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ナントの王令(勅令)

1598年、フランスのアンリ4世がプロテスタント信仰を認めた法令。ユグノー戦争は終結し、旧教・新教の宗教対立は一応終わったが、信仰の自由は条件付きで、完全なものではなかった。87年の1685年、ルイ14世によって廃止される。

 一般にナントの勅令ということが多い。1598年にフランスのブルボン朝最初の国王アンリ4世がプロテスタントの信仰を認めた勅令。これによってユグノー戦争は終結した。
 その内容は、新教徒の礼拝の自由を認めるものであり、公職に就くことができるようになるなどの諸権利を獲得した。しかし、その礼拝はパリなど宮廷所在地では禁止され、礼拝の許される都市は指定されていた。またカトリックの祝日の遵守、教会十分の一税の支払いなどは継続されていた。

ナントの王令の意味

 アンリ4世はすでに1589年に王位についていたが、新教徒の王位を認めない状態が続いていたため、1593年にカトリックに改宗し、翌年ようやくパリに入城できるという状態だった。ともかく改宗によって王権の正統性を手にすることができたが、新教徒はアンリ4世の改宗に強い不満を抱いていた。抵抗を続ける新教徒と交渉を重ね、ようやく決断したのが、1598年のナントの王令であった。これによって新教徒の信仰を認めたものの、一定の条件を付けていたので、旧教徒にも言い訳が立った。つまり、条件付きで信仰の自由を与え、新教・旧教双方を王権に復させようとするのが、その狙いであったと言える。その意味では「一種の休戦」に過ぎなかった。
(引用)……旧教と新教の大部分は、尚、敵の絶滅を願っていた。アンリ四世は自分の回心が新教徒の多数に先例となることを願っていた。しかしそうしたことは全く起こらなかった。新教徒は彼の改宗を恨みに思い、相変わらず、カトリック教会を『ローマの野獣』と呼んでいた。王がユグノー派から得たものは、一種の休戦の受諾だけだった。即ちナントの王令である。この法令は賢明な処置を含んでいた。国家のあらゆる公職への新教徒の権利、限定された場所と条件下での、礼拝の執行。遺言の権利。最高会議(シノード)や牧師会(コレージュ)や監督法院(コンシストワール)での新教の聖職者の任命。パリ高等法院に於ける勅令裁判所(新教両教徒によって構成)の設立。トゥールーズ高等法院に於ける二分裁判所(プロテスタントの訴訟事件を取り扱い、その判事の半分が新教徒より成るもの)の設立。或る秘密条項は危険だった。新教徒は百五十の城塞を維持することになった。それは国家の中に国家を作ることを止めなかった、過去の苦痛と経験とが、この安全保証の要求を非難させないようにするが、王国内に分派傾向の党を持つことは、フランスにとって危険だった。<アンドレ・モロワ『フランス史』上 新潮文庫 p.227>

ナントの王令の以後

 ナントの王令で新教の信仰の自由が認められて、フランスは一国二宗教という状態となったが、新教徒側にはこのように制約が多く、カトリック教徒に比べて不平等な内容であったので、なおも抵抗が続き、一部には依然として武装してカトリック側との対立をつづける所もあった。王権による国家統一を進めるブルボン朝にとってはこのような新教勢力に対する弾圧はなおも続き、ルイ13世のときのリシュリューは新教徒の拠点ラ=ロシェルを攻撃して破壊し、それ以降はフランスの新教徒は軍事的、政治的抵抗は終わりった。王政側のさまざまな制約も強められ、87年後のルイ14世の時の1685年にはナントの王令は廃止され,残っていた新教徒もイギリス、オランダ、ドイツ、スイス、そしてアメリカへと逃れていった。
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ノートの参照
8章4節 オ.フランスの宗教内乱と絶対王政