印刷 | 通常画面に戻る |

イギリス

大ブリテン島の三つの地域、イングランド・スコットランド・ウェールズ(及び関係の深いアイルランド)はそれぞれ異なった文化と歴史を有しているが、高校での学習では便宜上一括してイギリスとして扱う。近代以前では、イギリスとして説明されているのは実はイングランドのことであることが多いので注意し、特にイングランドとスコットランド、アイルランドの関係は重要なのでしっかりと理解しておこう。


イギリス(1) 古代のイギリス

ブリテン島にはケルト人が居住していたが、前1世紀中頃にローマのカエサルが遠征、後1世紀にはその属州ブリタニアとなり、ローマ文化が浸透した。

巨石文化の時代

 ブリテン島は氷河期には大陸と地続きであったのでネアンデルタール人など旧人が居住したことが遺跡で判っている。約1万年前には新人が大型獣を追ってやってくるようになり、約6000年前に大陸から分離して島になった。前2200年前から前1300年前の時期に、有名なストーンヘンジという巨石文化を残したのは、ビーカ人と呼ばれる人びとで、青銅器と農耕文明をもっていた。

ケルト人(ブリトゥン人)の時代

 前7世紀頃から、大陸から鉄器文明をもたらしたのがケルト人であった。彼らのもたらした鉄器文明で生産力が上がり、人口も増えたが、同時に部族間の抗争が激化し、奴隷制が広がった。その部族の中で最も有力だったのがブリトゥン人であり、この地を支配したローマによって、この地はブリタニアと言われた。前55年と前54年にはカエサルがガリア遠征の足を伸ばしてブリタニアに出兵したが、ブリトゥン人は戦車戦法で抵抗し、征服を免れた。ローマ軍とブリトゥン人の戦いの様子は、カエサルの『ガリア戦記』に詳しく書かれている。

ローマの属州ブリタニア時代

 ブリタニアは、紀元後43年、ローマ帝国クラウディウス帝の時、再びローマ軍に侵攻され、ついに征服されて属州となり、122年には五賢帝の一人ハドリアヌス帝が有名な長城を築き、北方のケルト系ピクト人に備えた。属州ブリタニアでは、ローマ人の手によって都市が建設され、道路網で結ばれ、また公共浴場や円形競技場などのローマ文化が浸透した。現在もイングランド各地には、ハドリアヌスの長城を初めとするローマ時代の遺跡を多数見ることができる。
ロンディニウムの建設 ロンドンはローマが建設した都市ロンディニウムを起源としている。テムズ川に面して交通の要地であったところに建設されたローマの都市として始まり、属州ブリタニアの州都とされた。また、マンチェスター、ランカシャー、ランカスターのような地名は軍団駐屯地を意味するラテン語のカストルムに由来している。
ブリタニアの反乱とローマの撤退 「ローマの平和」がブリテン島にも及んだとはいえ、ブリタニアでは、ローマ人入植者による土地収奪に反発して、たびたび反乱が起きている。60年にはイケーニー族の女王ボウディッカに率いられた反乱はローマ軍によって鎮圧されたが、その後も不穏な動きは続いた。4世紀にはゲルマン人の活動が活発化し、ローマ帝国は辺境支配を維持することができなくなり、409年にブリタニア属州を放棄した。

イギリス(2) アングロ=サクソン七王国からノルマンの征服へ

5世紀にゲルマン人の一派のアングロ=サクソン人が移住して、7世紀ごろまでに七王国を建設。8世紀ごろから統合が進み、デーン人の侵攻、アルフレッド大王の統治、デーン朝を経て9世紀にイングランド王国に統一された。1066年、ウィリアム王の率いるノルマン人が征服し、ノルマン朝が成立。

アングロ=サクソン人の移住

 3世紀頃からローマの支配が弱くなるとブリトゥン人が自立したが、5世紀頃から大陸にゲルマン人の大移動が始まり、その一派のアングロ=サクソン人はブリテン島に盛んに移住するようになった。アーサー王伝説は、アングロ=サクソン人の侵入と戦ったブリトゥン人の英雄の物語である。しかし、ブリトゥン人は次第に圧迫され、その一部は海峡を渡って大陸に移り、その地が「ブルターニュ」と言われるようになる。すると、それと区別するため、ブリテン島はより広いという意味を込めて大(グレート)ブリテン島と言われるようになった。
イングランドとスコットランド アングロ=サクソン人の移住・征服活動は長期にわたり、その間、ブリトゥン人などのケルト系氏族も同化され、6世紀末にはブリテン島の東南部から中部を占領し、この地は「アングル人の土地 Angle-land」を意味する「イングランド England」と言われるようになった。このころ、大ブリテン島北部では、アイルランドから移住したスコット人(ケルト系)による統合が進み、11世紀頃までにスコットランド王国が形成される。
キリスト教の布教 キリスト教はアングロ=サクソン人の侵入以前に、ウェールズとスコットランドのケルト人社会にすでに伝えられていた。5世紀にはウェールズでガリア出身の宣教師ゲルマヌスが布教に成功し、隣のアイルランドでは同じころブリトゥン人の聖パトリックの布教が行われており、スコットランドではアイルランド出身の聖コロンバンが活動していた。それに対してローマ教皇グレゴリウス1世が正統的カトリックの布教をめざし、597年、修道士アウグスティヌス(『告白』を書いた教父アウグスティヌスとは別人)を派遣、アングロ=サクソン七王国の一つケント王国の改宗に成功し、イングランド最初のカンタベリー大司教座がおかれた。
 6~8世紀、ブリテン島・アイルランドのキリスト教化が進んだが、アイルランドのキリスト教は修道院中心主義であったのに対し、イングランドのそれはローマ教皇と結びついた教会組織による一般信徒教化を中心としていたので、しばしば対立が生じた。次第にローマ教会の優位が確立して行き、イングランド教会からは信仰と学問の面ですぐれた聖職者が現れ、その一人アルクィンは、フランク王国のカール大帝の宮廷で活躍し、カロリング=ルネサンスの中心的存在となった。

イングランドの統一過程

 イングランドには8~9世紀にかけて7つの王国が成立、アングロ=サクソン七王国ヘプターキーという)となった。七王国は、北部のノーサンブリア、マーシア、イースト=アングリア、南部のウェセックス、サセックス、エセックス、ケントをいうが、それぞれ明確な国境があったわけではなかった。 以下、詳しくはイングランド王国の項を参照
エグバート王 829年にその一つのウェセックス王エグバートによって統一された。これによってイングランド王国が成立したとされるが、その支配はイングランドの南部にとどまり、ブリテン島の北部と西部には及んでいなかった。
デーン人の侵攻 8~11世紀第2次民族大移動とも言われるノルマン人の移動が断続的に行われ、ブリテン島の海岸各地には、大陸のユトランド半島を原住地とするデーン人が、いわゆるヴァイキング活動を展開した。
アルフレッド大王 886年、ウェセックス王アルフレッド大王はデーン人に反撃し、ロンドンを奪還、境界線を設けてデーン人の居住を認めた。彼は法律の制定、州制度の導入、ラテン文芸など学問の保護につとめ、イングランド王国の基礎をつくったので「アルフレッド大王」と言われた。
クヌートのデーン朝 11世紀に入るとデーン人の大規模な侵攻が再開され、イングランドでも内紛が起こったため、デーン人のクヌート1016年、イングランド王位についてデーン朝を開いた。彼はイングランドの他にデンマーク王、ノルウェー王を兼ねて北海帝国といわれる広範な海上王国を築いた。

キリスト教と三圃制農業

 デーン朝はクヌートの死後、急に衰え、1042年、イングランド王国にはアングロ=サクソン系の王エドワード証聖王が復位した。この王は熱心にキリスト教を保護、ウェストミンスター教会を創建し、また各地に教会を作った。このころ、イギリスには三圃制農業も始まり、領主・農奴関係と教会支配という中世封建社会の基本が形成されていった。

ノルマン征服・ノルマン朝

 1066年、ドーヴァー海峡を渡ってイングランドに侵攻したノルマンディー公ウィリアムは、ヘースティングスの戦いで勝利してイングランド王国のノルマン朝ウィリアム1世として即位した。この時期のイングランド王国は「アングロ=ノルマン王国」と言われる場合もある。
 このノルマン=コンクェストによって成立したノルマン朝はそれまでのイングランド王国とは異なる、また同時期の大陸諸国フランスやドイツ、イベリア半島とも異なった次のような特徴を有することとなった。
強大な王権と強固な封建的結びつき ノルマン朝は征服王朝であったことから、国王が広大な土地を領有しただけでなく、それまでのアングロ=サクソン系の貴族の土地を取り上げ、ノルマン系貴族に分け与えることによって、強大な王権と、王と臣下の強固な封建的関係をつくり出すことに成功した。この点は特にフランスのカペー朝との比較ではっきりとしている。
英仏にまたがる領土 ウィリアムの統治する範囲はブリテン島のイングランドと共に、本来の領地である大陸のノルマンディーにもあった。この形態は、次のプランタジネット朝の時代も続き、百年戦争の原因となり、その戦争を以てほぼこの状態は解消される。中世における「国家」を、近代以降の「国民国家」と同一のものと捉えてはいけない。
国王と臣下のねじれ現象 ウィリアムはイングランド国王として即位したが、本来のノルマンディー公(ギヨーム)の立場はそのままであった。つまりイングランド国王であると同時に、ノルマンディー公としてはフランス王から封土を与えられている臣下であるというねじれた存在となった。
フランス風宮廷 ウィリアム自身がフランス語を日常語とするノルマン人であり、彼の臣下の貴族・役人もフランス語を話したので、イングランド王国の宮廷はロンドンにあってもフランス語が公用語とされ、フランス文化が優位であった。イギリスにフランス風(ラテン風)の国家統治と宮廷文化がもたらされ、それ以後のイギリスとフランスの密接な(というより一体の)関係が始まる。

※イギリス国家と文化の特徴

ノルマン朝の成立によって形成されたイギリス国家の特徴は、その重層性にある。ケルト以前の文化・ケルト(ブリトゥン人)文化・ローマ文化・アングロ=サクソン文化・ノルマン文化・フランス文化が重層的に影響し合っている。基本はアングロ=サクソン文化を基層としてノルマン=コンクェスト以来の支配層のフランス文化が強く影響を与えたものといえるが、それ以前のケルト文化やローマ文化の影響も色濃く残っている。その言語である英語にもそれらの文化要素の混合した跡を見ることができるという。

参考 名字に見るイギリスの重層性

 イギリス人の名字には、アンダーソンなど--ソン、ブラウニングなど--イング、マクドナルドなどマク--、フィッツジェラルドなどフィッツ--、といった名字がよく見られる。これらはいずれも「--の息子」を意味する命名法で「父称」(patronymic)という。また、それぞれは英語のもととなった言語で異なっている。
Anderson , Johnson , Stevenson の -son は、北欧の -sen を用いる命名法に倣ったもので、例えば Anderson は「アンドリューの息子」が原義で、北欧のアンデルセンに対応する。英語本来の -ing (Browning ブラウンの息子)、ケルト系の Mac-(Macdonld,McDonald ドナルドの息子)、O'(O'Brien ブライアンの息子)、フランス系の Fitz- (Fitzgerald ジェラルドの息子)など、多くの種類がある。<寺澤盾『英語の歴史』2002 中公新書 p.55>

用語リストへ 5章1節5章1節

 ◀Prev  Next▶ 


イギリス(3) 中世のイギリス プランタジネット朝

12世紀後半から16世紀まで、中世封建時代。プランタジネット朝の1215年、貴族が王権を制限するマグナ=カルタが成立。フランスのヴァロワ朝との王位継承争いから、百年戦争となる。その後も王位継承をめぐってバラ戦争が続き、封建諸侯は没落していく。

プランタジネット朝

 1154年、イギリスのノルマン朝が断絶したため、血縁のフランスのアンジュー伯アンリが王位を継承しヘンリ2世となった。これがプランタジネット朝の始まりである。ヘンリ2世はイギリスとフランスにまたがる広大なアンジュー帝国ともいわれる領土を有していた。ノルマン朝と同じく、宮廷ではフランス語が用いられ、フランスとの一体感が強い時代であったが、王権に対して貴族と教会という封建領主の力が次第に強くなった時代であった。次のリチャード1世は第3回十字軍に参加し、フランスでのフィリップ2世との争いに明け暮れてほとんどイギリスに居らず、その戦費のみが国民に賦課されて反発が強まった。

13世紀、王権の制限進む

 ジョン王は再びカンタベリー大司教の任命権をめぐってローマ教皇インノケンティウス3世と争って破門され、またフランス王フィリップ2世との争いにも敗れてフランス国内のノルマンディーの領土を失ったため貴族が離反を招いた。貴族たちは1215年大憲章(マグナ=カルタ)をジョン王に認めさせて、従来の貴族の権限を保障し、国王といえども法に服するという原則が生まれた。次のヘンリ3世はマグナ=カルタを無視して諸侯に重税を課そうとして反発を受け、シモン=ド=モンフォールを指導者とした貴族の反乱が起き、国王は反乱軍の捕虜となってその要求に屈し、1265年に初めて議会(モンフォール議会)が開設された。さらに1295年にはエドワード1世がスコットランド遠征軍の費用を調達するため議会を招集、この模範議会が身分制議会としてのイギリス議会の始まりである。エドワード1世の時に宮廷で英語が話されるようになるなどフランス的な要素はうすくなり、イギリス国家としての基本的な骨格が出来上がった。 → イギリス議会制度

百年戦争期のイギリス

 プランタジネット朝のエドワード3世はフランス王位継承権を主張して1339年百年戦争を引き起こした。その背景には三圃制農業の普及による農業生産力の成長に伴い羊毛生産が発展し、それを原料としている毛織物工業の盛んなフランドル地方を支配しようとしたことにあった。フランス側でも国内のアキテーヌ地方などのイギリス王室領を奪回することをめざした。
 戦いが長期化する中、イギリス国内では農奴制の矛盾が強まり、ワット=タイラーの乱が起こった。農民反乱を鎮圧したリチャード2世は議会を停止しようとするなど貴族や都市の商工業者の反感を買って廃位されてしまい、代わって1399年ランカスター家のヘンリ4世が継承しランカスター朝となった。次のヘンリ5世が再びフランスを攻撃したが、次第にフランス軍に押され、ヘンリ6世の時、1453年に百年戦争はイギリスがカレーを除くフランス国内の領土をすべて失うことで終結した。

バラ戦争と封建領主の没落

 1455年、ランカスター朝のヘンリ6世に対し、同じプランタジネット家の傍系であるヨーク家のエドワードが王位継承権を主張、バラ戦争に突入した。1461年にはヨーク朝が成立したが、王位を簒奪したリチャード3世が暴政を行うと、大陸に亡命していたランカスター家の後継者ヘンリが1485年のボスワースの戦いでリチャード3世を破って即位し、ヘンリ7世としてテューダー朝を開いた。このバラ戦争で、イギリスの封建諸侯は二つの陣営に分かれて争い、内戦が長期化する中で没落して行き、かわって最終的な権力を握ったテューダー朝の王権に権力が集中し、絶対王政の態勢が形成されていく。

用語リストへ 5章3節5章3節

 ◀Prev Next▶ 


イギリス(4) 16世紀 絶対王政の時代

16世紀、テューダー朝のもとで宗教改革を断行、主権国家を形成させ、海外発展を開始し、世紀後半のエリザベス1世の時代に全盛期を迎える。

 16世紀のテューダー朝時代にイギリス(厳密にはイングランド王国)は強大な王権による絶対王政を確立させた。そのためにイギリス宗教改革を断行して国家統一を強化し、重商主義政策を採って海外発展を開始した。このような、統一的な国家権力のもとで、国民概念が形成され、明確な領土を排他的に有するようになった国家を「主権国家」という。大陸ではこの時期、イタリア戦争が展開され、ヴァロワ家やハプスブルク家といった中世的な封建支配が没落し、フランス・スペイン・ドイツ・イタリアなどの国民国家の形成が始まっていた(まだ完成ではない)。また、16世紀に始まり、次の17世紀までに、イギリスはオランダやフランス北部とともに近代世界システムの中の先進的な中核地帯を形成したと言える。

絶対王政下の社会

 絶対王政成立の背景にはバラ戦争による封建領主層の没落、それにかわってジェントリといわれる土地貴族層と都市の商人の台頭したことがあげられる。また農村の中間層としてヨーマンといわれる独立自営農民も成長した。ジェントリやヨーマンによる農村毛織物業の発展にともなって、囲い込み運動(第一次)が進行し、農民は土地を離れ、都市に勃興したマニュファクチュアでの賃金労働者化が進んだ。この時代は社会的には中世封建社会の枠組みが崩れ、近代社会への移行を準備した時代といえる。

宗教改革の断行

 そのような経済発展は封建的、分権的な国家体制ではなく、王権のもとに統一された国家機構を必要とした。宗教が国家統合の重要な柱であったこの時代に、イギリス・テューダー朝のヘンリ8世は、自己の離婚問題を契機にローマ教会と決別してイギリス宗教改革を断行し、1534年首長法を制定して国王を頂点とするイギリス国教会にイギリスの教会を造り替えた。ヘンリ8世は修道院の解散にも踏み切り、プロテスタント化を進めた。
イギリス国教会体制の成立 次のエドワード6世の時の一般祈祷書制定などによって教義と教会儀式を整備し、メアリ1世の時にはカトリックへの反動があったものの、エリザベス1世が態勢を立て直し、統一法を制定して国教会支配が定着した。エリザベス1世が主権国家統治の柱として選んだのが国教会制度という宗教理念により、国内の宗教対立を克服し、大陸国家を支配しているローマ=カトリックから離脱するという道であった。その後も何度かのカトリックへの反動はあったが、国教会体制は確立していく。国教会体制の下では、カトリック教徒とカルバン派の新教徒であるピューリタンは弾圧された。 → イギリスの宗教各派

エリザベス1世の絶対王政全盛期

 イギリスの絶対王政の全盛期は、テューダー朝の女王エリザベス1世(在位1558~1603年)の時代に相当する。エリザベス1世はイギリス宗教改革を完成させ、教会組織の頂点に立って国家を治めるという国教会体制を完成させ、王権を確固たるものにした。エリザベス1世の時代はシェークスピアの活躍に代表されるイギリス・ルネサンスの開花した時代であった。このように、この時代は一見華やかに見えるが、イギリスの国家財政状況から言うと困難な時期であり、経済的な繁栄期と言うわけではなかった。社会の内部も、第1次エンクロージャーが進行し、農村の困窮と階層分化は深刻な状況であった。1601年救貧法はそれに対する対応であった。一方で力をつけてきたジェントリ(郷紳)が次第に政治的にも進出してきた。

重商主義と海外発展の開始

 16世紀中頃まではイギリスは大国スペインに圧倒され、その力はまだ微弱な国家にすぎなかったが、イギリスは集約的な農業による生産性を高め、毛織物業を中心とした輸出産業を発展させて、海外進出を開始した。この段階の活動は先行するスペインの商業活動に対する私拿捕船(私掠船)による海賊行為が主であったが、オランダのスペインからの独立戦争を助け1588年にスペインの無敵艦隊を破って、イギリスの海洋帝国としての第一歩を歩み出した。権力を強化した絶対王政はその経済的基盤を重商主義の経済政策に見いだし、この世紀の最後の年の1600年東インド会社を創設し、特権的商人を保護して盛んに海外に富を求めて進出していくこととなる。またローリーを用いてヴァージニア植民地への進出を図るなど、積極的な発展策を開始した。このように16世紀後半から17世紀初頭のエリザベス1世時代は、イギリス絶対王政の全盛期あったが、同時に中世から近代へという社会の地殻変動が着実に進んだのであり、次の17世紀のピューリタン革命・名誉革命という変動を準備した時代であったと言える。

用語リストへ 8章3節8章4節

 ◀Prev Next▶ 


イギリス(5) 17世紀 イギリス革命の時代

17世紀にはステュアート朝となり、ピューリタン革命が起こって一時共和制を実現。しかしクロムウェルの独裁を経て王政復古し、さらに名誉革命で議会主権と国教会体制が確立した。この時期に重商主義政策を採り海外発展が進み、オランダ・フランスとの抗争が激しくなった。

ステュアート朝のイギリス

 17世紀の初め、1603年エリザベス1世が死去。子がいなかったのでスコットランドからステュアート家のジェームズ1世を迎えステュアート朝となった。これによってイングランドとスコットランドは同君連合という形式になったが、実態はイングランドの優勢が明白であり、スコットランドの従属性が続いた。
 イギリスはエリザベス時代にイギリス国教会という教会制度と、東インド会社に代表される重商主義経済体制とを両輪とした絶対王政の態勢を確立させ、ヨーロッパの有力な主権国家としてスペイン・ポルトガルに代わって台頭した。海外進出ではオランダ・フランスと覇を競い、ヨーロッパの国際政治では宗教の違いからカトリック教国フランスと対立するという図式が出来上がった。

ピューリタン革命

 ヨーロッパ全体で、17世紀の危機といわれるが、イギリスにおける1642年のピューリタン革命の勃発もその一つのあらわれであった。テューダー朝絶対王政の時代に始まったピューリタンの宗教的自由を求めた戦いと、都市の商工業者の経済的な自由を求めた戦いが結合し、ステュアート朝時代に吹き出したと言うことができる。
ジェームズ1世 王権神授説を掲げて議会と対立したジェームズ1世イギリス国教会の体制を強化しようとしてカトリック教会とピューリタンのいずれに対しても弾圧した。1605年11月5日にはカトリックの一部のジェントルマンは国王と国教会の貴族を一挙に葬ろうとして貴族院の爆破を狙ったが失敗する、という火薬陰謀事件(ガイ=フォークス事件)が起こった。一方、ピューリタンは信仰の自由を求めて1620年、新大陸に移住した。
チャールズ1世 次のチャールズ1世に対して、議会は1628年権利の請願を提出したが、国王はそれを無視し、対立は激化、1639年に国王がスコットランドの反乱を鎮圧するための軍事費調達のため議会を招集したものの、恣意的な課税に議会が反発してすぐ解散された短期議会を経て、再度召集された長期議会において両者の対立は決定的となり、1642年に議会派は武装して内乱が始まった。
クロムウェルの政治 議会軍を指導して主導権を握ったクロムウェルは内乱に勝利し、1649年には国王チャールズ1世を処刑し、一時的にではあれ王政を倒して共和政(コモンウェルス)を実現した。その間、クロムウェルはカトリック勢力の排除を口実にアイルランド征服スコットランド征服を実行し、さらに1651年航海法を制定して、海上貿易の利権を争うオランダ(ネーデルラント連邦共和国)と対立、翌1652年英蘭戦争を開始して国内産業の保護を図った。 → イギリス革命

王政復古

 しかし、1653年クロムウェル自身が護国卿として厳格なピューリタン精神にもとづく独裁政治を行うようになると、その独裁政治は国民大衆から遊離した。政治と社会の安定を求めるジェントリ層は、1658年にクロムウェルが死ぬと王政復古に傾き、1660年チャールズ2世の国王復帰を認め、王政復古となった。共和政を維持するだけの市民の成長がまだ不十分であったことが背景にあったと考えられる。
チャールズ2世 チャールズ2世がカトリックを復興させようとしたため議会は審査法を制定してカトリック教徒と非国教徒の公職就任を禁止し、人身保護法で逮捕状なしの拘束を禁止するなど、国王と議会の対立が続いた。また航海法を再制定したことによって1665年に第2次英蘭戦争が始まり、1666年には四日海戦で敗れた。さらにカトリックへの復帰を狙い、1670年ルイ14世ドーヴァーの密約を結んだことで議会の強い反発を受けた。
トーリとホイッグのはじまり 次のジェームズ2世もカトリックの復興にこだわったため対立は続き、議会内に国王と妥協的なトーリ党と、国王権力の制限を図ろうとするホィッグ党という党派が生まれ、後の政党政治へとつながることとなる。

名誉革命

 ジェームズ2世のカトリック復興の姿勢に危機感を持った議会は、トーリとホイッグが一致して国教会体制の維持を図るため、1688年に、国王を追放してジェームズ2世の娘のメアリ2世とその夫オランダ総督ウィレム3世を迎えた。二人は議会の示した権利の宣言を承認して権利の章典として公布した。このことをイギリスでは血が流されずに行われた革命という意味で名誉革命と呼んだ。
オランダとの同君連合 二人はメアリ2世とウィリアム3世として共同統治することとなったが、ウィリアム3世は同時にオランダ総督であるので、イギリスとオランダも同君連合となったことを意味していた。イギリスとオランダが(英蘭戦争があったにも関わらず)同君連合となったのは、当時ヨーロッパで最大の強国であったフランスのルイ14世の覇権に対抗しなければならないという事情があった。

名誉革命体制

 名誉革命が行われたことによって、イギリスは立憲君主政となった。共和政は否定され、立憲君主政という妥協的な体制となったが、まもなく「国王は君臨すれども統治せず」という原則とともに議会制度のルールが成立することとなる。同時にイギリス国王が教会の首長を兼ねるというイギリス国教会制度も再建され、議会制度と国教会制度を柱とするイギリス型立憲君主体制である「名誉革命体制」が成立したということもできる。
イギリス革命の意義と限界 これらの17世紀ピューリタン革命から名誉革命に至る変革を一括してイギリス革命という。この革命は絶対王制を倒し、一時的に共和政を成立させ、ついで立憲君主政に転換するという政治体制の大きな転換をもたらした。ただし、一般に市民革命の要素とされる封建制から市民社会への移行、ブルジョワジーの覇権成立などの要素はイギリスにおいては不十分であった。17世紀イギリスにおいては、貴族階級はその経済的特権も含めて存続しており、ジェントリ(地主)とともにジェントルマンと言われる支配階級を形成し、18~19世紀には彼らが政治・経済の実権を握っていた。その残滓は現代まで続いている。

科学革命・生活革命の時代

 17世紀イギリスは、絶対王政から共和政の実現、さらに立憲君主政と議会政治の定着へというめまぐるしい政治革命の時代であり、その背景にはジェントリとブルジョワジーの成長という社会変動があったが、同時に英蘭戦争などを通して海外発展を遂げ、植民地帝国への歩みを本格化させた時代であった。またこれらの変動に刺激されながら、17世紀の科学革命を主導したのがイギリスであった。まずフランシス=ベーコンに始まる経験論はニュートンによって自然科学として体系化され、さらに政治思想の面に応用されてホッブズロック社会契約説を生み出した。また海外進出は新しい情報と共に多くの商品をイギリスにもたらし、コーヒーハウスなどの普及に見られる生活革命が進行した時代でもあった。

ヨーロッパの状勢

 これらのイギリス革命が進展していたころ、ヨーロッパ大陸は三十年戦争(1618~48年)で疲弊した神聖ローマ帝国は事実上解体され、封建諸侯の没落が進んでプロイセン、オーストリアが主権国家体制を模索し始めた。一方フランスは、フロンドの乱の危機を乗り切ったブルボン朝のルイ14世が1661年から親政を開始、コルベールによる重商主義を採用して国力を充実させ、ヨーロッパの覇者をめざした。また独立を勝ち取ったオランダは積極的に海外進出を図り、イギリスの競争相手として台頭し、3次にわたる英蘭戦争を戦うこととなる。

アジア進出

 17世紀イギリスは国内のイギリス革命の進展と平行して、前代から始まった海外進出と重商主義政策をさらに積極的に進めた。クロムウェルはアイルランドとスコットランドを侵略し、特にアイルランドはイングランドの支配下に置かれて多くの新教徒が移住し、後のアイルランド問題の原因となった。また、国内の毛織物産業はさらに発展し、海外に販路を求め、アメリカ新大陸、インド、東南アジア、東アジアでオランダ・フランスと競合しながら次第に優位を獲得していった。
インド進出の開始 最も激しく争ったのはオランダであり、東南アジアでは1623年にはアンボイナ事件で敗れて東南アジアから撤退した。なお同年、イギリスは平戸での日本との貿易からも撤退した。その後イギリスはインド進出に主力を向けることとなり、1639年にマドラス、61年にボンベイ、90年にカルカッタを獲得して東インド会社の拠点を設けてインド産綿布の輸入にあたり、同じくインド進出をめざすフランスと競争した。

アメリカ大陸への進出

 アメリカ新大陸には1607年ヴァージニア植民地の建設から本格化し、1620年にはジェームズ1世の弾圧を逃れたピューリタンピルグリム=ファーザーズが北米に移住して、ニューイングランドの建設が始まった。
 航海法で対立が深まっていたオランダとは覇権を争うようになり、1664年には北米大陸のオランダ領ニューネーデルラントを攻撃、ニューアムステルダムを占領してニューヨークと改称、それは第2次英蘭戦争後の講和条約でイギリス領と認められた。こうしてイギリスは北米大陸の東海岸に次々と植民地を設け、後の13植民地の基礎を築いた。またクロムウェルはスペインから西インド諸島のジャマイカを奪って領土とした。

英蘭戦争

 クロムウェルの時に議会が1651年航海法を制定、イギリスに商品を運ぶ船はイギリス船か原産国の船に限定することによってオランダの中継貿易に打撃を与えようとした。それに反発したオランダとの間で、1652年5月、第1次英蘭戦争に突入した。
 航海法はクロムウェル死後も続けられ、1665年に始まった第2次英蘭戦争では、1666年6月の「四日海戦」でオランダ海軍に大敗北を喫した。この年にはロンドンで大火があり、復古王政は大きく動揺したが、オランダはフランスの侵入の恐れもあったため講和に応じた。イギリスは南米のスリナムを譲ったが、北米で占領したニューアムステルダムはそのままイギリス領と認められ、ニューヨークに改称した。
 チャールズ2世1670年ルイ14世ドーヴァーの密約を結び、カトリック復帰を条件にフランスの財政支援を受け、同盟してオランダに侵攻、1672年に第3次英蘭戦争とルイ14世のオランダ戦争が始まった。
 オランダ総督ウィレム3世は、それまでのイギリスとの敵対関係をやめ、自らチャールズ2世の弟ジェームズ(後のジェームズ2世)の娘メアリと結婚、共同してフランスにあたる方針に転換、それが1688年の名誉革命でイギリス国王として迎えられてウィリアム3世となることで実を結んだ。

第二次英仏百年戦争の始まり

 17世紀末の焦点は、オランダとの抗争からルイ14世のフランスとのヨーロッパ本土と植民地での覇権争いに移っていった。1688年に始まったファルツ戦争は新大陸でのウィリアム王戦争と連動している。ここから始まった第2次英仏百年戦争ともいわれる英仏植民地戦争は18世紀まで継続するが、17世紀末までにイギリスの優位が確立し、イギリスは新大陸からアジアに至る植民地を所有する植民地帝国=第一帝国(第一次植民地帝国)と言われるようになる。

ウィリアム3世の統治

 名誉革命後のウィリアム3世メアリ2世と共同統治した時代(1688~1702年)は、イギリスが革命の混乱の時代から繁栄の時代に転換する、重要な時期であった。ウィリアム3世はオランダ総督(事実上の国王)としてはウィレム3世であるのでイギリスとオランダは同君連合となった(上述)。
 まず、ウィリアム3世はカトリック派の残党を討つ口実でアイルランドに出兵、さらにスコットランドに遠征軍を送って制圧し、後の大ブリテン王国への道を開いた。一方“宿敵”フランスのルイ14世とはファルツ戦争ではオランダ総督としてドイツ諸侯・神聖ローマ皇帝・スペインなどとアウクスブルク同盟を結成して戦い、海上と陸上の戦いを優位に進め、北米においてはウィリアム王戦争(1689~97年)を展開した。
ウィリアム3世の財政革命 ウィリアム3世はこれらの対仏戦争の戦費を得るため、1694年イングランド銀行を設立、国債を発行することで進めた。この財政革命は近代国家として画期的な改革であった。またウィリアム3世のとき、議会でホィッグ党トーリ党のいずれか多数を占めた方に内閣を組織させるという政党政治の慣行ができあがった。
 フランスのルイ14世との抗争はなおも続き、1701年にはスペイン継承戦争が起きた。イギリスはオランダ、オーストリアと三国同盟を結んで戦闘を開始したが、翌1702年、ウィリアム3世は落馬がもとで死去した。そのため、オランダとの同君連合は解消され、イギリスはメアリ2世が単独で統治することになった。メアリ2世との間に子供が無かったので、王位はメアリの妹のアンに継承された。

Episode 最初に日本に来たイギリス人

 なお日本との関係が出来たのは、1600年、ウィリアム=アダムズがオランダ船リーフデ号で漂着し、徳川家康に謁見して江戸幕府に仕えたことから始まった。1613年からは平戸でイギリスとの貿易も始まり、アダムズは朱印船貿易で活躍し、家康から三浦按針の名前と領地を拝領した。彼が日本にやってきた初めてのイギリス人である。アダムズは三浦按針として日本で亡くなり、その墓は現在横須賀に安針塚として残されている。同じころ、オランダ人のヤン=ヨーステンも幕府に仕え、こちらは江戸城外に屋敷を拝領した。それが現在の八重洲の地名の起こりである。平戸のイギリス商館は幕府が鎖国に転じて1623年に閉鎖するまで続いた。なお、同年のアンボイナ事件ではイギリス商館が日本人傭兵を雇っていたという話が出てくる。

用語リストへ 9章1節9章2節

 ◀Prev Next▶ 


イギリス(6) 18世紀 植民地帝国の繁栄

18世紀、大ブリテン王国を成立させ、ハノーヴァー朝のもとで議会政治、政党政治が確立し、同時に世界最初の産業革命によって資本主義経済を発展させた。同時に植民地獲得への動きを強め、第1次植民地帝国(イギリス第一帝国)の繁栄を実現させた。反面、フランスとの植民地抗争による財政困難からアメリカ植民地への収奪を強めた結果、アメリカの独立という事態を招いた。一方のフランスでは革命が起こり、次のナポレオン戦争も含めイギリスも対応を余儀なくされた。

 18世紀はイギリスが「大ブリテン王国」として発展した時期である。国内政治では責任内閣制と政党政治という近代議会政治の形態が定着した時代であり、同時に経済面では綿工業での技術革新を始めとする産業革命が始まり、資本主義経済体制が成立した時代であり、さらに対外的な面では激しいフランスとの植民地戦争に勝利して、大西洋における三角貿易で利益を上げ、インドに及ぶ広大な植民地を有する植民地帝国第一帝国)となった時期である。この三つの面の動きを有機的に捉えることが重要である。

大ブリテン王国とハノーヴァー朝

 1707年アン女王のもとでイングランド王国とスコットランド王国を併合し、大ブリテン王国となった。1714年、アン女王には継嗣がなかったのでステュアート朝が断絶し、ドイツからハノーファー選帝侯のジョージ1世を迎えてハノーヴァー朝が成立したが、このころから国王は実際の政治にはほとんど関わらず、「国王は君臨すれども統治せず」という原則が確立した。
ユトレヒト条約 1701年に始まったスペイン継承戦争の講和条約として、1713年ユトレヒト条約が締結された。その付帯条項として、イギリスはフランスとスペインから、アフリカの黒人奴隷を新大陸のスペイン領に運ぶアシエント(奴隷供給契約)の権利を譲渡された。これによってイギリスは大西洋三角貿易で大きな利益を獲得することとなる。
南海泡沫事件 イギリスではすでにスペイン領の中南米への黒人奴隷や工業品の供給が増えると見越して1711年に特許会社として南海会社を設立していた。実際の貿易が始まる前から投機熱が過熱し、株が急騰、それを機に株式ブームが起き、あらゆる分野の株が暴騰した。ところが多くの会社の事業に実体がなかったことから1720年に株が暴落した。これが「南海泡沫(バブル)事件」といわれるもので、バブルがはじけた最初の例である。その収束に当たったのがホィッグ党ウォルポールだった。南海会社は奴隷貿易と捕鯨だけに事業をしぼり、東インド会社以外の株式会社は禁止された。この事件を通じて、近代資本主義の株式会社のシステムなどが整備されていくこととなった(270数年後の日本でバブルが再発しましたが)。

責任内閣制と政党政治の確立

 1721年から、ウォルポール内閣から内閣が議会に対して責任を持って国政を担当するという責任内閣制が成立した。また議会政治は政党が選挙によって多数党の位置を競い、多数党が内閣を組織するという政党政治の枠組みが出来上がった。トーリ党ホィッグ党が近代的な政党へと脱皮していった。1760年以降のジョージ3世の時代は産業革命の展開と同時に、アメリカ独立革命およびフランス革命という市民革命の展開という二重革命に直面し、次の19世紀の第2次植民地帝国の繁栄、いわゆる大英帝国への重要なステップとなった。

産業革命と資本主義経済の成立

 イギリスの産業、経済のあり方もこの時期に大きく変動した。国内統一市場が成立したばかりでなく、前世紀から続く海外発展は国内の生産と消費を増大させた。産業は毛織物中心から次第に綿糸・綿織物の綿工業に移行し、綿布生産が産業の中心になった。綿布の需要の増大は1730年代の技術革新の開始をもたらし、1760年代からは本格的なイギリスの産業革命に突入する。海外貿易で蓄積された資本は綿布などの機械制大量生産に投資され、産業資本が形成されていった。1769年ごろ、その動力としてワット蒸気機関の改良に成功し、エネルギー源として石炭が用いられるようになった。
 工業化によって新たな工業都市に人口が集中し、あわせて農村では穀物需要の増大に適応して農業革命が展開され、三圃制農業から輪作制への転換とともに囲い込み(第2次)が信仰した。これによってヨーマンによる自営農業という従来の基本が崩れ、資本主義的農場経営に移行した。
 広く農民が賃金労働者化することによって原始的蓄積も進行し、資本家による労働者の雇用という資本主義社会に移行していった。産業革命の中から成長した産業資本家は、従来の重商主義経済政策に反対して、自由貿易主義を主張するようになる。また労働者の権利の保護の観念は不十分で、その劣悪な状態が大きな社会問題になり始める。なお、最近ではイギリス資本主義の発展の特質を、産業資本家による産業資本主義ではなく、ジェントルマンによる金融・サービス業などの役割を重視するジェントルマン資本主義に求める観点がだされている。
 これらの産業革命の進展と合わせて、従来の重商主義に対して、自由貿易を柱とした経済政策を主張したアダム=スミスの『諸国民の富』(国富論)が刊行されたのは1776年のことであり、そこで明確となった自由放任(レッセフェール)の経済思想は、次の19世紀のイギリス資本主義経済の形成と発展の理論的支柱となった。

第1次植民地帝国の形成

 17世紀後半から続く第2次百年戦争とも言われるフランスとの海外植民地をめぐる抗争は、ヨーロッパ内部の主権国家間の領土争い、特にフランスのブルボン朝とオーストリア・スペインのハプスブルク家の対立と結びつき、より激しさと範囲の拡張が進んだ。1701年からのスペイン継承戦争オーストリア継承戦争七年戦争などと平行して、新大陸では1702年からのアン女王戦争ジョージ王戦争フレンチ=インディアン戦争などを展開した。
メシュエン条約 1703年にはポルトガルとの間でメシュエン条約を締結している。これは、イギリスがポルトガルの独立を保障する代償として、ポルトガルをイギリス製品(毛織物)の有利な市場とする取り決めであったが、それにとどまらず、イギリス商人がポルトガル領ブラジルの市場と取り引きできることとなり、その決済を金で求めたことによってブラジルの金がイギリスに流れ込む仕組みが出来上がったことが重要である。
アシエントの獲得 特に1713年のスペイン継承戦争の講和条約であるユトレヒト条約で、ジブラルタルミノルカ島ニューファンドランドアカディアハドソン湾地方を獲得するとともに、アフリカの黒人奴隷を新大陸に輸出する権利(アシエント)を獲得し、それによって大西洋を舞台とした三角貿易(大西洋貿易システム)を展開した。
植民地の拡張 またフレンチ=インディアン戦争(ヨーロッパでは七年戦争)の講和条約である1763年パリ条約で、アメリカ大陸にカナダなどの広大な領土を獲得し、さらにインドにおいてもプラッシーの戦いでフランスとインド土豪軍に勝って、その植民地化を進めた。1763年を以てイギリスは第1次植民地帝国(第一帝国)を形成したとされている。17世紀のフランスとの植民地獲得戦争で、イギリスは豊かな海軍力を駆使して勝利したが、その要因となったのは前世紀末にイングランド銀行を設置し、国債制度や金融制度をいち早く整備し、財政を安定させたところにある。

アメリカの独立

 しかし、七年戦争頃からは国債だけでは維持できなくなると、イギリス本国政府はそれまでの「有効なる怠慢」と言われた植民地放任政策を改めて、植民地に対する課税を強化する方針に転じた。パリ条約と同年の1763年の「国王の宣言」でアパラチア以西への植民地人の進出を抑制し、砂糖法印紙法茶法と立て続けに植民地に対する課税を増やした。その結果、アメリカ植民地に独立の声が高まり、ついにアメリカ独立戦争(1775~83年)が勃発する。1776年アメリカ独立宣言はイギリス国王ジョージ3世の圧政を激しく非難、独立軍はフランスの参戦や国際的な義勇兵の参加、ロシアの武装中立同盟などもあって優位に戦いを進め、1783年パリ条約でイギリスはその独立を認めざるを得なかった。これによって第1次植民地帝国は終わりを告げた。 → アメリカ合衆国の建国

フランス革命とイギリス

 1789年、フランス革命が起こり、93年にはルイ16世が処刑されてブルボン朝が倒れたことはイギリスにも大きな影響を与えた。ジョージ3世は王政の危機を感じ取って議会に介入し王権を強めようとした。議会はトーリ党もホイッグ党も地主政党であったので産業革命の進行によって市民や労働者が台頭することを恐れ、国王に同調して保守化した。エドモンド=バークは『フランス革命に関する考察』を刊行し、また議会でも演説してフランス革命の暴力によって秩序が破壊されることは進歩ではないと激しく革命を非難した。1793年にフランス革命政府はイギリスに宣戦布告、イギリスは対仏大同盟を何度か結成し、対決姿勢を強める。1799年、ナポレオンがフランスの独裁者となるとその最大の攻撃目標はイギリスとされ、海軍による両者の戦いが次の世紀まで続くことになる。イギリスのピット内閣は労働者に革命思想が強まることを警戒し、1799年、団結禁止法を制定した。

用語リストへ 9章1節10章1節10章2節

 ◀Prev  Next▶ 


イギリス(7) ウィーン体制からヴィクトリア朝へ

19世紀前半のウィーン体制の時代と、後半のヴィクトリア朝時代。第二帝国、パックス=ブリタニカといわれたイギリスの全盛期を迎えた。国内では選挙法改正、カトリック解放、穀物法廃止などの自由主義改革が進んだが、アイルランド問題は残った。

ナポレオン戦争とウィーン体制

 1801年、イギリスはアイルランドを併合し、大ブリテン島とアイルランド島を一体化、「大ブリテンおよびアイルランド連合王国」となった。連合王国という形式であるがイギリスはブリテン島とアイルランドを統合した国家となった。19世紀初頭は、フランスとの第2次百年戦争を継続し、ナポレオン戦争を展開した。また、ナポレオンの大陸封鎖令に対抗して逆封鎖を行ったため、中立国アメリカ合衆国との間で1812年アメリカ=イギリス戦争が起こった。
 この間、政治家ピットや軍人ネルソンウェリントンらの活躍もあって、ついにその侵略を許さず、対ナポレオン戦争に勝利して、ウィーン会議ではウィーン議定書1815年6月)によってケープ植民地マルタ島スリランカ(セイロン島)、イオニア諸島(ギリシア西岸)を獲得した。この結果、大ブリテンとアイルランドの合同に際して作られたユニオン=ジャックを靡かせたイギリス艦船が、世界の海にひろがっていくことになった。
ウィーン体制とイギリス  イギリスは19世紀前半のウィーン体制の国際社会の中で優位に立ち、フランスを抑えるための四国同盟を提唱した。これには復古王政となったフランスが加わり、五国同盟となって、一種のヨーロッパの集団安全保障的な機能を果たすことになった。しかし、一方でロシアが提唱した神聖同盟にはイギリスは加わらなかった。
 その後、ウィーン体制諸国はロシア主導で保守化を強め、ラテンアメリカ諸国への介入を復活させたことに対し、アメリカ合衆国がモンロー教書を出して反発すると、イギリスはそれを支持した。さらに東方問題などで互いに対立するようになり、ギリシア独立戦争ではイギリス国内のバイロンなどのギリシア愛護主義の盛り上がりもあって介入し、1827年ナヴァリノの海戦ではフランス・ロシアと共同で海軍を派遣しオスマン帝国海軍を破った。1830年のロンドン会議でギリシアの独立は承認された。
 同1830年のフランス七月革命の影響で始まったベルギー独立では、パーマーストン外相はその独立を支持し、しかもベルギー中立化を実現して自国の安全保障とした。こうしてイギリスは次第に大陸のウィーン体制諸国とは距離を置くようになり、圧倒的な海軍力を背景に孤立を恐れない外交路線を採るようになった。
ヴィクトリア女王の即位 ジョージ3世の60年にわたった長い統治が1820年におわり、ジョージ4世(在位1820~30)・ウィリアム4世(在位1830~37)が続いたが、この二人は素行上に問題がありイギリス君主制は存続の危機を迎えた。1837年、そこに登場した18歳の“かわいらしい”ヴィクトリアの登場は、国民の王室離れをとどめる効果があった。ハノーヴァー朝の国王はイギリス連合王国の王位とドイツの領邦ハノーヴァーの王位を兼ねていたが、ハノーヴァーではゲルマン人の伝統であるサリカ法が女子の王位継承を認めていないので、ヴィクトリア女王の即位に伴い、連合王国とハノーヴァー王国との連合王国関係は解消された。

パックス=ブリタニカ

 18世紀の60年代以降に本格化したイギリスの産業革命によって、他に先駆けて工業化を達成し、特に1830年代から70年代には、イギリスは世界の工場と言われる、高い競争力を誇っていた。特に1837~1901年のヴィクトリア女王の時代、ヴィクトリア朝は経済の繁栄と広大な海外植民地を誇り、第一帝国(17世紀中頃から18世紀末のアメリカ独立まで)に続く第二帝国(第一次世界大戦まで)ともいわれている。またイギリスの圧倒的な海軍力によって実現したこの時期の世界の相対的な安定を、古代ローマのパックス=ロマーナになぞらえて「パックス=ブリタニカ」ともいう。このヴィクトリア時代のイギリスの繁栄を象徴する出来事が、1851年に開催されたロンドン万国博覧会であった。

対立軸の転換

 国内政治では議会政治は定着しているものの19世紀初頭の議会は地主貴族が多数を占め、その利益保護が図られ、1815年には穀物法が制定されて地主保護が明確となり、ラダイト運動など労働者の運動は厳しく弾圧されていた。しかし、産業革命の進行によって登場してきた産業資本家は、選挙制度の改正と自由貿易を主張するようになり、1830年のフランスの七月革命の影響もあって選挙法改正運動が激しくなった。ホイッグ党グレイ内閣は選挙法改正に踏み切り、1832年第1回選挙法改正が議会を通過し、腐敗選挙区など中世以来の弊害が取り除かれ、産業資本家が参政権を得ることとなった。一方で労働者保護も具体化されるようになり、1833年には一般工場法が制定された。しかし、労働者には参政権は与えられなかったので、19世紀前半まで地主貴族対産業資本家という対立軸に代わって産業資本家対労働者という図式に転換していく。ヴィクトリア時代にはそれが明確となり、参政権を求める労働者はチャーティスト運動を組織した。運動は1838年人民憲章の提出を機に盛り上がり、1842年には最高潮に達した。

自由主義への転換

 議会の勢力関係は変化して旧ホイッグ党系と産業資本家の急進派は自由党を結成し、旧トーリ党系の地主層と穏健な産業資本家は保守党を結成した。
 産業革命での産業資本家の進出を背景に、イギリス議会では自由主義的改革が進んだ。すでに20年代の審査法の廃止カトリック教徒解放法での宗教的差別の解消や1833年奴隷制廃止などの社会立法も行われていたが、さらに産業資本家の議会進出によって、経済政策においては前代の重商主義政策を改めて自由貿易主義に転換を促し、同年の東インド会社の商業活動の停止が実現した。
 1838年にマンチェスターの産業資本家コブデンブライトらによって結成された反穀物法同盟の運動が活発になると、保守党のピールなども同調するようになり、1845年からアイルランドで始まったジャガイモ飢饉をきっかけに、翌年1846年にピール内閣は穀物法廃止に踏み切った。これはイギリス貿易政策の大きな転換となり、それ以後は自由党ラッセル内閣による1849年航海法廃止など、自由貿易主義に舵をとることになった。労働者のチャーティスト運動に対する弾圧は続いたが、このような自由貿易主義に基づいた海外発展が進んだ1840~60年代を、最近では「自由貿易帝国主義」という概念で捉えられている。<川北稔・木畑洋一編『イギリスの歴史―帝国=コモンウェルスの歩み』2000 有斐閣アルマ p.122>

ヴィクトリア朝

 ヴィクトリア女王の在位期間である19世紀後半はヴィクトリア朝(ヴィクトリア時代)と言われ、イギリスの第二帝国の繁栄がもたらされた。1851年に開催されたロンドン万国博覧会は、それを象徴する行事であった。保守党のディズレーリと自由党のグラッドストンによる典型的な二大政党制による政党政治が展開された。選挙法改正では1867年第二回選挙法改正で都市労働者が選挙権を認められ、1884年にはグラッドストン内閣が第三回選挙法改正を行い、農業と鉱山の労働者にも選挙権が与えられた。男子普通選挙が実現するのは20世紀に入ってからの1918年であり、婦人参政権はさらに後の28年のことである。

第二帝国の成立

 イギリスはアメリカ合衆国の独立によって北米の植民地の多くを失ったが、なおも北米大陸にカナダ、ジャマイカなどの西インド諸島、アフリカのエジプト、南アフリカなど、さらにアジアのインドとその周辺などに植民地または勢力圏を拡大し、広大な資源を有する植民地帝国を形成していた。イギリス経済の世界制覇は、本国の工業製品と、インドの綿花・アヘン、中国の茶、絹織物などを結ぶ三角貿易という形で展開された。
 自由貿易を掲げるイギリスは1840年にはアヘン戦争で清朝を屈服させて香港を獲得、太平天国(1851~64年)の反乱で清朝が危機に陥ると1856年アロー戦争をしかけ、1860年北京条約で開港場の増加など、権益を拡大した。
 インドにおいては1857年にはインド大反乱を鎮圧し、1877年インド帝国として植民地化を達成、さらに1824年から86年までの間の3次にわたるイギリス=ビルマ戦争ビルマを植民地化し、その他東南アジア・アフリカにも進出する。イギリスは19世紀後半からは自由貿易の拡大から植民地そのもの獲得という帝国主義的拡大の時代に入ったと言うことができる。それに対してインドの民族運動の活発化など、イギリスも新たな対応を迫られていく。
クリミア戦争 このようなイギリスのインド支配を脅かしたのが、ロシアの南下政策であった。1853年、ロシアがオスマン帝国とのクリミア戦争を開始すると、パーマーストン内閣はロシアが黒海から地中海方面に進出することを阻止するため、フランス(ナポレオン3世)とともに1854年に参戦、遠く黒海方面に軍隊を派遣し、クリミア半島のセヴァストーポリでロシア軍を破った。この戦争はイギリス軍が植民地での戦争の他に、当時最強の陸軍国と言われたロシアと戦って勝利したことから、大英帝国の威信を高めることとなった。同時に近代戦争の悲惨さも自覚されるようになり、ナイティンゲールがその経験から近代的な看護を提唱する契機ともなった。

用語リストへ12章1節12章2節

 ◀Prev Next▶ 


イギリス(8) イギリスの帝国主義

19世紀70年代、ヴィクトリア女王治世後半のイギリスは帝国主義段階に入り、植民地帝国として繁栄し、外交では「光栄ある孤立」を掲げた。しかし、1870年代からドイツとアメリカの急速な工業化によって、激しい帝国主義的な抗争の段階に突入した。

独占資本の形成と帝国主義への転換

 前世紀の60年代に本格化した綿工業中心の産業革命はさらに進み、19世紀には工場制機械工業が普及し、マンチェスターやバーミンガムなどに工業都市が発展、また前代からのリヴァプールは工業製品の積出港として繁栄した。産業革命を他に先駆けて達成して、文字通り「世界の工場」として工業生産を一手に引き受けていた。特に1840年代には鉄道が急速に普及し、蒸気船の普及とともに交通革命が起こった。次第に産業の重点は重工業に移ることとなり、それにともなって資本の淘汰が行われ、従来の商業資本が金融資本に支配されるようになり、巨大な独占資本の出現し、国家と独占資本の結びつきが強まって、70年代からは帝国主義の段階に入る。その象徴が、1875年のディズレーリ内閣によるスエズ運河会社買収であった。さらに露土戦争に介入し、1878年ベルリン条約ではキプロス島の管理権を獲得し、西アジアからインド一帯を支配する為の拠点とした(第一次世界大戦後に併合する)。
 インドではインド大反乱を鎮圧してインド植民地支配を完成させ、1877年ヴィクトリア女王を皇帝とする「インド帝国」を成立させた。これによって形は独立した帝国であるが実質はイギリスの直轄領として帝国主義的なインド植民地支配が20世紀中頃のインド独立まで続く。それに対して、インドの反英闘争が本格化していく。

帝国主義の植民地政策

 第二帝国といわれた19世紀後半のイギリスでは、自由貿易主義の理念からは、植民地を拡大することは必ずしも合致せず、植民地を維持することの負担を無くし、植民地を独立させて自由に貿易をした方がよいという、植民地不要論も存在した。しかし、帝国主義列強の世界分割(植民地囲い込み)競争から撤退することはできず、イギリスも植民地支配強化、拡大にむかった。むしろ、国内の矛盾を植民地拡大によって解決するという方向にむかったのである。
 19世紀末にはエジプトのウラービーの戦い、スーダンのマフディ教徒の反乱の鎮圧、ケープ植民地(植民地政府首相セシル=ローズ)によるブール人の国への侵略など、植民相ジョセフ=チェンバレンを中心に帝国主義政策を展開し、1898年のフランスとのファショダ事件1899年から1902年の南アフリカ戦争を起こすこととなる。西アジアではトルコ、イラン、アフガニスタンに進出してきたロシアと対立し、1838年以降、アフガニスタンに侵攻してアフガン戦争を起こし、苦戦しながらも1880年、アフガニスタンを事実上保護国としてインド方面へのロシアの侵出を阻止した。東アジアでは1898年年の中国分割にも加わり、威海衛九竜半島(1860年の北京条約で獲得した地の残り)を租借した。また、1899年には中東のクウェートを保護国としている。
 一方、前世紀から続く白人入植地に対しては自治を認めることに転じ、1867年カナダ以降、オーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ連邦などを自治領(ドミニオン)として独自の政府を認めた。同時にドイツなどとの帝国主義的対立が強まる中、自治領との結束を強めるため1887年の第1回以降、植民地会議を開催していく。 → イギリス第二帝国
イギリス植民地帝国 1900年前後のイギリスの主な植民地をまとめると次のようになる。

帝国主義間の対立

 イギリス帝国主義は先進的な工業力と広大な植民地支配を基盤として19世紀に形成されたが、19世紀中期になると産業革命を進行させたドイツとアメリカがイギリスを急追するようになり、イギリス独占資本を上回る巨大な独占資本が両国で生まれ、イギリスはおびやかされることとなり、ついに19世紀末に工業生産世界第一位の座をアメリカに奪われることとなる。こうして20世紀は帝国主義諸国間の激しい対立の時代へと転換していく。

新興国ドイツとの対立

 イギリスは前世紀末までに工業生産世界一位の座をアメリカに奪われるも、金融と海運でなおも世界経済の上で大きな地位を占めた。また、帝国主義的膨張政策をとり「世界政策」として3B政策をかかげるヴィルヘルム2世のドイツ帝国に対して、イギリスは3C政策(カイロ、ケープタウン、カルカッタ)によって植民地支配を維持しようとした。帝国主義両国は、それぞれ海軍の増強に努め(建艦競争)、鋭く対立する。
 イギリスはすでに1902年、ロシアのアジア進出を警戒し、日英同盟を結んで「光栄ある孤立」の外交姿勢を放棄していたが、このドイツの台頭に対しては、1904年英仏協商1907年英露協商を締結して、三国協商を結成した。このような列強間の軍事同盟は、ドイツ・オーストリアを軸とする三国同盟との勢力均衡を図ったものであったが、バルカン問題でのオーストリアとロシアの対立にイギリスが巻き込まれることとなる。

選挙法改正、労働者の政党の登場

 選挙制度は1867年第2回改正で都市労働者に、1884年第3回改正で農村労働者に選挙権が拡大され、労働者の大半は選挙権を得た。資本主義の独占進行にともない、労働者に対する搾取は厳しくなり、その中で労働運動にマルクスの社会主義も影響を及ぼすようになった。1884年、ウェブ夫妻らがフェビアン協会を設立、ケア=ハーディは1893年に独立労働党を結成、さらに労働組合などの組織が加わって、この世紀の最後の1900年に労働代表委員会を設立した。これは1906年労働党となる。イギリスの社会主義政党は,選挙制度の改正もあって、次第に議会制民主主義が主流となっていく。

アイルランド問題

 17世紀のクロムウェルの征服以来、イギリスの植民地となったアイルランドでは、本国人の地主のもとでアイルランド人が小作人となるという関係が長く続き、アイルランド人の特に土地に対する不満が強まっていた。特に1845年9月に始まったジャガイモ飢饉はその矛盾を深め、アイルランドの土地問題はイギリス本国政府にとっても重要な課題となっていった。
 イギリスの帝国主義政策は主としてディズレーリからソールズベリに継承された保守党によって推進されたが、自由党のグラッドストンは自由主義政策の立場から帝国主義には抑制的であり、アイルランド問題にも積極的に取り組んだ。グラッドストン(第3次)内閣は1886年、アイルランド自治法案を議会に提出したが、野党の保守党ばかりでなく自由党内からもジョゼフ=チェンバレンなどが連合維持を主張して反対し、自由党が分裂したため法案は成立しなかった。グラッドストンはさらに第4次内閣を組織した1893年にもアイルランド自治法案を提出する執念を見せたが、下院は通過したものの上院で否決され、再び葬られた。

自由党政権の社会改革

 1905年には自由党政権が成立し、アスキスらが労働党の協力の下、国民保険法などの社会改革を進めた。またドイツとの建艦競争が始まると、ロイド=ジョージ蔵相は保守党の抵抗を抑えて富裕層への増税を実施し、その過程で保守党の牙城であった上院の権限を弱めるため、議会法を改正して法案採決での下院の優越を実現させるなど、現在の議会政治につながる改革を行った。

(9)イギリス 第一次世界大戦と戦間期のイギリス

第一次世界大戦に参戦し、陸軍を大陸に派兵。海軍はドイツの潜水艦と戦った。戦勝国としてパリ講和会議に参加するも、債権国から債務国に転じ、イギリス帝国の繁栄は失われ、国際政治・経済の主導権はアメリカに移った。

第一次世界大戦へのイギリスの参戦事情

 1914年6月28日にサライェヴォ事件がおこり、7月に第一次世界大戦が勃発した時のイギリス首相はアスキスでイギリス史上最初の自由党単独内閣であった。アスキス内閣は当初、大陸の戦争には加わらないつもりであり、外相グレイは大戦勃発に際してオーストリアとロシア、ドイツとフランスの間を調停する国際会議を提唱するなど早期解決を図ったがいずれも失敗し、8月4日、ドイツが中立国ベルギーに侵攻するに及んで、参戦を決意した。イギリスの、ドイツが中立国を侵犯したことに対する戦い、という参戦の口実は、議会及び国民に対して参戦の大義を示す必要から打ち出された面も強く、いまや19世紀までのような権力者が国民を無視して戦争を起こすことはできなくなっていることを示している。
 参戦を最初から主張したのは海軍大臣のチャーチルだった。しかし、彼が主導したガリポリ上陸作戦が失敗し、戦争が長期化するに従い、保守党からの批判が強くなり、チャーチルは辞任、16年12月、自由党の反アスキス派のロイド=ジョージが保守党・労働党との挙国一致内閣を組織することとなった。

第一次世界大戦とイギリス

 第一次世界大戦はイギリスとドイツの帝国主義国の対立が最も大きな原因であった。イギリスは、本土は戦場とならなかったが本国及びイギリス帝国会議に属する植民地・自治領から多くの人員と物資を投入し、大きな犠牲を払った。
徴兵制の導入 イギリス軍はそれまで職業軍人(将校はジェントリ出身が多かった)と義勇兵(庶民階層出身)に依存していたが、1916年1月に初めて徴兵制を導入した。18歳から41歳までの独身男性はすべて戦場にかり出される体制となった。本国で670万人が動員されただけでなく、海外植民地にも及び、カナダ(45万人)、オーストラリア(33万人)、ニュージーランド(11万人)、南アフリカ(7.6万人)、インド(144万人)などイギリス帝国各地からヨーロッパの西部戦線やトルコとの戦場に動員され、最終的にイギリス帝国全土で919万人が動員された。<君塚直隆『物語イギリスの歴史下』2015 中公新書 p.137> → 第一次世界大戦とイギリス自治領
イギリスの「大戦争」  第一次世界大戦でのイギリス本国では軍人の戦死者は89万、文民の死者は11万、自治領の軍人戦死者は16万、インドの軍人戦死者が7万に及んだ。本国の軍人戦死者89万は、第二次世界大戦の38万の倍以上であり、イギリスにとって大きな犠牲を出した戦争であった。イギリス人はこの戦争を定冠詞付きで「大戦争」とよんでおり、どの町、どの法人を訪れてもいちばん目立つところに「The Great War」の戦没者記念碑がある。<近藤和彦『イギリス史10講』2013 岩波新書 p.260>

ヴェルサイユ体制とイギリス

 第一次世界大戦はアメリカ合衆国の経済支援と途中からの参戦、ロシア革命の勃発でロシアが脱落したことによって1918年11月に終結し、イギリスは戦勝国となった。パリ講和会議ではイギリス代表ロイド=ジョージはフランスとともに敗戦国ドイツに対する賠償金などの厳しい要求を押しつけ、ヴェルサイユ条約に調印して戦後のヴェルサイユ条約体制の主要メンバーとなった。
 また中東ではオスマン帝国と戦ったので、大戦中にアラブ人(フセイン=マクマホン協定)、ユダヤ人(バルフォア宣言)にそれぞれ独立を認めながら、フランスとの密約(サイクス=ピコ協定)によって旧オスマン帝国領を分割し、委任統治とした。これによって現在に至る中東問題についてイギリスが大きな責任を負うこととなった。

労働党の進出

 第一次世界大戦中の1918年2月に選挙法改正(第4回)によって普通選挙が実現して労働者の有権者が増大したため、労働党が躍進した。党首マクドナルドは1924年に自由党と連立内閣を組織して初めて政権の一翼を担うこととなった。この内閣はソ連の承認などを行ったが、まもなく閣内不一致から倒れ、短命に終わった。1928年には選挙法改正(第5回)で、男女平等選挙権が実現して、労働党は党勢をさらに伸ばし、1929年にはマクドナルド労働党単独内閣を組織した。こうして、自由党は次第に後退して、二大政党制は保守党・労働党に移行した。

植民地政策の転換

 イギリスは白人入植地に対しては、1867年のカナダを始めとして、1901年のオーストラリア連邦、1907年のニュージーランド、1910年の南アフリカ連邦などの自治領を次々と認めた。これらの自治領は当初は本国議会の決定に従わなければならなかった。1907年に従来のイギリス植民地会議を改称して、イギリス帝国会議を開催した。これは植民地および自治領を「イギリス帝国」として拘束する狙いであったが、第一次世界大戦では実際に自治領と植民地(特にインド)から多数の兵員を動員した。 → 第一次世界大戦とイギリスの自治領

イギリス連邦の成立

   そのためもあって、第一次世界大戦の戦後に民族独立の動きが世界的に活発になる中で、自治領の中には単なる自治ではないイギリス本国との対等な関係を要求する声が強まり、また自治権のないインドなどの直轄植民地では独立を要求する声が強くなった。イギリスは有色人種系の植民地と白人入植者がつくった自治領を区別し、後者をイギリスの勢力圏につなぎ止めておくために、1926年のイギリス帝国会議で本国と同じ権利を与えることを認め、1931年ウェストミンスター憲章として公布し、旧自治領を本国と対等な主権国家と認め、そのかわり協力関係を維持するとしてイギリス連邦を発足させた。

アイルランド問題の展開

 イギリスの「最古で最もやっかいな植民地」であったアイルランド問題では、自由党内閣のもとで1914年にようやくアイルランド自治法(ホームルール法)が成立したものの、大戦の勃発によって実施が延期された。それに反発して1916年2月に急進派はイースター蜂起を起こし「アイルランド共和国」の独立を宣言したが、鎮圧された。
 アイルランドの民族主義政党シン=フェイン党はイースター蜂起の主力ではなかったが、イギリス本国による反乱鎮圧が苛酷であったことの反動で支持を集め、1918年の選挙では躍進し、指導者デ=ヴァレラはダブリンで独自に議会を開催、アイルランド共和国の独立を宣言した。それを認めないイギリス本国政府は軍隊を派遣し、1919年1月21日からはイギリス政府軍とアイルランドの間のアイルランド独立戦争(イギリス=アイルランド戦争)(英・アイ戦争)が始まった。このときアイルランドの志願兵として組織されたのがアイルランド共和国軍(IRA)であった。
 第一次世界大戦が終了しても、アイルランドとの戦争を続けていたイギリスは、1920年に首相ロイド=ジョージが議会でアイルランド統治法を成立させ、収束を図った。これはアイルランドを南北に分割し、北はイギリスの統治のもと、一定の自治を与え、南は自治領としてカナダなどと同じ実質的な独立を認めようというものであった。戦争が長期化する中、イギリス・アイルランド双方に和平の気運がうまれ、交渉が行われた結果、ようやく1921年12月にイギリス=アイルランド条約が締結された。これはイギリス首相ロイド=ジョージが進めたアイルランド統治法に沿ってアイルランドを分割するものであったが、シン=フェイン党の代表もそれを認めて妥協が成立、アイルランドのカトリックの多い南部26州は、1922年に「アイルランド自由国」として独立、プロテスタントの多い北アイルランド(アルスター地方の一部)は分離してイギリス領に残しながら地方議会、地方政府などの一定の自治が与えられた。これによって1922年からイギリスの正式国号は、大ブリテンおよび北アイルランド連合王国」(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)となった。
 アイルランドでは、それまで独立運動を進めていたシン=フェイン党がこの条約を巡って、それを将来の独立の一段階として容認する多数派と、反対してあくまで全島の完全独立と共和政を求める少数の急進派に分裂した。当初は多数派が自由国政府を担ったが、双方は武装して内戦に突入し、1923年後まで混乱が続いた。
 しかし、イギリス領として残った北アイルランドでは多数派であるプロテスタント住民による少数派のカトリック教徒にたいする差別がひどくなった。カトリック側ではアイルランドとの統一を要求する急進派のアイルランド共和国軍(IRA)が活動を続けたが、分裂が続き、運動は次第に停滞した。
 アイルランドでは1929年の世界恐慌が及び、アイルランド自由国政府が経済政策に失敗したため、1932年の選挙で完全独立を掲げていたデ=ヴァレラの率いるアイルランド共和党が大勝し、そのもとで1937年に新憲法を制定してイギリス連邦から離脱するとともに国号をエールに変更した。しかしイギリス連邦からの離脱には至らなかった。

インドの自治要求

 一方、イギリスの直轄植民地であったインド帝国では、高まるインドの反英闘争を抑えるために、1905年ベンガル分割令を出してヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の分断を図った。それに対してインド国民会議(1885年成立)が翌年カルカッタ大会を開催、自治の要求を鮮明にした。インド独立運動はイギリス当局の弾圧と懐柔で抑えられたが、第一次世界大戦後にインド統治法ローラット法1919年3月施行)で強圧的な支配が行われるようになると、あらたに国民会議派の指導者となったガンディーが、1919年から第1次非暴力・不服従運動サティヤーグラハ運動、非協力運動とも言われる)を開始した。それに対してイギリスはアムリットサール事件では力で運動を押さえ、さらにインド統治法(21年施行)で地方政治での一定の自治を認めることで収束させた。 → インドの反英闘争

国際協調の中で

 イギリスは第一次世界大戦で国力を消耗し、アメリカ経済への依存度を強め、世界経済の覇権はアメリカに移行した。国際政治ではアメリカ大統領ウィルソンの提唱した国際連盟の常任理事国として重要な役割を担うこととなった。労働党政府はロシア革命によって成立したソ連を承認し、国際協調にも協力し、戦間期の平和がしばらく続いた。1922年にはワシントン会議に参加し、ワシントン海軍軍備制限条約に調印したが、それは主力艦の比率をアメリカと同じにする内容で、イギリスの海軍力が世界を支配していた時代が終わったことを示していた。またこの会議で締結された太平洋に関する四カ国条約では日英同盟が破棄されることとなった。

用語リストへ 15章1節15章2節15章3節

 ◀Prev Next▶ 


(10)イギリス 世界恐慌からファシズムの台頭へ

1929年、アメリカ発の世界恐慌がイギリスにもおよぶ。イギリスはマクドナルド挙国一致内閣のもとでブロック経済を成立させる。1933年にドイツでヒトラー政権が成立、ヴェルサイユ体制打破を主張し再軍備を行うが、イギリスは宥和政策を取る。

世界恐慌

 しかし1929年のアメリカで起こった世界恐慌は、アメリカの支援で経済を復興させようとしていたドイツ、そしてドイツの賠償金で立ち直ろうとしていたイギリス・フランスに直接的に波及した。世界恐慌にあたって、イギリスではマクドナルド労働党内閣がその対応に当たったが、マクドナルドの打ち出した緊縮財政のための失業保険削減は労働党内部でも反対が多く、マクドナルドは労働党から離れて保守党と協力して1931年8月マクドナルド挙国一致内閣を成立させた。挙国一致内閣は、1931年9月には金本位制の停止(離脱)、1932年3月には保護関税法を制定して保護関税政策の導入に踏みきった。1932年7月にはオタワ連邦会議を開催し、イギリス連邦(旧植民地地域を)抱き込んで経済ブロックをつくって生き残りを図ったが、このようなブロック経済は世界の貿易を減少させ、さらに不況を増加させた。

インド植民地支配の変化

 マクドナルド労働党内閣は、インドに一定の自治を認めることに舵を切り、1929年に第1回英印円卓会議を開催した。しかし、世界恐慌の影響が及んで農村の貧困化が一段と進んでいたインドでは、国民会議派の中にネルーなどの若い活動家が「完全独立(プールナ=スワラージ)」を要求するようになり、円卓会議をボイコットした。
 続いてインドでは、1930年1月からガンディーが塩税に反対して塩の行進を開始し、第2次非暴力・不服従運動として再び反英闘争が盛り上がった。イギリスは1931年第2回英印円卓会議を開催、ムスリムとヒンドゥー教との対立を利用した巧みな分割統治によって運動を抑えた。

ファシズムの台頭

 一方、イタリアから始まったファシズム運動がドイツに波及し1930年代にはドイツでヒトラーのナチスが台頭、ナチス=ドイツはヴェルサイユ体制打破を叫び、国際連盟を脱退して、1935年3月には再軍備を宣言して新たな脅威となった。また社会主義国ソ連も資本主義陣営にとってより大きな脅威を与える存在と考えられるようになった。

宥和政策とその破綻

 イギリスはドイツよりもソ連を脅威と考え、ドイツに対しては1935年6月英独海軍協定を締結するなど宥和政策を採るようになった。
 しかしナチス=ドイツは1936年にロカルノ条約を無視してラインラント進駐を強行した。それに対してもイギリス・フランスは黙認した。
 1936年、スペインで人民戦線内閣が成立すると、フランコ将軍などの軍が反乱を開始、スペイン戦争が始まると、ヒトラーのドイツとムッソリーニのイタリアのファシズム陣営はただちにフランコ軍に対する軍事支援を開始した。それに対して人民戦線政府はイギリスとフランスに支援を要請したが、イギリスのボールドウィン首相はフランスのブルム首相にも働きかけて、不干渉政策をとった。これは、人民戦線政府は共産党に支援されており、ソ連も支援を表明しているので、それに力を貸すことはヨーロッパでの共産勢力の拡大につながるという判断からであった。スペイン人民戦線内閣は1938年までにほぼ制圧され、スペインはファイズムに近いフランコ政権が成立した。
 1938年になると、ヒトラーはオーストリア併合を実行し、さらにチェコスロヴァキアに対しズデーテン地方の割譲を要求してきた。それは、ドイツ人の民族統一や、民族自決という一見すると正当な要求を装っていたため、首相のネヴィル=チェンバレンは、その要求を認めることで宥和を図り、ヒトラーのそれ以上の領土要求を抑え、ヨーロッパの平和を実現出来ると判断した。ズデーテン割譲問題に関して1938年9月に開催されたミュンヘン会議で、チェンバレンはドイツのズデーテン割譲を容認した。しかし、国際連盟に諮られることもなく、当事者であるチェコスロヴァキアが参加出来なかったこの会議の決定は、かえってヒトラーの侵略路線を勇気づけるという大きな代償を払うことになった。

Episode 「王冠を賭けた恋」と「英国王のスピーチ」

 イギリス王室はハノーヴァー朝の名称を、1917年にウィンザー朝に変更していた。第一次世界大戦後の大英帝国の沈下とともに王室の役割は低下していたが、再び世界大戦の暗雲が立ちこめる中、大きなスキャンダルに巻き込まれることになった。
 1936年、世界がナチスドイツの台頭で戦々恐々としていたとき、イギリス国内の話題は「王冠を賭けた恋」の話しで持ちきりだった。その年1月20日に国王ジョージ5世が亡くなり、新たに国王となったエドワード8世は、すでに41歳になっていたが独身だった。しかし、2歳下のウォリス=シンプソン夫人とは不倫関係にあったエドワード8世は、彼女を王妃に迎えたかったが、彼女はアメリカ人で離婚歴があり、イギリス王室とイングランド国教会、さらにボールドウィン首相等もその結婚に反対した。「王冠とシンプソン夫人のいずれをとるか」と首相に迫られたエドワード8世は、夫人との結婚を選び、12月に退位を決意した。クリスマスのラジオ演説で退位を表明して王位を去り、翌年6月に結婚式を挙げ、ウィンザー公としてパリ郊外で暮らした。<君塚直隆『物語イギリス史(下)』2015 中公新書 p.159>
 思わぬことから王位は弟のヨーク公に譲られ、ジョージ6世となったが、彼には、吃音というひけめがあった。しかし、「立憲君主の役割を心得て、公務に献身的、家族想い」であった。王妃の序言もあって言語療法士ローグによる訓練を受け、吃音を克服し、1939年9月の世界大戦宣戦布告の日に感動的なラジオ演説を行って、国民に団結をアピールした。このあたりは映画『英国王のスピーチ』で描かれている。映画では触れられていないが、ローグはフリーメーソンで、ジョージ6世もメースンであったので信頼関係が役立った。一方ウィンザー公は退位の翌年さっそくヒトラーと会見し、以後イギリスに戻ることはなかった。<近藤和彦『イギリス史10講』2013 岩波新書 p.274>

(11)イギリス 第二次世界大戦

1939年9月、ドイツのポーランド侵攻に対して宣戦布告、第二次世界大戦が始まる。40年4月、チェンバレンからチャーチルに政権が交代、対ドイツ強硬姿勢に転じ、その上陸を阻止した。41年6月、独ソ戦開始を機にソ連と提携、8月にはアメリカのローズヴェルト大統領と大西洋会談を行い、対枢軸国の連合国体制と戦後構想策定に入る。アジアでは41年12月、日本軍がマレーに侵攻し、アメリカとともに日本と太平洋戦争を戦う。アメリカ軍、ソ連軍の活動によって45年5月にドイツ、8月に日本が降伏し、勝利国となる。

第二次世界大戦に突入

 ヒトラー=ドイツは1939年、ポーランドに対してダンツィヒの割譲とポーランド回廊の自由通過を要求した。ここに至ってようやくイギリスはドイツと対決することを決意し、ポーランド支援を明言した。ヒトラーは、イギリスの態度に不信をもったソ連のスターリンと間で独ソ不可侵条約を締結した上で、1939年9月、ポーランドに侵攻第二次世界大戦が開始された。イギリスはフランスとともに直ちにドイツに宣戦布告したが、ポーランドを救援する軍隊を送ることはなく、静観の態度を取った。しかし、ヒトラーはポーランドをソ連との間で分割し終えると、その矛先を西側に向け、1940年4月、デンマーク・ノルウェー侵攻を開始した。これは直接イギリスに脅威をもたらすことになるのでイギリス海軍はドイツ軍のノルウェー上陸を阻止しようとしたがそれに失敗した。その責任をとってネヴィル=チェンバレンは辞任した。

チャーチルの戦争指導

 1940年5月10日チャーチルが首相となり、挙国連立の戦時内閣(第1次)を組織し、ドイツの侵攻に備えることとなったが、ちょうどその日にドイツ軍のオランダ・ベルギー侵攻が開始され、英仏連合軍はたちまち追い詰められてしまった。同年6月、チャーチルはイギリス軍をダンケルクから撤退を命じ、それに成功すると、本土防衛体制を強化した。ドイツはさらにフランスに侵入、5月中にフランス軍を制圧してその北半分を占領し、ドーヴァー海峡を越えてイギリス上陸を目指し、その前提として激しい空爆を加えた。しかし、ロンドンなどは空爆に耐え、イギリス空軍も善戦して制空権を守ったため、ドイツ軍のイギリス本土上陸は出来なかった。この、「バトルオブブリテン」を指揮し、ドイツ軍の上陸を阻止したことで、チャーチルの戦争指導は国民の支持を得、そのままドイツ敗戦の45年まで続く。

ヨーロッパの戦争

 1941年6月、独ソ戦が開始され、対ドイツの点でソ連と利害の一致を見ることとなると、イギリスは一転して英ソ軍事同盟を締結した。さらに、アメリカ合衆国は武器貸与法を制定してイギリスなど反枢軸国への武器支援を決め、実質的な参戦を果たし、同1941年8月9日にチャーチルはフランクリン=ローズヴェルトと太平洋会談を行い、枢軸国との戦いという戦争目的と戦後の国際協調の枠組みで合意して大西洋憲章を発表した。

日本との戦争

 アジアでは日中戦争の長期化に苦しむ日本が援蔣ルートの遮断と石油資源などを求めて東南アジアへの侵出を強めていた。40年9月、日本軍はフランス領インドシナ北部に進駐し、さらに日独伊三国同盟を締結した。日本軍の目標がマレー半島、シンガポール、ビルマのイギリス植民地に向けられていることは明白であったので両国関係は急速に悪化した。1941年12月、日本軍が真珠湾攻撃とともにマレー半島に侵攻したことを受け、日本に宣戦布告し、太平洋戦争が開始された。しかし、緒戦においてマレー沖海戦でイギリスの誇る戦艦プリンスオブウェールズなどが撃沈されたことは海軍国イギリスにとって大きな衝撃となった。続いて、香港シンガポールというイギリスのアジア支配の拠点がそれぞれ日本軍に占領され、植民地帝国イギリスの根幹が揺らぐ事態と受け止められた。

インド独立の動き

 さらにアジアの諸民族の解放を掲げた日本軍は最大のイギリス植民地インドを目指し、ビルマ侵攻を開始、それはインド独立運動にも大きな影響を与えた。連合国の要請を受けてチャーチル内閣はインドを対日戦争に同調させるため、戦後の独立を約束したが、即時独立を要求するガンディーは1942年8月、国民会議派を率いてインドを立ち去れ運動を開始し、民衆の反英闘争も激化した。その一方、チャンドラ=ボースのように日本に協力してイギリスからの独立を実現しようとする精力も現れた。

米英ソ三国の連合国体制

 日本との戦いは一面ではアメリカの参戦が実現したことで、ヨーロッパ戦線にとっても決定的な意味を持っていた。チャーチルはアメリカ大統領フランクリン=ローズヴェルトと頻繁に会談を重ね、ヒトラードイツとアジアにおける日本という共通の敵に対する共闘態勢を作り上げ、またソ連に対しては根本的な共産主義への憎悪とスターリンの独裁政治への不信をもちながら、枢軸国に対する戦いという一点で妥協し、協力を表明した。こうしてこのアメリカ・イギリス・ソ連三国を軸とした連合国が形成される。この態勢は、第二次世界大戦後の枠組みをも規定することとなる。
 しかし、大戦中に進んだ連合国の戦後処理構想の構築で、リーダーシップをとったのは明らかにアメリカ合衆国であった。それは戦局の推移のなかでもアメリカの果たした役割が圧倒的であったからであり、それに対抗出来るのはもはやイギリスではなく、ソ連だけであるという状況も明確になってきた。

戦後構想の構築

 1943年にはドイツ・日本の敗北が濃厚となるなかで連合国首脳の戦後構想についての協議が進展した。11月にはカイロ会談で英米首脳に中国の蒋介石が加わり、日本に対する無条件降伏を求めることで一致した。続いて12月にテヘラン会談で始めてソ連のスターリンを加えて米英ソ三国の首脳会談を開いた。ここではソ連を警戒するチャーチルは、スターリンの要求する第二戦線の問題(独ソ戦でのソ連軍の負担を減らすため米英軍が西側からドイツを攻撃すること)やポーランド問題(ポーランド独立後の国境線をどこに引くか)で対立した、ソ連との共闘を重視するローズヴェルトが早期に米軍も加えてドイツ支配下のフランスに上陸することを約束して収まった。チャーチルはなおも戦後のソ連の領土的野心を警戒し、44年10月にはみずからモスクワに飛びスターリンとの間でパーセンテージ協定を結び、バルカン諸国の分割協定を成立させた。
 1945年2月には、ヤルタ会談で再び米ソとの三首脳会談を行い、国際連合の設立、対独戦後処理、ポーランド問題について協議し、秘密協定としてソ連の日本参戦が決定された。それにもとづいて、45年4月~6月の連合国50ヵ国が参加したサンフランシスコ会議で国際連合憲章が採択され、イギリスは安全保障理事会常任理事国としてその中核となった。この間5月8日にドイツは無条件降伏し、ヨーロッパでの戦争は終わり、日本に対しては、7月~8月のポツダム会談で無条件降服勧告であるポツダム宣言を発表した。この会議中にイギリスで総選挙が行われ、チャーチルの保守党は敗れ、労働党のアトリーが首相となり、イギリス代表も交代した。8月には対ドイツ戦後処置に関するポツダム協定が成立し、イギリスもドイツ分割管理にくわわることになった。8月14日には日本が無条件降伏し、アジアでの戦争も終わったが、イギリスはインドその他の植民地の独立要求という大きな課題に直面することとなる。

(12)第二次世界大戦後のイギリス

第二次世界大戦末期にイギリス最初の労働党単独内閣アトリー内閣が成立し、福祉重視の改革を実行。しかし、植民地の独立などの問題に直面し、保守党チャーチル内閣が復活。東西冷戦時代に突入していく。

労働党政権の成立

 ヨーロッパの戦争の終わった直後の7月にイギリスで総選挙が行われ、アトリーの率いる労働党が、チャーチル首相の率いる保守党を破ったため、内閣はアトリー労働党内閣に交代した。これは国民が戦争に疲弊し、変化を求めており、大戦を勝利に導いたチャーチルより重要産業国有化や「ゆりかごからから墓場まで」という社会保障制度の充実を訴え新しい課題に取り組むことを鮮明に打ち出した労働党を支持したためであった。ポツダム会談にも途中からアトリーが参加し、イギリスの戦後はまず労働党政権の社会実験から始まることになった。

戦後イギリスの課題

 第二次世界大戦後のイギリスは戦争での多大な犠牲からの回復と、イギリス海外植民地支配の再編という課題を持つこととなった。また国際政治ではアメリカの発言力が圧倒的に大きくなったとはいえ、イギリスも依然としてヨーロッパの有力国であり、西側の要として対ソ強硬路線をとった。一方でフランス・西ドイツなどのヨーロッパ統合に対しては、イギリス帝国の残像が強く、冷淡な態度を変えなかった。

労働党政権から保守党政権へ

 アトリー内閣は福祉国家の建設という戦後ビジョンを掲げて実践し、植民地問題でも1947年8月15日のインドの分離独立パレスチナからの撤退と1948年5月パレスチナ戦争勃発、さらに1949年4月アイルランド共和国のイギリス連邦からの離脱など、大きな試練を迎え、転換を図った。しかし戦後の冷戦構造が深刻化し1949年4月北大西洋条約機構(NATO)の創設など軍事費の増大が加速すると、否応なく対外債務と相まって国民生活を圧迫した。東アジアでは1949年4月中華人民共和国が成立すると、イギリスは翌1950年1月6日、いち早く承認し、それによって植民地香港の返還を回避した。それに対して台湾の中華民国政府はイギリスと断交した。そのような局面での1951年10月総選挙では労働党は敗北し、50年代のイギリスは保守党長期政権の時代となる。

(13)1950~70年代のイギリス

60年代前半までは保守党内閣が続き、64年から労働党政権に交代した。社会保障政策を引き継ぐ一方、軍備増強の続けたため、財政が苦境に陥り、経済も停滞してイギリス病と言われるようになった。

 1951年の総選挙で、保守党が政権に返り咲き、1951年10月26日チャーチル第2次内閣が成立し、それ以後の1950年代のイギリスは保守党の長期政権が続いた。50年代の保守党政権は、経済政策は労働党政権から継承し、いわゆる「大きな政府」の路線をつづけた。外交面では冷戦の深刻化とともにイギリス連邦維持のために軍事費支出が増大し、対外債務がふくらんだ。1952年10月3日には核実験を行い、米ソに続く、3番目の核保有国となった。
 またこの時期にヨーロッパで強まったヨーロッパ統合の動きに対しては、イギリス連邦との経済的結びつきとアメリカとの提携を重視して批判的であり、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)およびヨーロッパ経済共同体(ECC)には不参加であった。

50~60年代初頭のイギリス保守党内閣

 チャーチル第2次(1951~55)→イーデン(55~57)→マクミラン(57~63)→ヒューム(63~64)
・労働党内閣の福祉政策、国有化政策などは基本的に継続した。
・ケインズ主義的財政・金融の運営で戦後経済の復興をほぼ達成した。反面、対外債務が増大し、ポンド危機が60年代に起こることになる。
・海外植民地に対してはイギリス連邦の強化を図り、帝国再編をもくろんだ。
・その反面として、ヨーロッパ統合の動きに対しては反対し、1960年には対抗してヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)を発足させた。
・この間の最大の失敗は、1956年10月29日スエズ戦争で、フランス・イスラエルと結んでエジプトと戦って敗れ、イギリスの権威を失墜したことであった。

60年代後半~70年代

 労働党と保守党が交互に組閣。ウィルソン第1次(労 64-70)→ヒース(保 70-74)→ウィルソン第2次(労 74-76)→キャラハン(保 79-79)
・イギリス経済の停滞が続き、67年にウィルソン内閣がポンド切り下げに踏み切る。
・いわゆるイギリス病の進行。
1968年、ウィルソン内閣がスエズ以東からの撤兵を表明。
・1971年のドル=ショック、73年のオイル=ショックの影響を受け、1973年1月1日EC加盟に踏み切る。(拡大EC
・1970年代、北アイルランド紛争が深刻化。北アイルランドでは多数派であるプロテスタント住民と少数派であるカトリック教徒の宗教的対立が尾を引き、プロテスタント側によるカトリックに対する差別がひどくなると、アイルランド共和国軍(IRA)は公民権運動の影響を受けて活動を活発化し、武装闘争を展開した。
→ 1980年代 サッチャー政権
  現代のイギリス  ブレア  ブレグジット(EU離脱)