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ヴァンデーの反乱

1793年3月、フランス西部のヴァンデー地方で起こった農民反乱。革命政府の徴兵制実施に反発した農民が蜂起し、領主層の王党派・聖職者が指導して反乱軍を組織、一時は大きな勢力となった。革命政府は徹底した弾圧に乗り出し、同年末にはほぼ鎮圧したが、翌年まで抵抗は続いた。

 フランスの18世紀末、フランス革命が進行する過程で、1793年3月10日に、フランス南西部の農村地帯であるヴァンデー地方(ヴァンデ地方とも表記)で大規模な反革命暴動が起こった。ヴァンデー Vendée 地方は、フランス西部、ロワール川下流左岸(南側)一帯で、平野に灌木帯が混じる農村地帯である。

ヴァンデー反乱の要因

 直接的な動機は、ジャコバン派独裁政権が、対外戦争に備えて1793年2月24日に30万人募兵法を布告し、事実上の徴兵制が開始されたことであった。農民にとって王政時代にもクジ引きなどでの徴兵があり、それが生活を圧迫していたが、革命政府の徴兵は、富裕者は代理人を出すことが許され、また役人は兵役が免除されていたことから、農民は著しく不利だと受け止められた。以前から都市に対する農村の不満が背景になった。
 さらに、農民の中に浸透していたカトリック教会への信仰心があげられる。フランス革命で1790年に聖職者基本法を制定して教会を国家統治下に置き、すべての聖職者に憲法とこの基本法への宣誓を強制した。これに対してローマ教皇は強く反発し、国内の聖職者の多くも宣誓を拒否、教区の教会を追われることとなった。農民は教区が統廃合されて共同体が破壊されること、先祖代々信仰していた教会の司祭が追放されたことに強い憤りを感じていた。

反乱の勃発と経緯

 1793年3月10日は、徴兵が行われる予定の日であった。ヴァンデーのショレ付近の村々で小競り合いが起こり、自然発生的に反乱となった。その中から貧しい機織工で信仰心の厚いカトリノーが指導者として表れた。反乱のはじまりにはカトリノーやストフレのように農民の中から指導者が現れたが、彼らは自然に村の領主に指導を仰ぎ、農民に突き上げられて反乱の指導に当たった、デルベ、ラ=ロッシュジャクラン、シャレットなどが現れた。また反乱が拡大すると、革命を認めることを拒否していた聖職者(宣誓拒否僧)や貴族たちが加わり、「カトリック王党軍」と称して、反革命の内乱にエスカレートさせ、革命軍と王党派軍の内戦の様相を呈した。
 反乱軍は各地で共和国軍を破り、その支配領域を広げていった。共和国軍の反撃も厳しく、パリの革命本部は徹底的な弾圧を命じ、軍隊を派遣した。反乱軍は地の利を生かし、武器の不足を農民の犂や鍬で補い、銃や大砲は敵から奪って戦ったが、必ずしもその指揮系統は組織だっておらず、それぞれの指導者間の齟齬もあった。最も大きな意見の食い違いは、反乱をヴァンデー地方に留め、そこで独自の自治圏を打ち立てるか、それともナントなどの近隣の大都市を落とし、そこからパリを目指して進撃すべきなのか、という戦略の違いだった。それでもロワール川下流の貿易港で共和国の重要拠点であるナントを攻略することで各部隊の目標が一致し、6月20日、ナント市に最後通牒を発して総攻撃を開始した。

反乱軍の敗北

 しかし、ナント攻略戦は、やはり各部隊の動きがバラバラであったことから失敗した。さらにここまで指導してきたカトリノーがこの時の負傷がもとでまもなく死亡し、精神的な支柱の一人を失った。このつまずきが転換点となり、共和国軍の反撃が開始された。起死回生を狙い、10月に再びロワール川を越えてブルターニュ半島を北上、ドーヴァーを目指した。その狙いはブルターニュを拠点とした王党派ふくろう党(シュアヌリ)の反乱と連携すること、また王党派を支援するイギリスの援軍に期待したことにあった。しかし、そのいずれも実現せず、折り返してヴァンデーを目指すことになった。そしてその帰途、サブネまで来たとき、長い遠征で疲れ切ったところを共和国軍に包囲され、12月23日に主力部隊が壊滅するという敗北を喫した。
 その後も1794年の1年間はヴァンデー各地でゲリラ戦を続け持ちこたえていたが、共和国軍の反乱軍掃討は激烈をきわめ、反乱の可能性を根絶やしにするという方針のもと、戦闘員だけでなくその妻や子どもまで虐殺された。その鎮圧部隊は地獄部隊とさえ言われた。ナントでは共和国の総督カリエによる反乱軍捕虜などに対して、集団銃殺だけでなく溺死刑がおこなわれた(ナントの虐殺)。その結果、1795年2月17日、ラ=ジョナイで反乱軍の頭目の一人シャレットは共和国軍との講和に応じ、組織的な反乱は終わった。シャレットはその後、再武装して反乱を再開したが、96年3月に逮捕、銃殺されて最終的に鎮圧された。<以上、反乱の要因、経過などは、森山軍治郎『ヴァンデ戦争――フランス革命を問い直す』1997 筑摩書房 による>

革命における民衆虐殺

 反乱軍は各地で暴徒化し、共和軍捕虜や共和国支持の市民を殺害し、恐れられた。その一方で、共和国軍により反乱軍捕虜や反乱に協力した農民に対する扱いにも残虐行為が多かった。それは無抵抗な非戦闘員や反乱地域に住む普通の居住者にも向けられた。
(引用)ヴァンデーの住民は自主独立の気風を持ってはいたが、特殊な地域集団を構成していたわけではない。それでもジャコバン派のイデオロギーは、彼らを人民のなかから締め出して、特殊な集団とみなして扱っている。一部の著作家が《差別による大虐殺(ジェノサイド)》という言葉を使っているのはこのためである。この《野盗民》は同等に扱われない。人民とは異質であり、人民の敵である。したがって、彼らは、その生殖能力にいたるまで絶滅されなければならない。乳飲み子も容赦なく殺された。女性は(妊婦であろうとなかろうと)《繁殖用の畝溝》として殺戮の対象とされた。数人の王党派を取り逃がすことを恐れて、この地方の共和国軍兵士自身もしばしば虐殺された。結局、反乱を起こした地域の住居のおそらく18%が破壊され、15万ないし16万人、この地方の人口の20%近くが死んだのである。<ブリュシュ他/国府田武訳『フランス革命史』1992 文庫クセジュ p.124 白水社>

ナントの虐殺

 共和国側の残虐行為で最もひどい例として語り継がれているものに「ナントの虐殺」がある。これはナントの治安回復の任務を帯びて総督として赴任した国民公会議員カリエが指揮したもので、1793年11月、革命指導者マラーの名を冠した秘密の実行部隊が、反乱軍捕虜や宣誓拒否司祭など反革命と目されて獄中にあった人々を、銃殺にするには多過ぎ、銃弾がもったいないというので、ロワール川に船をうかべて詰め込み、舟底に穴を開けて沈めて一気に溺死させるという処刑だった。中には女性や子ども含まれていたことが判っている。この溺死刑でどのぐらいの犠牲者が出たか細部は判らないが、さまざまな証言から、2~3000人と言われており、最近の研究では4000人台とも言われている。この驚くべき事実は秘密裏に行われたとはいえ、中央のロベスピエールなども知るところとなり、カリエは召喚され、その責任を負わされて死刑となった。<森山軍治郎『同上書』 p.271>
 次々と政敵をギロチンにかけて恐れられたロベスピエールの上をいく殺戮者がいたわけだが、革命の中での狂気としか言いようがない。ロベスピエール自身も間もなく失脚し、長い目で見ればやがてフランスでは王政復古となるので、ヴァンデの反乱がもっと長く続いていたら……などと想像してしまう。なお、ヴァンデの虐殺には、フランス革命を物語風に書いたことで知られるルノートルに、文字どおりの『ナントの虐殺』という本があり、邦訳も出ている。我々には「ナントの王令」でしか馴染みのない都市だが、革命時代にこういう事件がおこっていたことも知っておいて良いだろう。<G.ルノートル/幸田礼雅訳『ナントの虐殺』1997 新評論>

「ヴァンデ戦争」という見方

 フランス革命中に起こったヴァンデー地方の農民の闘いは、通常「ヴァンデーの反乱」と言われ、教科書でもそう扱われ、ここでもそれに従っている。これは共和国に対する「反乱」であり、野盗や盗賊と同じたぐいの、無知で野蛮な農民が、反動の王党派に動員されて起こした反革命である、という評価が根底にあるためである。しかし、この時起ちあがった農民の実態やその行動を見直す動きが進んだ結果、そのような単純な見方はされなくなっている。日本でこの歴史的事実の解明にあたった森山軍治郎氏は、学説を整理し、史料にあたり、現地調査を重ねて、『ヴァンデ戦争』を出版(1997)、新しい事件像を明らかにすることを通して、フランス革命、あるいは革命そのものを見直した。
(引用)ヴァンデ民衆は財産や所有権についても敏感だった。もう一度革命前夜に戻って考えてみたい。彼らは旧体制に抵抗し、そして革命の進行にも抵抗した。その抵抗には権力奪取なとどいう発想はなかった。自分たちの幸福さえ政治権力が保障してくれれば、それで満足とする発想がヴァンデ民衆にはあった。陳情書を見ても、彼らの幸福感は共同体の伝統的生活を維持しながら、理不尽なところを改め、経済的に豊かになっていくことだった。そういう国家を創造しようという発想はなく、せいぜいヴァンデという範囲内での地域社会が生まれるのが望ましい、と考えていたようだ。このことは共同体論に新しい問題を提起しているように思う。
 革命による宗教の国家管理に反発し、国家による経済政策にも反発し、革命国家の防衛にも反発した。要するに、革命の名において、国家が地域や共同体、ひいては家族や個人の生活を破壊することに抵抗した。その抵抗がヴァンデ戦争であり、その抵抗を徹底的に圧殺することで、フランス革命は正当化され美化されていった。<森山軍治郎『ヴァンデ戦争――フランス革命を問い直す』1997 筑摩書房 p.324>

参考 自分なりに素描すれば次のようになるのではないだろうか。

 フランス革命とは、パリという都市のブルジョアジーが封建制度の打破を目指して起こした革命であったが、都市の下層民(サンキュロット)のエネルギーを吸収して激化し、王政を倒し共和国を樹立するところまで突っ走った。農村でも大恐怖では封建領主が襲撃された。しかし革命政権が革命の防衛のために徴兵制を布こうとしたことでヴァンデーの農民は革命の行方に疑問を持ち始めた。革命は自分たちの生活を脅かし、教会と領主を一体とした共同体を破壊しようとしている。そのような都市住民による農村破壊に対する異議申し立てがヴァンデ戦争であったと言えるのであろう。そして、革命はヴァンデーの農民を圧殺した。しかし、根元的な反革命の力を完全に封じ込めることが出来なかったことが、テルミドールの反動となって表れる。フランスは次にナポレオン時代というナショナリズムの徹底した洗礼の後、復古王政となって農村共同体を基盤とする社会が復活する。本当の近代化に向かうのは七月王政の時期の産業革命を経なければならなかった。
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書籍案内

森山軍治郎
『ヴァンデ戦争-フランス革命を問い直す』
1997 筑摩書房
『フランス革命史』
ブリュシュ、リアル、テュラール/国府田武訳
『フランス革命史』
文庫クセジュ 白水社 1992

G.ルノートル/幸田礼雅訳
『ナントの虐殺』
1997 新評論