敗も関東軍幹部が処罰されることはなかった。
抗日運動の激化 満州国成立後、国内では旧東北軍や中国共産党に指導されたパルチザン部隊などによる「反満抗日軍」が生まれ、各地でゲリラ的な抵抗が始まっていた。塘沽停戦協定成立を機に、関東軍はその取り締まりを強化し、独立守備隊を増強した。
 華北における自治政権の樹立という形の侵略行為にたいしても、中国人の激しい抵抗が始まった。1935年年12月9日には十二・九学生運動が起り、中国共産党が指導した8月1日の八・一宣言では抗日民族統一戦線の結成を呼びかけていた。抗日運動の盛り上がりをうけて、1936年12月に西安事件で東北軍の張学良蔣介石を監禁して強く内戦の停止を迫り、蒋介石も合意するという大きな変化が起こっていた。
盧溝橋事件 この華北における根強い抵抗に遭遇した日本軍は、中国政府の都南京を視野に、全面的な戦争での解決を目指すようになり、その路線の中で起こったのが、1937年7月7日盧溝橋事件であった。日本軍陣地への一発の弾丸をきっかけに始まった軍事衝突は、たちまち中国大陸に拡大、日中両国は全面戦争に突入した。それは当初は北支事変、ついで支那事変(一般には日華事変とも)と言われたが、実質的には本格的な日中戦争の開始であった。

(6)ノモンハン戦争

 満州国が建国され、独自の満州国軍が設立されたが、その実力はまだほとんどなく、日満議定書で満州国の防衛のために駐留が認められた関東軍は、鉄道その他あらゆる便宜が図られることになっていた。また関東軍司令官は満州国駐箚大使を兼ね満州国政府と一体であったので、全面的にその防衛にあたる権利と義務が与えられたと言える。その満州国は長大な国境でソ連と国境を接しているので、関東軍にとってはかつての関東州と満鉄沿線のみの防御から比べれば膨大な範囲が管轄になった。
 そのため関東軍は国境地帯に師団を配置し、その防衛の任に当たることになったが、ソ連と満州の国境、モンゴルと満州の国境はほとんどが無人の荒野であるので、実際の国境線は不明確なところが多かった。モンゴル人民共和国は1924年にソ連に次ぐ二番目の社会主義国として独立しており、ソ連の強い影響下にあった。関東軍は国境問題について、こちらが国境と認定している線が国境であり、ソ連軍がそれを越えてきたなら排除せよ、と言う方針であったので、衝突が頻発した。
張鼓峰事件 1938年7月29日、満州国南東部の突端にあたる豆満江河口の張鼓峰で日本軍(朝鮮駐屯軍)とソ連軍の衝突、張鼓峰事件が起きている。このとき日本軍はソ連軍の戦車その他の機械化部隊と交戦し、多くの犠牲を出した。軍中央はこれ以上の損害を出さないために外交交渉にはいり、ソ連も満州への侵攻の意図を示さなかったので、8月にモスクワで停戦に応じた。

ノモンハン事件

 西部の満州国とモンゴルの国境でも、関東軍・満州国軍とソ連軍・モンゴル軍のにらみ合いが続く中、1939年5月に双方が衝突、ノモンハン事件(ノモンハン戦争)となった。このときは、関東軍の現地師団長が全面侵攻を主張、関東軍参謀もそれを認め、内地陸軍中枢の了解のないまま、戦争に入った。かつての関東軍の独断専行が繰り返された形であったが、いったん収まった戦闘が再開され、陸軍航空部隊がモンゴル内部を爆撃した。天皇の命令のない外国領土攻撃は固く禁止されていたが、このときも陸軍中央も事後承諾という形で承認した。戦争は凄惨を極め、戦車などの装備で関東軍が遅れていることが判明し、実質的な敗北を喫することとなった。
 しかしヨーロッパ情勢が大きく転換、1939年8月に独ソ不可侵条約が締結されて、ソ連軍の攻勢に変化が現れ、9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まったため、その直後に日本とソ連の停戦交渉が合意され、収束した。
 ノモンハン事件(最近では「ノモンハン戦争」という言い方が一般化している)は、関東軍がソ連の機械化部隊に苦戦し、装備の遅れを痛感した、と言われている。関東軍にとっては、長く仮想敵国としていたソ連との実際の戦闘での装備・戦術などでの不備を自覚させたのは事実であるが、最近の研究ではソ連軍の損害も相当大きかったことがわかってきた。それにしても参戦人員は日ソ両国で約7万人、戦死傷者は日本軍約2万、ソ連軍は約2万5千とうのは局地戦とはいえない戦闘の激しさを物語っている。なお、モンゴル軍は約6千~8千、満州国軍約6千~7千が参戦し、戦死傷者は両軍とも1000人弱だったとみられる。<及川琢英『関東軍』2023 中公新書 p.248 による>

独ソ戦開始と関特演

 1941年6月22日、ヒトラー独ソ不可侵条約を破棄して、ナチス=ドイツ軍の大兵力をソ連領に侵攻させ独ソ戦が開始された。開戦が近いことは日本軍中枢、関東軍も認識しており、それへの対応は検討されていたが、日本はすでに1940年9月、日独伊三国同盟を締結している一方、1941年4月にソ連との間に日ソ中立条約があったので、難しい選択に迫られた。またすでに陸軍中枢は南進論に傾き、7月に南部仏印進駐が予定されていた。
関特演 独ソ戦開始にあたり、ドイツからの参戦要請があったものの、結局は7月2日の御前会議で、南部仏印進駐は予定どおり実行、独ソ戦への不介入とする方針が決まった。同時に秘密事項として、独ソ戦でドイツ優位に進み、ソ連の極東戦力の多くが西方に移動する事態となった場合には武力侵攻に踏み切ることも合意された。その決定に基づき、7月に南部仏印進駐が実行され、焦点は南方に移ったがが、同時にソ連との戦争に備え、ソ連を牽制するために、9月には「関東軍特種演習(関特演)」と称して大動員を行い、70万の兵員を満洲に集中させた。この関特演の大動員の裏面では次のようなことがあった。
(引用)このとき、すでに北満には約70万の兵力、馬約14万、飛行機約六百が集中輸送されていた。作戦準備のため、満州、朝鮮で集められた作戦資材は、その後何回か南方や内地に転用されたにもかかわらず、終戦のとき、全量の約5割が残るほど莫大だった。原善四郎参謀が兵隊の欲求度、持ち金、女性の能力等を綿密に計算して、飛行機で朝鮮に出かけ、約1万(予定は2万)の朝鮮女性をかき集めて北満の広野に送り、施設を特設して“営業”させた、という一幕もあった。<島田俊彦『関東軍』1965 中公新書 p.175-176>
(引用)兵站の一端として欠かせないものと考えられていたのが慰安所で、この兵力膨張に合わせて関東軍は、2万人の慰安婦を徴募しようとして、朝鮮からは約3000人の女性が送られたとみられる。<及川琢英『関東軍』2023 中公新書 p.248 による>

(7)関東軍の崩壊

 関特演が実施された頃が、関東軍が最大に拡張された時期であった、しかし独ソ戦は思ったほどドイツの攻勢が続かず、対米開戦に傾いた海軍がソ連領への侵攻案に反対したため、結局、関東軍がソ連に侵攻することはなかった。戦局は南方へと向かい、南進を続けた日本はアメリカ・イギリスとの衝突は避けられなくなり、1941年12月8日真珠湾攻撃を実行して太平洋戦争の開戦となった。翌1942年からは、拡大した太平洋戦線の攻勢のために、関東軍の部隊は徐々に南方に転用されるようになった。そのため、関東軍は急速に兵力を減少させることになった。
 太平洋戦争の形勢は、1942年6月のミッドウェー海戦を境に、日本軍が守勢に入ることとなり、東南アジア・太平洋に広がった戦線での防衛に全力が注入されたため、満州国の防衛力はまったく低下し、1945年8月8日ソ連の対日参戦を受けて崩壊した。
日ソ戦争 1945年2月、米英ソ三国首脳によるヤルタ協定の秘密協定により、ソ連のドイツ降伏後、2,3ヶ月中の対日参戦が決まり、4月にはソ連は日ソ中立条約不延長を通告した。ソ連軍の極東への集中は1944年中に着手され、ドイツが降伏した1945年5月に本格化、開戦時には戦車・航空機を有する160万の大兵力がソ満国境に集結した。戦車にはアメリカとの武器貸与協定で供与されたものも含まれていた。ソ連兵は各自が短機関銃を所持したのに対し、日本兵は自動火器をほとんど持たなかった。
 関東軍(総司令官山田乙三大将)は、7月5日に作戦計画を立案、新京の以南・以東の地域を確保する防衛線をしき、最終的には朝鮮国境で持久戦に入ることとした。放棄される地域の居留民は基本的には見捨てられることを意味した。兵力は根こそぎ動員を行い、24個師団、約70万を数えたが、装備・訓練で不十分な部隊が多く、火砲や約1000門、戦車・飛行機はそれぞれ約200機程度であり、ソ連軍との実力はあまりにも大きかった。<及川『前掲書』 p.266>
満州国軍の抗日運動 関東軍が兵力を減退させたのに対して満州国軍は兵力を抽出されることはなかったので、着実に増強され、1945年8月には総兵力15万に達していた。飛行隊では満州国軍の方が機体も多く優勢になっていた。関東軍はそのような満州国軍の反乱を警戒したが、満州人・モンゴル人の将兵は日本の敗戦が近いことを理解し、軍内で密かに抗日運動を進行させていた。水面下では満州国の崩壊は始まっていたのである。<及川『前掲書』 p.268>
 日本の大本営はソ連の参戦は9月以降、来年春にずれこむと見ていたが、8月9日零時にソ連軍、モンゴル軍が東西北の三方面から満州国に侵攻を開始した。ソ連軍が進軍し、関東軍部隊が撤退すると、満州国軍では日本人将官を殺害するなど反乱が相次いだ。
居留民の移送 満州には132万余の居留民がいたが、日ソ戦開戦前に帰国することは船舶の不足から不可能であった。居留民移送や保護のための陣地構築は防衛作戦を察知されるおそれがあるとして実施されず、国境近くに入植した開拓団は根こそぎ動員のため壮年男子がほとんど召集され、老幼婦女が多く残された。彼らには状況の説明はされなかったため、多くは関東軍を信頼し、開拓団側から後退要請がでることはなかった。鉄道輸送が可能な都市では朝鮮への居留民移送が行われたが、その際混乱の中で、民間人よりも軍人家族が優先される結果となった。
将兵のシベリア移送 新京の関東軍総司令部は、8月8日夜半、ソ連軍の空襲を受け、10日には満州国政府とともに通化に移転した。12日は重要書類を焼却、防御態勢をかためたが、13~14日には満州国軍の反乱が起こり、新京市街の一部を占領された。15日にソ連軍はまだ来攻して居なかったが、終戦の玉音放送を聞いた。16日、中央から即時停戦命令が届いたが、幕僚会議では徹底抗戦論が多数を占めた。しかし秦総参謀長・山田総司令官が天皇の大命に従うべきであると説いて、降伏を受け入れることになった。18日には皇帝溥儀が退位、満州国は解体され、19日には満州国軍も解散、22日には関東軍総司令部庁舎はソ連軍に接収された。9月5日、旧関東軍総司令部は完全に武装解除され、幹部はハルビン経由でハバロフスクに移送され、関東軍将兵(満州国軍日系将兵を含む)約58万9000人が捕虜となり、そのうち50万人(軍属や看護婦の女性も含まれた)が労働に適するとしてシベリアに送られた。

(8)関東軍とは何か。

  • 関東軍は、帝国日本の海外の勢力圏(植民地)に置かれ、帝国拡張の尖兵、治安維持、対外防衛にあたる出先軍の一つであった。同様の「出先軍」には朝鮮軍、台湾軍、支那駐屯軍などがあった(満州事変当時)。
  • 関東軍司令官は天皇に直属し、その統帥権の下にあった(他の出先部隊の司令官も同じ)。その点では陸軍三長官(陸軍大臣、参謀総長、教育総監)と同列である。満州事変での関東軍はこの制度的特性を前面に押し出した。
  • その一方で関東軍司令部条例に基づき、軍政及び人事は陸軍大臣、動員計画・作戦では参謀総長、教育では教育総監の「区処」を受ける、とされた。区処とは、「隷属関係に依ない指示」とされるがその意味は曖昧であったが、関東軍といえども国家機関の一つであり、人事では陸軍省人事部が管掌しており、司令官以下、任期ごとに転勤し固定化されることはなかった。
  • 言い換えれば天皇の命令は「奉勅命令」であり、それは絶対なはずであった。特に軍隊を国境、あるいは管理区域から外に出動する際は奉勅命令によらなければならず、それは慣例として予算措置が必要であるから内閣の承認も必要である、とされていた。しかし、関東軍は奉勅命令(および内閣の承認)のないまま、域外への軍事行動を行った。満州事変の際には満鉄沿線に限定されていた管轄範囲を超えて、満州各地に出兵した。また関東軍が要請して朝鮮軍に国境を越えさせた。さらに中国本土の錦州爆撃や熱河作戦、そしてノモンハン戦争も奉勅命令なしに実行した。これらは本来なら軍令違反で、軍法会議にかけられ、最高刑は死刑となる行為であるが、関東軍はいとも簡単にやってのけて、結果的に軍中央も内閣もそれを追認した。このような独断専行は何故可能であったか。

参考 関東軍の「独断専行」

 関東軍が謀略に走り、独断専行の傾向になった背景には、日本陸軍の「制度」と矛盾する「気風」が奨励されていたということがある。その点では島田氏の次のような説明がわかりやすい。
 満州に駐屯する関東軍は、日本の租借地である関東州と、満鉄の鉄道附属地である線路の両側の幅約62メートルの帯状地帯を守備範囲であり、条約上その中では行動の自由は認められるが、それ以外の地点へ軍隊を出動させることは「国外出兵」となるので、関東軍司令官は「奉勅命令」(参謀総長が天皇の命令を奉じて出す命令)がなければそのような命令は出せない。また奉勅命令は1900年の義和団戦争での出兵以来、閣議での経費支出の承認を必要とする慣例があった。
 ところがその一方、軍人に示された『陣中要務令』では、日本陸軍は上、軍司令官より、下、一兵に至るまで、独断専行、機宜に応ずるための修養訓練が極度に要求され、いたずらに命令がくだるのを待って機を失するようなものは天皇の統率する軍隊の列に加えることができない、と教えている。この矛盾する両者をどのように使い分けるかについては、陸軍部内でもはっきりした解答を持たなかったようである。<島田俊彦『関東軍』1965 中公新書 p.59-60>
 近刊の及川氏の『関東軍』でも、関東軍司令官は天皇に直属し天皇の「命令」に従うとされながら、一方で「関東軍司令部条例」(1919年)では関東軍司令官は軍政及び人事では陸軍大臣、作戦及動員計画では参謀総長、教育では教育総監の「区処」をうけると規定されていたと指摘している。「命令」と「区処」の違いは明確ではないが、1920年代末までに陸軍を主導した長州閥の統制力が弱まる中で、しだいに「区処」を軽んじる傾向が強くなったし、さらに「日本陸軍では独断専行が奨励されていた」のであり、指揮官は上官の意図を忖度しつつ、臨機応変に対処することが求められており、その気風は関東軍にもあった、と説明している。<及川『前掲書』p.iii、p.38-40>
 しかし、この「独断専行」の奨励は、もっぱら「攻撃」時においてのことであり、「防御」時の後退や撤退での独断専行は許されず、敵前逃亡とされてしまうことは、関東軍のノモンハン戦争や太平洋戦争のインパール作戦などで幾多の悲劇を生んでいることも忘れてはならないだろう。