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関東州

日本が日露戦争の結果、1905年ポーツマス条約でロシアから獲得した遼東半島南部の租借地に置いた州。関東とは、中国本土との境界にある山海関から以東の意味で、広くは満州を指すが、関東州とは半島南部の旅順・大連を中心とした地域である。日本は関東州の守備のために軍隊を駐留させ、1919年から関東軍とし、1931年の満州事変以降、満州全域に軍事支配を拡大して同32年には満州国を建国した。ただし、租借地としての関東州はそのまま1945年の日本敗戦まで存続した。

日露戦争で租借権をロシアから継承

 日露戦争の講和条約として、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約で、日本はロシアの関東州(旅順・大連)の租借権(25年)を継承した。日本はついで1905年12月に清国との間で「満州に関する日清条約」を締結して、ロシア権益の継承を認めさせた。  ポーツマス条約締結直後の9月26日、日本は関東総督府を設置し、関東州の統治にあたらせることを決定した。関東総督府は天皇に直属し、関東州の軍備と治安とともに民政を監督する統治機関であり、遼陽に置かれ初代総督には大島義昌陸軍大将が就任した。関東総督の指揮下に二個師団1万が駐留し、関東州と満鉄沿線の守備にあたった。 その統治のため関東総督府を当初は遼陽に置いたが、翌1906年、関東都督府と改称するとともに旅順に移した。関東都督は武官が任じられ、関東州の駐屯部隊を指揮して治安維持にあたるとともに政務も行い、同年設立された南満州鉄道の業務の監督も行った。

二十一カ条の要求で99年間の租借延長

 第一次世界大戦の勃発に乗じて1915年に日本が中国政府に対して出した二十一カ条の要求のなかの第2号「満蒙権益」にもとづいて、同年5月の「南満洲及東部内蒙古に関する条約」が締結され、関東州(旅順・大連)の租借期限および満鉄の経営期限は99ヶ年に延長された。この条約が締結されるまでは、関東州の租借期限・安奉線の経営期限はともに1923年まで、満鉄本線は1939年に中国側に買戻権が発生し、1983年に無償返還する決まりであった。それが、この条約によって関東州は1997年まで(ロシアが旅順・大連を租借した1898年から起算して99年目)、満鉄本線は2002年(ロシアの東清鉄道南満洲支線として営業を開始した1903年から起算して99年目)、安奉線は2007年まで租借・経営期間が延長され、しかも中国側の買戻権はなくなった。<及川琢英『関東軍ー満洲支配への独走と崩壊』2023 中公新書 p.6>
 1997年の意味  イギリスが同じ1898年に99年間の租借とした香港九龍半島は1997年に香港島とともに中国に返還された。歴史にifは禁物ですが、もし日本がこの後に中国と戦争状態にならなかったと仮定すれば、旅順・大連は日本の租借地として続いたことになり、香港返還と同様に1997年に中国に返還する、と言うことになったはずです。

関東軍の設立と増長

 1919年4月、関東都督府を廃止して行政を担当する関東庁と、駐留軍を指揮する関東軍とに分割された。関東庁は関東州の管轄、満鉄の監督、鉄道沿線の警察権をもったが、文官である関東長官には兵権はなく、治安維持などで兵力が必要な場合は関東軍司令官に出動を要請することとされた。関東軍は本来は関東州と南満州鉄道の護衛にあたるのが任務であったが、軍司令官は天皇に直属し駐屯部隊を統率する権限を与えられ、ソ連を仮想敵国とする巨大な軍事機構に成長していくこととなった。関東軍はその目的のために中華民国に代わって満洲を直接支配しようという「野望」をもつようになり、ついには1931年に満州事変を起こして満州全域を軍事支配下に置き、さらに32年に満州国を建国するに至る。満州国においては軍人である関東軍司令官が関東州長官を兼ね、さらに同時に駐満州国日本大使を兼ねることで、満州国と関東州の両地域を一体として統括する存在となった。
POINT 関東州と満州国は別 つまり関東州とは遼東半島南端の旅順・大連地域のことで、満州国とは別である。関東軍の守備を任務とした関東軍が、満州事変以後に満州全土を占領し、「満州国」を建国したので、ごっちゃになってしまうが、満州国建国後も関東州は残っている。満州国は傀儡国家、関東州は租借地として別な存在であることに注意しよう。 → 満州国の地図を参照。

参考 関東州の意味

 「関東州」については、次の説明がわかりやすい。
(引用)関東軍の”関東”というのは、中国の山海関(万里の長城の東端)以東一帯、つまり奉天・吉林・黒竜江三省に対する名称である。いい換えればこれは満州の別称だと心得て、まず間違いないのである。ところで、かなり広範囲な地域に対するこの名称を、そのほんの一部分にしか当たらない遼東半島の先端に用いて、これを”関東州”と名づけたのは、1898年の列強の中国分割以来ここを中国から租借していたロシアだった。日本は1905年、日露戦争の結果として、この租借権をロシアから譲られると同時に、中国側の抗議を退けて、このいささか誇張的な呼び名をそのまま踏襲した。そしてやがてはこの租借地に根拠を置く、駐箚一個師団、独立守備隊六個大隊、計約一万の兵力をもつ日本軍にも”関東軍”という名を与えたのである。<島田俊彦『関東軍』1965 中公新書 まえがき>

関東州の消滅

 第二次世界大戦末期、ソ連のスターリンは連合国軍首脳とのヤルタ協定で、旅順・大連(関東州)の支配権の回復が認められ、満州に侵攻して関東軍を追い払った後、軍港・港湾の拠点としてソ連軍を駐留させた。その後、国共内戦で勝利した中国共産党は1949年に中華人民共和国を樹立、友好国であったソ連に対して、旅順・大連の返還を要求し、交渉の結果、1955年にソ連軍は撤退し、中国の主権が回復された。 → 旅順・大連