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ジェンナー/種痘法

1796年にイギリスの医師ジェンナーが牛痘を接種するワクチン種痘法を発見。1798年に発表、19世紀初頭までに効果が実証されて天然痘の予防法が確立された。

 ジェンナーは1749年、イギリスのバークリーで牧師の子として生まれ、ロンドンで医学の修行をして地元で開業した。当時は天然痘は死亡率の高い伝染病として恐れられ、有効な治療用や予防法がなかった。ジェンナーは牛痘に感染した人が天然痘に罹らないことに着目し、20年間熟考した末、1796年に天然痘菌を接種して、発病しないことをつきとめた。
 1798年にジェンナーはこの手法に、ワクチン接種 vaccination (牛を意味するラテン語の vacca から)と名づけて発表した。免疫をつくり発病を予防するという種痘法は当時の医学界では受け容れられなかったが、ジェンナーは多くの接種を重ねて有効であることを実証し、ようやく1802年に認められた。
 種痘法の発見と普及によって、天然痘の予防法が確立し、その流行は抑えられるようになり、1980年に世界保健機関(WHO)は地球上からの天然痘の根絶を宣言した。  → 科学革命

種痘の原理の発見

 イギリスのグロスターシャー州では乳搾り女たちがよく牛痘にかかったが、彼女たちはけして天然痘にはかからないことが知られていた。ジェンナーは、りんごの頬をしたグロスターシャーの乳搾り女が牛乳桶ごしに、「いいえ、めっそうもありません。私は牛痘に罹っているので天然痘に罹ることはできません」と彼に言った時、種痘の原理を発見した。1796年5月14日の土曜日に、セバーン河畔の村バークレーのエドワード・ジェンナー医師は、牛痘に罹っている百姓の娘サラ・ネルムスから膿をとり、8歳の少年ジェイムズ・フィプスの腕に半インチ(1.3㎝)の軽い二本の擦り傷をつけて膿を移した。7月1日にジェンナーは人痘の膿をフィプスにつけて皮膚を引っ掻いたが、フィプスは天然痘に罹らなかった。数ヶ月後に人痘膿による接種を繰り返したが、何も起こらなかった。ジェンナーは種痘予防接種を発明したのである。ジェンナーは、この膿を接種する考えを実行に移すまで20年間熟考した。彼は医師懇親会でその話しばかりして皆にうんざりさせ、嘲笑され続けていた。<ゴードン『歴史は病気で作られる』p.72-77>

天然痘の流行と種痘法

 天然痘は人類の始まりから流行が繰り返されていた。現在は天然痘ヴィルスが、媒介者なしで人から人に伝染するために起こることが判っており、高熱を出し、体中に疱瘡ができて立ち上がれなくなり、高い確率で死にいたる病であった。生きのこっても疱瘡のあとは「あばた」として残り、女性には特に恐れられた。人から人へ感染するため、人口の集中する都市で発生することが多く、また人間の移動とともにひろがるので、文明の発展と密接に関係のある感染症であった。エジプトやオリエント、インドでは天然痘と思われる疫病が知られており、ローマ帝国や中国の歴史書にも現れる。日本でも平安時代以降、たびたび流行し、それを避けるための疱瘡神の民間信仰(各地に残る御霊神社と結びついている)が盛んになった。モンゴル帝国の成立や十字軍などの時期に、他の感染症と同じくユーラシア旧大陸に広がったと考えられるが、コロンブス以来、アメリカ新大陸にも持ち込まれ、16世紀に免疫のないインディオの多くが天然痘で倒れたのだった。特にコルテスによってアステカ王国が滅亡させられた背景には、インディの多くが天然痘で倒れたことが挙げられる。 → <天然痘と文明の関係については、マクニール『疫病と世界史』上下 中公文庫 に詳しい。>
 天然痘は人を選ばす、後のアメリカ初代大統領ジョージ=ワシントンは1751年に天然痘にかかり、死ななかったけれども顔にあばたが残った。1774年に天然痘にかかったフランス国王ルイ15世はそのために死んだ。
 1718年、イギリスの貴族モンタギュー夫人はトルコ旅行から戻って「トルコ人たちは、軽症の天然痘患者から取った液体を、わざと自分自身に接種している。接種した人たちには軽い天然痘だけですむ」と報告、自分の子供たちに接種した。当時のイギリス人にはトルコ人のまねをしようとする人は少なく、夫人の話は信じてもらえなかった。

ジェンナーの種痘法発見

 ジェンナーは医院を開くと、地元のグロスターシャーに広く伝わっていた「迷信」に、牛がかかる牛痘にうつされた人は、天然痘にかからず、天然痘にかかった人は牛痘がうつらない、というのがあることに興味をもった。
(引用)これは、本当に迷信だろうか、とジェンナーは考えた。ともかく、乳しぼりの女性たちは美しいと昔からいわれていた。このころ、フランスでは、美しい乳しぼりの女や、ひつじ飼いの女たちの登場する劇が、人気を呼んでいた。これは、乳しぼりの女たちには、ほとんどあばたがなく、きれいな顔をしていたからではなかったろうか。彼女たちが牛に接していて、天然痘の代わりに牛痘にかかるからではないのだろうか。<アシモフ/木村繁訳『アシモフの科学者伝』小学館 p.124>
 家畜たちを綿密に観察したジェンナーは、自分の考えに確信をもつようになった。1796年5月14日、ジェンナーは自分の理論に十分の自信を持ち、ぞっとするような責任をみずから引き受けて、人体実験にとりかかった。牛痘にかかった乳しぼりの女性を見つけ出し、その人の手の水ぶくれから液体をとって、少年に接種した。それから二ヶ月たってから、その少年にもう一度、こんどは牛痘ではなく本物の天然痘を接種した。が、少年は病気にならなかった。彼は免疫を獲得していたのだ。
 ジェンナーは発表の前に、もう一度やってみたいと思ったが、はっきりした牛痘患者を見つけ出すのにそれから2年もかかってしまった。その間イライラし続けたが、自分の研究結果をはやまって発表するようなことはせず、じっと待った。1798年、ついにもう一人の牛痘患者を見つけ出し、別な患者に対して実験を繰り返し、今度も成功した。そこでジェンナーは初めて自分の研究成果を発表し、天然痘を打ち負かす方法があることを世界に告げ、その手法を牛を意味するラテン語のワッカから「ワクチネーション」(種痘)と名づけた。
 ジェンナーの発見はすぐにヨーロッパ各地に広がった。そのころナポレオン戦争の最中で、1802年には多くの市民がフランス軍の捕虜となった。ナポレオン宛に捕虜の釈放の嘆願書が出されると、ナポレオンは嘆願者の中にジェンナーの名があるのを知って、釈放を許したという。1803年にはイギリスに王立ジェンナー協会が設立され、ジェンナーが会長となって種痘が奨励され、その結果、天然痘による死者は18ヶ月間で3分の1に減った。ドイツのバイエルン州では1807年に種痘を義務制にした。今でもバイエルン州ではジェンナーの誕生日を記念して、その日を休日にしている。ロシアで最初に種痘を受けた子は「ワクチーノフ」と名づけられ、国がその子の教育費を負担した。
 しかし、イギリス医学界はジェンナーがロンドンの医科大学教授候補となった時、ヒポクラテスガレノスの理論などのいわゆる「古典」について試験をしようとした。ジェンナーはそれを断ったため、結局、教授になれなかった。<アシモフ『同上書』p.120-128 ジェンナーの項>
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書籍案内

マクニール/佐々木昭夫訳
『疫病と世界史』上
2007 中公文庫

マクニール/佐々木昭夫訳
『疫病と世界史』下
2007 中公文庫

アイザック・アシモフ/木村繁訳
『アシモフの科学者伝』
地球人ライブラリー
1995 小学館

リチャード・ゴードン/倉俣トーマス旭・小林秀夫訳
『歴史は病気で作られる』
1997 時空出版