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英仏植民地戦争/第2次百年戦争

17世紀末~19世紀初頭のイギリスとフランスのヨーロッパ本土及び、アメリカ植民地・インド植民地をめぐる抗争。

 17世紀に主権国家を形成させたイギリスとフランスは、イギリスは立憲王政、フランスは絶対王政の違いはあったが、いずれも重商主義経済政策をとって植民地獲得に乗り出した。17世紀中頃から両国の東インド会社は直接的に抗争を開始し、18世紀になるとアメリカ新大陸とインドにおいてたびたび戦闘を展開、さらにそれはヨーロッパでのスペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争などの戦争と連動していた。 インドにおいては、ムガル帝国の分裂と弱体化にともない地方政権の対立抗争に巻きこまれながら、1744年からのカーナティック戦争、1757年のプラッシーの戦いなどが戦われた。インドでの戦闘は最終的にはイギリスが勝利を占め、新大陸でもアン女王戦争、ジョージ王戦争、フレンチ=インディアン戦争の結果、やはりイギリスの優位のうちに終わった。
 イギリスはフランスとの植民地抗争にうち勝ち、海外に広大な植民地を形成し、大西洋を舞台にしたヨーロッパ、新大陸、アフリカを結ぶ三角貿易を展開し、大英帝国の繁栄を謳歌することとなって、18世紀60年代からの産業革命を実現させた。しかし、アメリカ植民地に対する収奪の強化は、植民地人の反発を招き、1775年にアメリカ独立戦争が起こった。フランスは、アメリカ独立戦争が始まると、当初は情勢を見ていたが、アメリカ有利と判断した1778年に参戦し、海上でイギリスと戦い、戦後は西インド諸島トバゴ・セネガルを獲得した。しかし、長期にわたる英仏の抗争は、宮廷財政を困窮させ、それを機に貴族に課税をしようとしたブルボン王朝ルイ16世の統治に対して、貴族のみならず中産階級、農民が立ち上がってフランス革命の勃発となる。このように、英仏両国の植民地抗争は、両国に大きな影を落としている。 → 大西洋革命

第2次百年戦争

 第2次百年戦争とは、1689年のウィリアム戦争から始まった、イギリスとフランスの植民地(主にアメリカ大陸とインド)における勢力拡大の争いと、ヨーロッパにおける利害の対立が結びついた戦争で、ナポレオン戦争でイギリスが勝利した1815年までをいう。
 その前半は、ヨーロッパの覇権を目指すフランスのルイ14世に対して、イギリスがオーストリア・プロイセンなどと同盟して戦い、同時にアメリカ新大陸・インド植民地で利害を衝突させて戦った。この植民地における戦いは、1759年にほぼイギリスの勝利に終わったが、両国ともその戦費捻出のための増税策に対する反発から、イギリスでは植民地アメリカの独立、フランスではフランス革命でのブルボン朝の倒壊という大きな犠牲を払った。
 後半は、1775年からのアメリカ独立戦争、1789年のフランス革命とそれに続くナポレオン戦争という大変動のなかでの両国の対立となった。
 この第2次百年戦争といわれる時期のヨーロッパと植民地での両国の戦争を列挙すると次のようになる。  なお、ナポレオン戦争後は、イギリスとフランスが戦うことはなくなり良好な関係が続いている。

イギリスの勝利の理由

 この一連の戦いはアメリカ独立戦争を除いて、イギリスの勝利であった。このイギリスの軍事的勝利をもたらした理由は、ウィリアム3世の1694年にイングランド銀行を設立し、国債を募集して戦費に充てるという、財政確保に成功したことがあげられる。国債に応募したのは地主や産業資本家で、またこの時は金融先進国であったオランダの資金も流れこんだ。この変革は「財政革命」とも言われ、国債という方法で資金を集め、財政を安定させることに成功し、その取り引きによって金融市場が活発となった。地主や産業資本家は自己の利益のためにイギリスの勝利と植民地拡大を期待し、国債を買うことでそれを支えた。このような資本と国家・戦争の結びつきは帝国主義を生み出すことになる。しかし、その国債の返済資金には税収が充てられたのであり、それを負担した中小農民であった。イギリスの場合は植民地への課税はその反発からアメリカ独立戦争をもたらしたが、国内では貴族の反乱や民衆蜂起は起きなかった。
 一方、フランスも「財政改革」をめざしたが、それは宮廷費の節約や貴族への年金の停止と特権身分に対する課税による財源の確保であり、効率のよいものではなく、特権身分の反発から三部会が紛糾してフランス革命への引き金となってしまった。
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ノートの参照
9章2節 ア.アジア市場の攻防