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ナントの王令の廃止

1685年、ルイ14世がカトリックの立場からプロテスタント容認政策を転換し、ユグノー(新教徒)の信仰を禁止した。そのため多くのユグノーが国外に亡命、フランス産業の停滞につながった。

 1685年、ルイ14世ナントの王令を廃止し、プロテスタント(ユグノー)の信仰の自由を否定した。フォンテーヌブロー王令(勅令)ともいう。

苛酷なプロテスタント弾圧

 プロテスタントの信仰の自由の否認に伴い、教会は破壊し、牧師は国外に追放、プロテスタントの学校は閉鎖された。プロテスタントの亡命は許されず、彼らの子供にはカトリックの洗礼が強制された。もしプロテスタントとしてとらえられれば財産は没収され、男はガレー船に送られて奴隷として使役され、女は改宗するまで鞭打ちにされるという、激しい宗教弾圧令であった。

ルイ14世の意図

 実際には当時のフランスのプロテスタントは、ルイ13世リシュリューによる弾圧(1627年のラ=ロシェル陥落)によって王権に対する抵抗勢力ではなくなっており、しかも信者数も減少して当時はわずかに人口の5%程度だったという。つまり、プロテスタントの存在を恐れて弾圧したのではなかった。それではこのような苛酷な、そして対外的な影響も大きい「ナントの王令廃止」を行った意図は何だったか。よく分かっていない点も多いが、自ら熱心な信者でありカトリックの保護者と自認していたルイ14世が、「一国一宗派」の原則にこだわったものと考えられる(一説には愛妾のマントノン夫人が強く教唆したという)。宗教的に統一することで、フランスとしての一体感を強めようとしたのであろうが、たしかにこれによってプロテスタントは一掃され、フランスは完璧なカトリック国として結束する。しかし、同時に国際的に孤立したことも事実である。

その影響

 ナントの王令が廃止された結果、数十万のプロテスタントは密かにフランスを逃れ、イングランド、オランダあるいはプロイセン、スイスなどに亡命した。プロテスタント信仰をもつユグノーには、手工業者(職人)や商人が多かったので、フランスの商工業の発達が疎外されたと言われている。また、周辺のプロテスタント諸国に大きな衝撃を与え、またカトリック諸国でさえローマ教皇でもできないような新教徒弾圧を強行したルイ14世を恐れるようになった。
 イギリスではカトリックへの憎悪を増大させ、ルイ14世と提携しているジェームズ2世のカトリック復帰に対する議会の警戒を強め、名誉革命(1688年)の伏線となった。また、ルイ14世は同時に新興国オランダへの攻勢を強めていた。1688年にファルツ選帝侯の後継問題を口実にファルツ戦争を再開したルイ14世に対して、オランダ総督ウィレム3世はアウクスブルク同盟を結成して抵抗した。この戦争は一種の宗教戦の要素もある戦争となった。
 また、ブランデンブルク=プロイセンのフリードリヒ=ヴィルヘルム大選帝侯は、積極的な亡命ユグノーの受け入れを表明し、遅れたドイツの手工業を育成することに努め、首都ベルリンには多数のフランス系ユグノーが移住してその産業、経済の発展に寄与した。有名なスイスの時計産業などの諸産業も、フランスから移住したユグノーの手工業者によってもたらされたと言われている。

ユグノー迫害のその後

 ユグノーに対する迫害はその後も続いた。
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ノートの参照
9章1節 エ.ルイ14世の時代