印刷 | 通常画面に戻る |

メシュエン条約

1703年、イギリスがポルトガルからワインを低関税で輸入し、毛織物を輸出することを取り決めた通商条約。ポルトガル経済のイギリス依存が強まった。

 1703年12月にイギリスポルトガルの間で締結された通商条約。メシュエンとは交渉に当たったイギリスの中ポルトガル大使ジョン=メシュエン Methuen のこと。それまでポルトガルが国産品保護のために認めてこなかったイギリス産毛織物の輸入を認める代わりに、イギリスはポルトガル産ワインをフランス産の3分の1の税率で輸入することを取り決めた。これによってポルトガル産ワインのイギリスへの輸出量が増大した。その狙いは、当時イギリスは、フランスとの間で激しい英仏植民地戦争(第2次英仏百年戦争)を戦っていたのでワインの輸入量が減っていたものを補うことにあった。しかし、それ以上にイギリス産の毛織物がポルトガルに流入し、ポルトガルの対英貿易はかえって輸入超過になってしまった。ポルトガルはイギリス製品以外にもオランダ、フランスの繊維製品に市場を開放したため、それらの国々との貿易収支もポルトガルの入超となった。
 メシュエン条約については、産業革命期のイギリスの経済学者リカードが、その著『経済学及び課税の原理』で自由貿易による経済成長の好例として取り上げたためよく知られることとなった。
 なお、ポルトガルのワインの産地として知られているのは北部のドウロ川流域とマディラ島である。とくに道路側流域のワインは、北部の重要な港であるポルトから輸出されたので、イギリスでは「ポートワイン」といわれてよく飲まれている。

ポルトガル経済の対英依存

 このような状況は実は17世紀末から始まっており、メシュエン条約はそれを追認したにすぎなかったが、ポルトガル経済のイギリス依存という体質は決定的なものとなり、その後、18世紀をつうじて構造的に続くこととなった。しかし、ポルトガルはそのため厖大な貿易赤字を出したが、その経済は破綻しなかった。何故かというと、貿易赤字の支払いに、ブラジル産の金をあてることができたからであった。

ブラジル産の金

 ブラジルでは1693年に内陸のミナス・ジェライスで金鉱(砂金)が発見され、生産量は1712年に14500kg、20年には最高の25000kgに達した。ブラジルでもポルトガル本国でもゴールド=ラッシュで沸き返り内陸の鉱山都市が次々と建設されていった。莫大なはポルトガル本国に運ばれ、金貨に鋳造されて、イギリスを初めとするヨーロッパ諸国への輸入代金に充てられたため、ポルトガルには留まらず、ヨーロッパに流れていった。結局、ポルトガルの国内産業育成は行われず、ブラジルの金はイギリスで蓄積され、産業革命の資本とされ、金本位制の確立に用いられていった。しかし、ブラジルでの金の産出は、1760年代を境に急激に減少することになる。<金九紀男『ポルトガル史』1996 彩流社 p.134-139>
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
10章1節 第11章1節 ア.世界最初の産業革命
書籍案内

金七紀夫『ポルトガル史』
1996 彩流社