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ヴァージニア

イギリスのエリザベス1世の時、ローリーが入植に失敗。1607年、新たに植民地として建設された。13植民地で最も古く、1619年には最初の植民地議会が発足した。黒人奴隷制によるタバコ・プランテーションが発展し、その農場主出身のワシントンやジェファソンなどがアメリカ独立運動の原動力となった。独立後は黒人奴隷制維持の立場に立ち、黒人奴隷制に対する北部との対立が明確となり、南北戦争では南部の中心となったため、戦場となった。

ヴァージニア州 GoogleMap

ヴァージニアは現在のアメリカ合衆国の首都ワシントンの南に隣接する州。16世紀後半のイギリスエリザベス1世の時、ローリーが入植を試みたが失敗し、その後の1607年に特許会社による入植地が建設され、処女王エリザベスに因んでヴァージニアと名付けられた。入植地の中心の町はジェームズ2世に因んでジェームズタウンと言われた。
 現在のヴァージニア州は、アパラチア山脈の東側に延び、東に大西洋に面する。軍港ノーフォークはアメリカ海軍大西洋司令部が置かれている。州都リッチモンドは一時アメリカ連合国(南部連合)の首都となったところ。現在のアパラチア山脈から西のウェストヴァージニア州はもともとヴァージニア州と一つだったが、州の東部がイングランド系、西部がアイルランド系が多く、西部は人口が少なかったため常に東部の下風に置かれたことを不満としていたところに、黒人奴隷制問題が表面化し、1861年にヴァージア州がそれまで加盟していた北部連邦から脱退して南部同盟に加わったことで対立が決定的になり、1863年に黒人奴隷制反対の立場でヴァージニア州から分離し、35番目の州となった。

ヴァージニア植民地の特色

 ヴァージニアへの本格的な移住が行われたのは1642年から1675年の間のピューリタン革命で権力を握ったクロムウェルの独裁が行われた時期であり、移住者の多くは政治的に敗れた王党派だった。1642年に国王からヴァージニア総督に任命されていたバークリー卿は、1650年に本国でピューリタン寡頭政治の下、強制的にその信仰が押しつけられたことでヨーロッパに逃れていた王党派を新天地ヴァージニアに招き入れた。彼ら“ヴァージニア王党員”は「カバリエ(騎士)」と呼ばれ、高い地位と広大な土地を支配し、数世代にわたって植民地経営の実権を握った。かれらの大農場経営は当初はイギリスからやって来た次男、三男などの男性を年季奉公人として労働力としていた。プランター(農園主)と事実上白人奴隷制に近い年季奉公人制度という身分社会が南部には確固として成立し、やがて年季奉公人制度に代わって告示奴隷制が採用されていく。ヴァージニアはアメリカ13植民地の中で最も古い植民地として成立し、独立運動でも中心的な存在となるが、ピューリタンが入植したニューイングランドやクェーカーなどが入植したペンシルヴェニアなどの北部植民地とは最初からその成立事情、入植者集団の構成などに大きな違いあることに注意する必要がある。<ジェームス・バーダマン『ふたつのアメリカ史』2003 東京書籍 p.37-52>

植民地議会と黒人奴隷の始まり

 1619年には13植民地で最初の植民地議会を発足させ、自治を開始した。同じ年にジェームズタウンにはオランダの商船によって20人のアフリカの黒人がアメリカ大陸に初めて運ばれてきた。彼らは当初は奴隷としてではなく白人年季奉公人と同じ扱いだったが、ヴァージニアの大農園経営(プランテーション)の中で黒人奴隷制度が開始されることになった。特にヴァージニアはタバコを商品作物とするプランテーションがひろがり、その農園主たちはアメリカ独立戦争で主要な働きを果たした。ワシントンジェファソンなど多くの独立運動の指導者がヴァージニア出身である。

Episode 神話化されなかったヴァージニア

 なお、ヴァージニア植民地よりも遅れて1620年9月にメイフラワー号に乗ったピューリタンたち(ピルグリム・ファーザーズ)がヴァージニアのかなり北方に上陸してプリマス植民地を築いた。彼らはイギリス国王の迫害から逃れて新大陸にわたってきたので、後にアメリカ独立戦争が始まると、アメリカ建国の原点として「神話化」される。ヴァージニアのジェームズタウンの方が早かったにもかかわらず建国の原点とされていないことは、こちらが黒人が最初に運ばれた土地であり、黒人奴隷制の原点であることと関係があるとの見方もある。<貴堂嘉之『移民国家アメリカの歴史』2018 岩波新書 p.27-29>

ローリーの入植失敗

 イギリス商業資本家の中に、新大陸に「ニューイングランド」を建設しようという関心が高まる。エリザベス女王はその寵臣サー=ウォルター=ローリーに対し、貴金属の発掘から得る利益の5分の1を国王に支払うという条件で、彼が植民し得る地域の全域に対する特許状(パテント)を与えた。ローリーは1584年、探検隊をノース・カロライナ海岸沖のロアノウク島に送り、翌年108名の開拓者を送ったが、彼らは植民に失敗。1587年、再度植民を試みたが失敗、全員行方不明となった。<ビーアド『新版アメリカ合衆国史』P.7-8>

ヴァージニア植民地の成立

 その後、特許会社のロンドン会社(後のヴァージニア会社)によって再度入植が試みられ、エリザベス1世の死後の1607年のジェームズタウン(国王ジェームズ1世の名による)の建設に成功し、イギリス最初の北アメリカ植民地となり、そのもとを作った先代の処女王エリザベスにちなみヴァージニアと名付けられた。入植者ははじめはスペイン人と同じく、黄金とアジアへの水路の発見をめざしたが、それらを果たすことは出来ず、インディアンから学んだタバコの栽培に成功して本国に向けての輸出品として大きな収入が得られるようになると、入植定住してプランテーションを経営する形態が確立した。当時この地域はインディアン(入植者側の呼称であるが)が大きな集落を造り、首長のポーハタンに率いられていた。ヴァージニアの入植者は当初は友好的であったが、食糧危機に直面した1610年からインディアンの村を襲撃するようになり、インディアン側も反撃したが次第に排除されていった。

Episode ポカホンタスの物語

 イギリス人の最初の入植地ヴァージニアのジェームズタウンは、インディアンのポーハタン族の支配する地域であった。105人の最初の入植者は次第に食料に困るようになり、インディアンの部落を荒らし、食料を奪ったので、ポーハタン族との関係は悪化した。入植者の指導者の一人ジョン=スミスもインディアンと戦い、捕らえられ殺されそうになったところを、酋長の娘ポカホンタスの助命で助けられた。現在でもジェームズタウンの町には恩人ポカホンタスの銅像が建っている。ポカホンタスはその後、白人青年ジョン=ロルフと結婚した。ロルフはポカホンタスに助けられ、ジェームズタウンで初めてタバコの栽培と乾燥に成功する。レベッカというクリスチャンネームを授けられたポカホンタスは、1616年に夫とともにロンドンに赴き、大歓迎を受けた。しかし不幸にも天然痘のためイギリスで死んだ。<中屋健一編『世界の歴史』11新大陸と太平洋 中央公論社 1961 p.7>

ヴァージニア議会

 ヴァージニア植民地は1607年に特許状を得たロンドン会社(後のヴァージニア会社)による会社植民地として成立し、当初は1名の総督の下に6名からなる参議会が置かれ、彼らは会社から任命されていた。1619年7月、はじめて議会が開催されることとなり、20名からなる議員が、10の地区から2名ずつ選出された。参議会が本国での上院に相当し、議会が下院の役割を果たした。議会はヴァージニアのみについての法律を制定する権限を持つが、本国の承認が必要であった。これが大陸における最初の植民地議会であり、制限されたものではあったが、植民地の入植者による自治がここから始まることとなり、アメリカ『民主主義』の第一歩とされている。一方、ヴァージニアで最初の黒人奴隷の売買が行われたのも同じ年であった。1624年以降は王領植民地となり、総督と参議会議員は国王が任命することとなったが、議会による代議制は存続し、そこで培われた自治の精神はやがてアメリカ独立戦争の中核となっていく。砂糖税、印紙税など一方的な課税強化を図るイギリス本国に対して、ヴァージニア植民地議会で1765年パトリック=ヘンリーが「代表なくして課税なし」と発言し、課税拒否を決議し、独立の気運が高まった。彼が1775年に「自由か死か」の演説をしたのもヴァージニア議会であった。

ベーコンの反乱

 アメリカ独立のちょうど百年前の1676年、ヴァージニア植民地で、アメリカにおける入植者の最初の反乱といわれるベーコンの反乱が起こった。反乱の首謀者ベーコンはプランターであったが、ヴァージア総督によってインディアン討伐が禁止されたことを不満に反乱を起こした。これは、植民地における本国イギリス及び植民地当局に対する最初の武装闘争であった。しかし、独立を目指した反乱とは言えず、インディアンを敵視し、その討伐が受け入れられなかったことに対する不満が反乱の理由であった。反乱は武装した白人の自由民によって白人年季奉公人に黒人奴隷が駆り出され、長びいたがベーコン自身が死んだこともあって間もなく鎮圧された。
 ヴァージニアのタバコプランターは、タバコの価格が本国政府によって決められ、利益を吸い上げられることに不満を持ち、辺境の開拓民はジェームズタウンの富裕な上流階級や大プランターによって搾取され、プランターでは白人年季奉公人と黒人奴隷が苦しい労働にあけくれている。そのような植民地の不満が混在し、その捌け口がインディアンに向けられた。ベーコンの反乱は、インディアンに対する敵愾心と総督及び本国イギリスに対する不満ともつ白人入植者の辺境民と、プランターに搾取されていた白人年季奉公人と黒人奴隷が一体となって起こした反乱であった。<ハワード=ジン『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史』上 2009 あすなろ書房 43-44>

ヴァージニア王朝

 アメリカ合衆国建国後の歴代大統領にはヴァージニア出身者が多かった。初代のワシントン、第3代のジェファソン、第4代のマディソン、第5代のモンローがそれである。そこから、1801年から1925年までの25年間を、ヴァージニア王朝と揶揄することがある。
 なお、ヴァージニア州立大学は、ジェファソンが発起人となって1825年に開設され、マディソンが第2代学長、モンローもその理事であった。

南北戦争

 1860年、奴隷制度拡大反対を掲げた共和党のリンカンが大統領に当選すると、ヴァージニアを含む南部諸州はアメリカ連合国を結成し、アメリカ合衆国から分離して独自の大統領としてジェファソン=デヴィスを選出した。南部の分離独立を認めないリンカンと北部諸州は南部との戦争に踏み切り、南北戦争が開始された。アメリカ連合国は首都を当初はアラバマ州アラバマ州モントゴメリーに置かれたが、まもなくヴァージニア州のリッチモンドを首都と定めた。南北戦争の激戦は、最終的に1865年の北軍によるリッチモンド総攻撃で南軍が降伏したことによって終わった。ヴァージニアの綿花やタバコのプランテーションは戦争で荒廃し、また黒人奴隷制が廃止されたため多くは没落した。南北戦争後はアメリカ経済の中心は北西部のニューヨークなどに移ったので、ヴァージニアの存在は相対的に低下した。 → 南部諸州の復帰/再建

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ジェームス・バーダマン
『ふたつのアメリカ史』
[南部人から見た真実のアメリカ]改訂版
2003 東京書籍


ハワード=ジン
『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史』上
2009 あすなろ書房