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万里の長城

中国の秦の始皇帝が北方の匈奴に対する備えとした施設。戦国時代から修築は始まっており、始皇帝はそれを修築した。現在見ることができるのは始皇帝時代のものではなく、明代にさらに巨大に作り直したものである。

 始皇帝によって、西は甘粛省から東は遼東に至る約4000kmにわたって建設された、北方民族の、特に匈奴などの騎馬遊牧民から中国本土を防衛するための施設。ただし、始皇帝以前の春秋戦国の諸侯がすでにそれぞれの国境に長城を建設しており、始皇帝の長城はそれらを修復してつなげたものであった。秦代の長城は、馬で飛び越せない高さの土塁に近いもので、攻めてきた騎馬民族をいったん馬から下りざるを得なくし、その隙に討ち取るというものであったらしい。また現在の長城は明代に修築されたもので、始皇帝時代の長城はそれよりも北に設けられたもので、現在では崩壊している部分も多い。

明代の長城の改修

 15世紀初め、永楽帝は、中国の諸王朝の中で初めてモンゴルに対する攻勢に転じ、五度にわたって万里の長城を越えてモンゴル遠征を行い、その勢力を圧倒した。しかし、永楽帝の死後は、軍事的優位を失い、1449年には土木の変でモンゴルに敗北するという事態に陥った。そのため、明は再びモンゴルに対する北辺の守りを固める必要が出てきた。1474年、憲宗の時に万里の長城の修築を開始し、その後、約100年かけて修築が続けられることとなる。  このとき西の端の寧夏から東の端の山海関までの現在の姿の長城が建設され、その内側に、九辺鎮がおかれ、北からの侵攻にそなえることとなった。現在見ることのできる万里の長城とは、秦の始皇帝のときに築かれたものではなく、明代に修築されたものである。長城の修築は、明がかつての永楽帝時代のような外部に積極的に進出していく姿勢を放棄し、長城内を固める基本方針に転換したことを示している。

NEWS 万里の長城、実は2万キロ超

 2012年6月7日付、朝日新聞に次のような記事が掲載された。
6日付の中国各紙によると、中国国家文物局は世界最大の建造物といわれる万里の長城の総延長が、これまでの2.4倍に当たる2万1196.18㌔に上ることがわかったと発表した。万里に長城は、現存する部分の多くが明代(1368~1644年)に造られた。同局は2009年、明代の長城の長さを8851.8㌔だと発表、今回、秦や漢などの時代のものも含めて科学的に測量したところ、全長が一気に伸びた。長城は北京市、天津市、黒竜江省、河南省、新疆ウイグル自治区など15地域に及び、このうち北京市は約600㌔を占めた(北京発)。<朝日新聞 2012年6月7日朝刊>
 万里の長城の長さは、一般に山海関から嘉峪関(かよくかん)までの2400㌔とされ、現在使われている用語集などでも継承されている。最近では4000㌔に修正されていた。それが2009年には8000㌔といわれ、ついに2万㌔を超えることになった。正に倍々ゲームの観がある。もちろん、長城がゴムのように伸びたわけではない。砂漠にうずもれていた部分などが発見され、しかも秦漢時代から明代までの長城の長さを加算すると・・・という話である。現代中国の国力の発展に応じて伸びた分といえるかもしれない。中国経済にかげりが見える昨今、これもバブルの数字でなければいいが。

Episode 明の名将威継光

(引用)最も北京に近い直隷北辺の長城は、薊遼総督譚綸によって修築された。実際そのことに当たったものは、名将威継光である。彼は東は山海関から、西は灰嶺に至る一千二百余里の間の塞垣(長城)を修理し、特に城壁を夾む敵台を築いて、守備の拠点とした。台は高さ五丈、その中は三層になって、百人の兵士を収容するに足り、武器糧食等を尽く備えた。その数殆ど三千、隆慶五年(1571年)に至って完成した。ここに至って、長城は旧時の面目を一新して、堅牢且雄壮なものとなった。現在八達嶺付近にえんえんとして山嶺渓谷を走っている長城は、即ち当年の建造に係るものであって、威継光の名を永く伝えるものである。<植村清二『万里の長城』 1944 中公文庫 p.184>

Episode 万里の長城は月から見えるの?

 私自身も授業の中で、「万里の長城は人工衛星から見える唯一の人工的建造物」なんだよ、としたり顔でしゃべっていた。またこの用語集でもそう書いていた。生徒に万里の長城の長大さを印象づけるためのフレーズであったとはいえ、どうやらまちがえたことを言ったり、書いたりしていたようなので、ここで訂正する。そのことを教えてくれた書物がこの武田雅哉さんの著作『万里の長城は月から見えるの?』(2011年刊)であった。
 1969年、アポロ11号の宇宙飛行士であったニール・アームストロングが「オランダの大堤防と万里の長城が宇宙から見えた」と言ったとされている。それは人口に膾炙し、世界中に信じられるようになった。中国では教科書にも載せられ、中国文明の称揚に一役買うことになった。ところが、2003年、中国が初めて打ち上げた宇宙船「神舟5号」で中国人として初めて有人宇宙飛行を遂げて帰還した楊利偉中佐は、テレビに出演、司会者から「万里の長城は見えましたか? 」と質問され、「地球の景観は、たいへん美しいものでした。でも、われわれの長城は見えませんでした」と答えた。ここから〈長城騒動〉が持ち上がった。議論はそれまでの教科書がまちがえていたという教科書問題に発展した。科学者たちが改めて検討し、どんなに長い長城でも幅10mほどでは、数キロ離れれば見えなくなる計算になり、地表から300kmの軌道上の宇宙船や、ましては40万km離れた月面から見えるはずがないことが明らかになった。現在では騒動は落ち着き、教科書の記述も訂正されたという。
 実は同書に依れば、万里の長城がヨーロッパ人に知られた16世紀から、「万里の長城は月から見える」という話はむしろヨーロッパでおこってきたとう。18~19世紀には月や金星に人間がいるという見方から、彼らから地球を見れば・・・という想像がたくましくなっていったようだ。そのまことしやかな話が近代中国の民族意識が高まる中で、中国人に一般化し、学者から小学生まで、中国文明を自賛するときに決まって取り上げられることになった。我々も検証することなく、その話に乗ったわけである。武田氏のこの本では“長城は月から見えません”と断定しながら、なぜそのような話が流布したのか、東西の文献を渉猟して解き明かしている。そのスリリングな謎解きは同書を読んでください。<武田雅哉『万里の長城は月から見えるの?』2011 講談社>
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ノートの参照
第2章3節 カ.秦の統一
第7章1節 ウ.明朝の朝貢世界
書籍案内
植村清二
『万里の長城―中国小史』
中公文庫BIBLIO

来村多加史
『万里の長城 攻防三千年史』講談社現代新書

武田雅哉
『万里の長城は月から見えるの?』 2011 講談社
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