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ラブレー

16世紀フランスのヒューマニスト。カトリック教会の堕落などを鋭く風刺した。その主著は『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』。

 16世紀前半のフランスの人文主義者(ヒューマニスト)。1532年から『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』を著わし、カトリック教会の因循姑息だけでなく、当時始まった宗教改革の新教徒の狂信ぶりなども、おもしろおかしく風刺し、その作品は禁書とされた。
 ラブレーはフランスのシノンに生まれた。生年は従来1494年説がとられていたが、最近では1483年説が有力であるという<宮下史朗『ラブレー周遊記』1997 東大出版会>。父は弁護士で相当の財産はあったが末子だったラブレーは、フランチェスコ派修道院で修道士として修行に入ったらしい。1517年、ドイツに始まる宗教改革がフランスにも及んできたころ、彼はラテン語、ギリシア語などの古典や法学を学び、エラスムスなどの人文主義の影響を強く受けた。しかし修道院ではギリシア語原典の研究を禁止されてしまった。その後修道院を出て各地をめぐりながら医学をヒポクラテスやガレノスらのギリシア語原典から学んだらしい。

『ガルガンチュアとパンタグリュエル物語』

 1532年、伝説の巨人を主人公にした『パンタグリュエル物語』(後の「第二の書」)を著し発表した。その後フランソワ1世の重臣がローマに派遣されたときの侍医として何度かローマに赴き、医者として名声を上げながら、リヨンで34年秋、匿名で『ガルガンチュア物語』(「第一の書」)を発表、続けて『パンタグリュエル物語』の第三の書を発表した。これらの書物はパリ大学神学部によって、「ふとどきで猥褻」な書物でキリスト教を冒涜するものであるという理由で禁書に指定された。ラブレーはその追求を逃れて潜伏し、52年には「第4の書」を初めて本名で発表したが、翌53年に死んだ。死後にラブレーの名で「第5の書」が出版されたが、それについては偽作説もある。<以上、渡辺一夫『ラブレー第一之書ガルガンチュワ物語』1973 岩波文庫 解説および巻末ののラブレー年譜から要約>
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書籍案内

宮下史朗
『ラブレー周遊記』
1997 東大出版会