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西インド諸島

15世紀末、コロンブスは到達した島々をインドの一部と考え、インディアスと呼んだが、後にインドと区別するため西インド諸島と呼ぶようになった。

 15世紀のヨーロッパでは「インド」(スペイン語でインディアス)という概念は、現在のインドのことではなく、それより東のすべての地域を含んでいた。コロンブスはその広い意味のインドに西回りで到達したと信じ、その地を西インドと名づけた。現在では西インドはコロンブスが到達し、探検した島々を含む、カリブ海に浮かぶ島々の総称となっている。主な島は、西からキューバ島(西インド諸島の中で最大)、ジャマイカ島、エスパニョーラ島(現在のハイチとドミニカ)、プエルトリコ島が並び、その東に小アンティル諸島のマルティニク島やバルバドス島がある。またキューバ島の北には、コロンブスの到達したサン=サルバドル島(現ワトリング島)を含むバハマ諸島がある。

Episode コロンブス、ジパングに到達?

 コロンブスの航海記を読むと、彼は自分の到達した地がインド(現在のインドではなく、その東に広がる大陸全体で、シナなども含んでいた)の一部であると信じ、さらに探検したクーバ島(キューバ)がマルコ=ポーロの伝えるジパング(つまり日本)であると考えていたことが判る。コロンブスは国王への報告でこう言っている。
(引用)それから、私の連れているインディオ達がコルバ(クーバ島のこと)と呼んでいる最も大きな島へ向かおうと思いますが、この島は、彼らの手真似から察するに、チパングに違いないと考えます。彼らの話では、この島には船もあれば、非常に立派な船乗りも大勢居るということであります。・・・勿論、私はさらに進んで大陸へと赴き、キンサイ(マルコ=ポーロの伝える杭州のこと)の都へ行って、両陛下(スペイン王フェルナンドとイザベル)の御親書を大汗王に渡し、その返書を求め、これを持ち帰る決心をかためているのであります。<ラス=カサス編/林屋永吉訳『コロンブス航海誌』 岩波文庫 p.62>

コロンブス以後

 コロンブスの来航以来、この地にはスペイン人が次々と渡来した。彼らは黄金を求めてさらに新大陸に進出、インカやアステカの富を収奪した。西インド諸島は新大陸と本国スペインを結ぶ中継地となり、また黄金を狙う海賊船が横行する地帯となった。やがてインディオは過酷な労働やヨーロッパから持ち込まれた病気で急減していった。その惨状は、スペイン人宣教師ラス=カサスインディアスの破壊についての簡潔な報告に詳しく述べられている。スペイン人入植者にとって、かわりに労働力として使役されたのが、アフリカから運ばれてきた黒人奴隷であった。

海賊の横行と西インド諸島の分割

 1520年代からカリブ海域にはスペインの衰退に乗じて海賊が横行するようになった。海賊はスペイン商船を襲撃し、植民都市を略奪した。1530年代にはフランス、60年代にイギリス(ホーキンズやドレイクが私掠船の船長として活躍)、17世紀に入ってオランダのものが活発だった。他にもデンマークやスウェーデンの海賊もいた。  海賊はやがて国家的な承認を受けてそれぞれ拠点を支配するようになり、スペイン領として残ったキューバ島とイスパニョーラ島東部(現ドミニカ)を除き、イギリスはアンティグア、バルバードス、トリニダッド=トバゴ、ジャマイカなど、フランスはグァダループ、マルティニク、イスパニョーラ島西部(サンドマング。後のハイチ)その他を、オランダはキュラソー、セント=クロアなどをそれぞれ領有し、西インド諸島は分割されていった。イギリスはクロムウェルの「西方計画」によって1655年にジャマイカを征服し、西インド諸島支配の足場とした。またオランダは1621年に、フランスは1664年にそれぞれ西インド会社を設立して、西インド諸島を含むアメリカ新大陸への植民地支配に乗り出していった。

黒人奴隷によるプランテーション

 西インド諸島の島々では、タバコ、砂糖、コーヒーというヨーロッパ向けの商品作物を黒人奴隷を使役して生産するプランテーションが増加して行き、労働力としてのアフリカから多数の黒人奴隷が移入され、生産物は白人の商人に収奪されたため、植民地に富が蓄積されることはなかった。西インド諸島の人びとは三角貿易に組み込まれ、19世紀まで収奪が続き、貧困が定着する社会となった。その社会は、少数の入植者である白人と現地生まれの白人(クリオーリョ)、白人とインディオの混血(メスティーソ)、白人と黒人の混血(ムラート)、さらにインディオと黒人という複雑な人種構成を持つこととなるが、圧倒的多数は奴隷の子孫である黒人たちである。

西インド諸島の独立

 アメリカ合衆国の独立、フランス革命は、大陸のラテンアメリカ地域だけでなく、西インド諸島にも大きな影響を及ぼした。まずフランス革命中ハイチで黒人反乱が起きると、ジャマイカでも黒人暴動が起き、白人支配者の苛酷な弾圧が行われた。しかし、ハイチは1804年にこの地域で最も早く独立宣言を出し、最初の黒人共和国となった。イギリス国内で黒人奴隷貿易や奴隷制度に対する人道主義の立場からの批判が強まり、1807年には奴隷貿易が禁止され、さらに1833年には奴隷制度廃止が実現した。しかし、ハイチ以外の西インド地域はその後も長く植民地支配を受け、アメリカ南北戦争の時にも1865年に西インド全域で黒人の武装蜂起が起こったが、本国スペインの派遣した軍隊によって鎮圧された。スペイン領キューバ島では19世紀末にようやく独立の気運が高まったが、アメリカ合衆国の介入を受けることとなり、アメリカ=スペイン戦争後は、アメリカがカリブ海政策と称して支配を強めることとなる。ジャマイカ島は1953年にようやくイギリスが自治を認め、1958年には他の西インドのイギリス自治領とともに「西インド連邦」を結成して独立したが、諸島・諸地域間の歩調が合わずに62年に解散し、同年8月、ジャマイカとトリニダート・トバゴが分離独立した。
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ノートの参照
8章1節 イ.アメリカ大陸の征服
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ラス=カサス/林屋永吉訳
『コロンブス航海誌』
 岩波文庫