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年季奉公人/白人年季奉公人制度

イギリスでアメリカ大陸植民地経営のために、契約によって一定期間の労働を義務づけられて渡航した人々。初期のアメリカへの移民の形態であり、18世紀以降は黒人奴隷制度に切り替えられていった。

 年季奉公人( indentured servant インデンチュアード=サーヴァント、フランス語ではアンガジェ)は、広い意味では中世末期の封建制度のなかで、領主と契約を交わして家臣となった人々を指すこともあるが、一般的には17世紀以来に顕著になった、イギリスから労働力としてアメリカ新大陸に渡った白人をいう。またこの制度を白人年季奉公人制度ともいう。
 彼らは買い主に渡航費用を出して貰う代わりに、一定期間の年季奉公の義務を負い、自由を奪われる。年季はさまざまで、自ら申し出たもの以外にも誘拐されて年季奉公人とされた場合や、罪人が罪を逃れるためになるばあいもあった。年季の明けるまでは自由はなく、奴隷と同様に綿花やタバコのプランテーションで労働させられ、労働力として売買されることもあった。
 黒人奴隷と違う点は、年季が明ければ解放され、自由となることができる点であったが、18世紀に北米大陸や西インド諸島で黒人奴隷が大量に用いられるようになると、次第に少なくなっていった。しかし、それまではイギリスの13植民地の植民地経営を支えた労働力となっていた。
 本国イギリスの白人社会で存在した「ライフサイクル・サーヴァント」の慣行があった。それは貧困層の子女がサーヴァントとして「売られ」、買い主のもとで一定期間家事労働に従事した後、独立を認められるというもので、それが新大陸に持ち込まれプランテーションにおける労働力として常態化し、過酷になったものといえる。それが典型的に見られたのがヴァージニアのタバコ・プランテーションであった。

白人年季奉公人の実態

 年季奉公人は渡航費用と生活費を買い主が負担するかわりに、一般的には4年年季で奉公する。流刑者である場合は年季が7~14年だった。かれらは逃亡の畏れがあるので監視され、暴力的に服従させられた。年季期間中は買い主は奉公人を自由に売買できたので、年季奉公人はしばしば「白人奴隷制」と呼ばれた。しかし、逃亡しても外見から見つけ出すことは困難で、なによりも年季が明ければ自由になれた点で黒人奴隷と決定的に異なっていた。プランテーションでは年季明けの白人が黒人奴隷を監督する監督官にしばしばなっていた。そのため、17世紀中頃から、白人年季奉公人に代わる労働力として黒人奴隷労働が導入されることとなった。<池本幸三/布留川正博/下山晃『近代世界と奴隷制―大西洋システムの中で』1995 人文書院 p.73-78>

参考 西インド諸島における白人年季奉公人

 白人年季奉公人制度については、西インド諸島トリニダード=トバゴ出身の歴史家エリック=ウィリアムズが『コロンブスからカストロまで』の中の第8章「白い貧民」<p.136~162>で詳しく述べている。彼は西インド諸島においてエンコミエンダ制の犠牲になってほぼ絶滅したインディオにかわる労働力として、まず期待されたのはヨーロッパからの年季契約奉公人であった。年季奉公人は犯罪者以外にも徴集されたが、現地での待遇があまりに悪く、誘拐したり、言葉巧みに偽りの口実で誘い出すなどの手段が問題にり、また奉公人が西インド諸島に到達しても逃亡してしまうことなど弊害が多かった。それでも砂糖プラテーションが本格化して黒人奴隷が増えると、その取り締まりのために一定の白人移住者が義務づけられた。それは17世紀には減少していったが、黒人奴隷制度への道を開いたとして次のように指摘している。
(引用)こうして、17世紀末にはどんな名称であれ、白人労働制度はすべて明らかに瀕死の床にあった。しかし、この制度がカリブ海域史に大きな足跡を残した事も事実である。それは、カリブ海地方における労働の質をさらに一段と下げた。白人強制労働が展開されるにつれて次第に倫理観が薄れ、黒人強制労働の導入に道を開いたのである。隷属的な白人の移送がニグロ奴隷貿易の先例となったとすれば、白人の誘拐を流行させ、容認した習慣はニグロの誘拐、連行に先鞭を付けた。ブリストル、オンフレールなどの海港都市は、白人隷属民の貿易からニグロ奴隷の貿易に苦もなく転向した。<エリック=ウィリアムズ/川北稔訳『コロンブスからカストロまで』1970 岩波現代新書 2014 p.150 「白い貧民」>

Episode イギリスで横行した人さらい

 年季奉公人は当初においては劣悪なものではなかった。奉公人の多くは厄介な封建的束縛から脱した借地農などが自由を求めて、イギリス以外にもアイルランドや三十年戦争の災厄から逃れたドイツ人などもいた。しかし17世紀の後半になるとその需要が増えるとともに問題が出始めた。
(引用)商業的投機の対象になるにつれて、弊害が目立ちはじめた。誘拐が横行し、ロンドン、ブリストル等の都市では商売として立派に成り立つようになった。大人は酒でだまされ、子供は甘い菓子で釣られた。誘拐業者は、「男・女・子供をさらい、海路はるばる異国に売りとばすもの」として「鬼(スピリット)」と呼ばれた。ジャマイカ航路貿易船の船長は、しばしばクラーケンウェル懲治監を訪れ、不行跡のかどをもって収容されている少女たちを酔い潰しては西インド諸島へ「招待」した。信じやすく欺されやすいものを狙ったこのような誘惑の効果は絶大だった。……ドイツでは、移民の波が高まるにつれて、「新開地屋」が活躍した。これは当時の桂庵(引用者注、口入れ屋のこと)であって、ラインの谷を上り下りしながら、封建制度に縛られた農民を口説き、持ち物を売り払ってアメリカに移住するよう勧めては頭割りで手数料をまきあげていた。<エリック・ウィリアムズ/中山毅訳『資本主義と奴隷制』1944初刊 訳本1968初刊 ちくま学芸文庫版2020刊 p.25>
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