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フランソワ1世

16世紀フランスヴァロワ朝の国王。ハプスブルク家カールと争いイタリア戦争を展開。ダ=ヴィンチなどルネサンス芸術の保護者でもあった。


François Ⅰ 1494-1547
 フランスヴァロワ朝の国王(在位1515~47)。先々代のシャルル8世、先代の義父ルイ12世の外交政策を引き継ぎ、イタリア戦争を再開させ、神聖ローマ皇帝カール5世のハプスブルク家勢力との激しい戦いを続けながら、絶対王政の強化に努めた。またこの時期にフランス・ルネサンスが開花した。また、カルティエを北米大陸探検に派遣し、後のフランス領カナダの獲得の前提を作った。

カール5世との対立

 即位直後の1515年にはイタリア戦争の再開を宣言しミラノを攻略し、スイス人傭兵部隊を破った(マリニャーノの戦い)。1519年、ハプスブルク家のカール5世と神聖ローマ帝国皇帝選挙を争った。
神聖ローマ皇帝選挙に敗れる 1519年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が死去したため金印勅書の規定に従い皇帝選挙が行われることとなり、スペイン王カルロス1世(ハプスブルク家)とフランス王フランソワ1世(ヴァロワ家)の二人が立候補、選挙権を持つ選帝侯に対し、それぞれが猛然と買収攻勢を競った。フランソワ1世はフランス王として初めての立候補であったので選帝侯買収に努めたが、その財源は臨時課税と官職売り出しに依存し、不足分は借金した。一方のカルロス1世にはヴェルザー、フッガーなどの金融家が出資、フランソワ1世が金換算1.5であったのに対しカルロス1世は2トンを集め1519年6月26日、皇帝に選出されカール5世となった。
 カール5世が皇帝になることによってハプスブルク家領がネーデルラントとスペインというフランスを挟む形となるので、フランソワ1世はハプスブルク家勢力によって包囲されるのを恐れ、翌年にはイギリス王ヘンリ8世と会見して提携を探った。しかし、ヘンリ8世とは結局、同盟はならなかった。
ヘンリ8世との会見 フランソワ1世とヘンリ8世の会見は1520年6月7日から24日、フランス北部のバランゲムで行われた。この会見が「金襴の陣」ともいわれるのは、何もない平原に突如として面積1万平方メートルの巨大幕舎が現れ、豪奢な金糸織の布で仕立てられ、一面には当時としては宝石にも等しい板ガラスがはめられていたからである。ぶどう酒が溢れる泉を囲んで二人の王は連日連夜の酒池肉林を楽しんだという。そのありさまを描いた絵が、山川出版社の教科書詳説世界史B<p.215>に掲載されている。

イタリア戦争の再開

 そこで1521年に再びイタリアに侵攻しイタリア戦争を再開した。しかし、1525年2月25日のパヴィアの戦いではハプスブルク家カール5世のスペイン軍に敗れて捕虜となり、マドリードに送られて幽閉された。
スペインで捕虜となる フランソワ1世はパヴィアの戦いでスペイン軍の捕虜となり、パヴィアやクレモナを経てマドリードで捕虜生活を送った。フランスでは母ルイーズが摂政として、ハプスブルク家と交渉に当たった。一方のカール5世はドイツ諸侯、イタリア諸都市対策に加え、オスマン帝国がウィーンに迫るという事態にも直面していたので戦争継続は困難であった。そこで妥協が図られ、1526年1月、フランソワ1世は領土のいくつかをカールに譲渡し、カールの姉エレオノールを妻とすること、二人の子を人質としてスペインに送ることなどを条件に釈放されフランスに戻った。
カール5世、ローマの劫掠 フランソワ1世はパリに戻るとただちに復讐戦を立ち上がった。カール5世の急激な勢力拡大を恐れたローマ教皇、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、ミラノ公国らがフランソワ1世と結んでカール5世包囲網を設けた。孤立したカール5世は1527年、ローマ教皇に圧力をかけるためスペイン軍を派遣、5月6日にカールの名のもとで「ローマの劫略」といわれた略奪・破壊が行われた。ローマ教皇の要請を受けた形でフランソワ1世は北イタリアに出兵、ミラノなどを再び占領してマドリードでの合意の破棄を宣言した。この時の戦争は、ペストの流行などの事情もあり、1529年に妥協が成立して講和(カンブレ条約)した。

フランソワ1世の対外策

カナダ進出 1534年4月、カルティエを船長とする船団を、サン=マロの港から新大陸に派遣した。それはスペインが派遣したコルテスがアステカを征服したことに刺激され、フランスも大陸に進出しようという試みであった。カルティエは数度の航海を行い、ラブラドル半島、セント=ローレンス川などを発見、フランスのカナダ殖民の道を開いた。
オスマン帝国との提携 1535年、こんどはオスマン帝国のスレイマン1世と手を結んだ(カピチュレーションを認められたのはこの時であるとされているが、現在はそれについては疑問が持たれている)。これは、オスマン帝国がバルカン半島からオーストリアに進出する勢いを示し、オーストリアを統治する神聖ローマ皇帝カール5世がそれに苦慮しているからであった。

カール5世との講和

 この間、1535年にミラノ公国の皇位継承を要求してミラノに出兵、それに対抗してカールもフランス領内に侵攻するなど一進一退が続いた。1543年2月にはインドランド王ヘンリ8世が再びカール5世と同盟してフランスに侵攻してきた。フランスは北方からはイギリス軍、東からはカール5世軍の侵攻を受けて次第に後退し、ついに1544年9月12日のクレピーの和約で講和した。これによってイタリア戦争はいったん中断されることになり、次代のフランス王アンリ2世・スペイン王フェリペ2世の時、1559年のカトー=カンブレジ条約で最終的に講和するまで交戦状態は続いた。

フランス・ルネサンスの開花

 国内政治では王権の強化に努めるとともに、1530年には後にコレージュ=ド=フランスに発展する、王立教授団を設立するなど、ルネサンス期の文化の保護にもあたった。
 フランソワ1世はレオナルド=ダ=ヴィンチをフランスに迎えたことでも知られている。
 また、ローマ教皇レオ10世との間でコンコルダート(政教和約)として、ボローニャ政教協約を締結し、フランス国内の教会の聖職者任命権をフランス国王に認めさせた(ガリカニスム)。宗教改革に対しては、カルヴァンなどのプロテスタントに対して、当初は理解を示していたが、1540年代からは次第に警戒する姿勢を見せるようになり、カトリックの立場を鮮明にしていく。1547年3月31日に死去、次は次男のアンリが継承しアンリ2世となるが、そのころからフランスはカトリックとプロテスタントの宗教対立が最大の内政問題となっていく。アンリ2世の王妃カトリーヌ=ド=メディシスが実権を握り、カトリックによるプロテスタント排除から、宗教戦争ユグノー戦争へと向かうことになる。

Episoce 身長2メートルの派手男

 フランソワ1世はブランデーで有名なコニャックの生まれで、ヴァロワ家の傍流アングレーム伯の家系に生まれ、1515年、20歳で王位を継承した。末っ子として母のルイーズ=ドゥ=サヴォワなどに大事に育てられ「ひたすら愛され、のびのびと成長して、ここに自由奔放な愛されキャラ」ができあがった。
(引用)のびやかに大きくなったのは心だけではない。また身体も大きかった。騎士王を自称したとも、半神ヘラクレスに譬えられると上機嫌になったとも伝えられるが、なるほど筋骨隆々たる益荒男だった。というより、すでにして巨人であり、フランソワ1世の身長は2メートルを超えていた。ルーヴル美術館に騎馬姿を描いた有名な肖像画が飾られているが、馬が小さいように感じられるのは画家のデッサンが狂っているのではなく、この王が尋常でなく大きかったからなのだ。<佐藤賢一『ヴァロワ朝』2014 講談社現代新書 p.231>
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書籍案内

アンドレ・モロワ
平岡昇訳
『フランス史』上
1947 新潮文庫

佐藤賢一
『ヴァロワ朝』
2014 中公新書