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ヴァンデーの反乱

1793年3月、フランス南西部のヴァンデー地方で起こった農民反乱。王党派が便乗して反革命内乱に拡大した。

フランス革命が進行する過程で、1793年3月10日に、フランス南西部の農村地帯であるヴァンデー地方で大規模な反革命暴動が起こった。直接的な動機は、ジャコバン派独裁政権が、対外戦争に備えて同年2月24日に30万人の募兵を布告し、事実上の徴兵制が開始されたことであった。3月10日は、徴兵のくじ引きが行われる予定の日であった。農民反乱は貧しい機織工で信仰心の厚いカトリノーが指導者であったが、反乱が拡大すると、革命を認めることを拒否していた聖職者(宣誓拒否僧)や貴族たちが加わり、「カトリック王党軍」と称して、反革命の内乱にエスカレートさせ、革命軍と王党派軍の内戦の様相を呈した。ヴァンデーの反乱は長期化し、対外戦争の危機と重なって、ジャコバン派独裁の革命政府を悩ませたが、93年6月にカトリノーが戦死し、秋から年末にかけて総攻撃を受け、王党派の軍隊はロワール河口に追いつめられて12月23日に壊滅した。
 ヴァンデの反乱鎮圧後も、農民反乱はゲリラ化し、尚も各地で散発的な蜂起が1795年ごろまで続た。

革命における民衆虐殺

(引用)ヴァンデーの住民は自主独立の気風を持ってはいたが、特殊な地域集団を構成していたわけではない。それでもジャコバン派のイデオロギーは、彼らを人民のなかから締め出して、特殊な集団とみなして扱っている。一部の著作家が《差別による大虐殺(ジェノサイド)》という言葉を使っているのはこのためである。この《野盗民》は同等に扱われな。人民とは異質であり、人民の敵である。したがって、彼らは、その生殖能力にいたるまで絶滅されなければならない。乳飲み子も容赦なく殺された。女性は(妊婦であろうとなかろうと)《繁殖用の畝溝》として殺戮の対象とされた。数人の王党派を取り逃がすことを恐れて、この地方の共和国軍兵士自身もしばしば虐殺された。結局、反乱を起こした地域の住居のおそらく18%が破壊され、15万ないし16万人、この地方の人口の20%近くが死んだのである。<ブリュシュ他/国府田武訳『フランス革命史』1992 文庫クセジュ p.124 白水社>
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第11章3節 ウ.戦争と共和政
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『フランス革命史』
ブリュシュ、リアル、テュラール/国府田武訳
『フランス革命史』
文庫クセジュ 白水社 1992