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ヴァージニア

イギリスのエリザベス1世の時、ローリーが入植に失敗。1607年、新たに植民地として建設された。13植民地で最も古く、1619年には最初の植民地議会が発足した。黒人奴隷制によるタバコ・プランテーションが発展し、その農場主出身のワシントンやジェファソンなどがアメリカ独立運動の原動力となった。独立後は、黒人奴隷制に対する北部との対立が明確となり、南北戦争では南部の中心となり、州都リッチモンドは一時アメリカ連合国の首都となった。

 ヴァージニアは現在のアメリカ合衆国のワシントンの南に隣接する州。16世紀後半のイギリスのエリザベス朝の時、ローリーが入植を試みたが失敗し、その後の1607年に特許会社による入植地ジェームズタウンが建設され、アメリカ13植民地の中で最も古い殖民地として成立した。1619年には13植民地で最初の植民地議会を発足させ、自治を開始した。同じ年に、アメリカ大陸最初の黒人奴隷がヴァージニアにもたらされ、黒人奴隷を労働力とする大農園経営(プランテーション)が開始され、特にタバコを主要産業として発展し、アメリカ独立戦争ではその主要な働きを果たした。ワシントンジェファソンなど多くの独立運動の指導者がヴァージニア出身である。
 南北戦争では州都リッチモンドがアラバマ州モントゴメリーに次いで南部のアメリカ連合国の首都となったため、合衆国軍の攻撃を受けた。南北戦争後はアメリカ経済の中心は北西部のニューヨークなどに移ったので、ヴァージニアの存在は相対的に低下した。

ローリーの入植失敗

 イギリス商業資本家の中に、新大陸に「ニューイングランド」を建設しようという関心がたかまる。エリザベス女王はその寵臣サー=ウォルター=ローリーに対し、貴金属の発掘から得る利益の5分の1を国王に支払うという条件で、かれが植民し得る地域の全域に対する特許状(パテント)を与えた。ローリーは1584年、探検隊をノース・カロライナ海岸沖のロアノウク島に送り、翌年108名の開拓者を送ったが、彼らは植民に失敗。1587年、再度植民を試みたが失敗、全員行方不明となった。<ビーアド『新版アメリカ合衆国史』P.7-8>

ヴァージニア植民地の成立

 その後、特許会社のロンドン会社(後のヴァージニア会社)によって再度入植が試みられ、エリザベス1世の死後の1607年のジェームズタウン(国王ジェームズ1世の名による)の建設に成功し、イギリス最初の北アメリカ植民地となり、そのもとを作った先代の処女王エリザベスにちなみヴァージニアと名付けられた。入植者ははじめはスペイン人と同じく、黄金とアジアへの水路の発見をめざしたが、それらを果たすことは出来ず、インディアンから学んだタバコの栽培に成功して本国に向けての輸出品として大きな収入が得られるようになると、入植定住してプランテーションを経営する形態が確立した。当時この地域はインディアン(入植者側の呼称であるが)た大きな集落を造り、首長のポーハタンに率いられていた。ヴァージニアの入植者は当初は友好的であったが、食糧危機に直面した1610年からインディアンの村を襲撃するようになり、インディアン側も反撃したが次第に排除されていった。

Episode ポカホンタスの物語

 イギリス人の最初の入植地ヴァージニアのジェームズタウンは、インディアンのポーハタン族の支配する地域であった。105人の最初の入植者は次第に食料に困るようになり、インディアンの部落を荒らし、食料を奪ったので、ポーハタン族との関係は悪化した。入植者の指導者の一人ジョン=スミスもインディアンと戦い、捕らえられ殺されそうになったところを、酋長の娘ポカホンタスの助命で助けられた。現在でもジェームズタウンの町には恩人ポカホンタスの銅像が建っている。ポカホンタスはその後、白人青年ジョン=ロルフと結婚した。ロルフはポカホンタスに助けられ、ジェームズタウンで初めてタバコの栽培と乾燥に成功する。レベッカというクリスチャンネームを授けられたポカホンタスは、1616年に夫とともにロンドンに赴き、大歓迎を受けた。しかし不幸にも天然痘のためイギリスで死んだ。<中屋健一編『世界の歴史』11新大陸と太平洋 中央公論社 1961 p.7>

ヴァージニア議会

 ヴァージニア植民地は1607年に特許状を得たロンドン会社(後のヴァージニア会社)による会社植民地として成立し、当初は1名の総督の下に6名からなる参議会が置かれ、彼らは会社から任命されていた。1619年7月、はじめて議会が開催されることとなり、20名からなる議員が、10の地区から2名ずつ選出された。参議会が本国での上院に相当し、議会が下院の役割を果たした。議会はヴァージニアのみについての法律を制定する権限を持つが、本国の承認が必要であった。これが大陸における最初の植民地議会であり、制限されたものではあったが、植民地の入植者による自治がここから始まることとなり、アメリカ『民主主義』の第一歩とされている。一方、ヴァージニアで最初の黒人奴隷の売買が行われたのも同じ年であった。1624年以降は王領植民地となり、総督と参議会議員は国王が任命することとなったが、議会による代議制は存続し、そこで培われた自治の精神はやがてアメリカ独立戦争の中核となっていく。1765年、パトリック=ヘンリーが「代表なくして課税なし」と発言し、独立の気運が高まった。彼が1775年に「自由か死か」の演説をしたのもヴァージニア議会であった。

ベーコンの反乱

 1676年、ヴァージニア植民地で、アメリカにおける入植者の最初の反乱が起こった。このアメリカ独立のちょうど百年前に起こった反乱は首謀者ナサニエル=ベーコンの名前を採ってベーコンの反乱と言われている。反乱の首謀者ベーコンはヴァージニア西部の開拓民でかなりの広い土地をもつプランターであった。彼は植民地議会の議員に選ばれると、総督の統制を無視して武装民兵を率いてインディアンとの戦いを開始しようとした。インディアンとの戦いに消極的な総督はベーコンを反逆者として逮捕したが、2000名の支持者がジェームズタウンに進軍してくると彼を釈放してしまったので、ベーコンは民兵を率いてインディアン討伐を開始した。ベーコンの要求は不公平な課税の廃止と同時に西部辺境民をインディアンから保護することがあった。ベーコンは29歳で病死し、反乱は失速したが、反乱軍の拠点では400人の武装した白人の自由民と年期奉公人、黒人奴隷からが尚も抵抗し、最後は鎮圧されて23人が絞首刑にされた。
 インディアンは白人の辺境民に土地を奪われ、辺境民はジェームズタウンの富裕な上流階級から課税され、支配されていた。また大プランターのもとで搾取されている白人年期奉公人と黒人奴隷とが共に反乱に加わった。そして、富める者も貧しい者も、植民地全体がイギリス政府に搾取されていたのだ。入植者はタバコを栽培して、イギリスに売っていたが、その価格はイギリスが決めていた。見年、植民地ヴァージニアから多大な利益を手にしていたのは、イギリス国王だったのだ。ベーコンの反乱は、インディアンに対する敵愾心と総督及び本国イギリスに対する不満ともつ白人入植者の辺境民と、プランターに搾取されていた白人年期奉公人と黒人奴隷が一体となって起こした反乱であった。<ハワード=ジン『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史』上 2009 あすなろ書房 43-44>

ヴァージニア王朝

 アメリカ合衆国建国後の歴代大統領にはヴァージニア出身者が多かった。初代のワシントン、第3代のジェファソン、第4代のマディソン、第5代のモンローがそれである。そこから、1809年から1925年までの約20年間を、ヴァージニア王朝と揶揄することがある。
 なお、ヴァージニア州立大学は、ジェファソンが発起人となって1825年に開設され、マディソンが第2代学長、モンローもその理事であった。
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ノートの参照
8章4節 エ.オランダの独立とイギリスの海外進出
10章2節 ア.北アメリカ植民地の形成
書籍案内

ハワード=ジン
『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史』上
2009 あすなろ書房