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ボストン茶会事件

1773年、北米植民地人が、茶法に反対してボンストン港で東インド会社の茶を棄てたことから起こった反英闘争。アメリカ独立戦争のきっかけとなった。

ボストン茶会事件
ボストン茶会事件
 1773年、イギリスが茶法(茶条令)を制定し、東インド会社の専売権を与えたことに反対するアメリカ植民地の急進派が起こした事件。ボストン港に入港していた同会社の船に侵入したモホーク族に変装した男達が、茶箱342箱(価格1万8千ポンド)を海中に投棄し、夜陰に乗じて逃げた。イギリス当局は犯人を捕らえようとしたが、植民地人は「ボストンで茶会(ティーパーティー)を開いただけだ」と冗談を言ってごまかし、真犯人は検挙できなかった。
 これに対する報復としてイギリス本国はボストン港を封鎖し、さらに強圧的諸条令を制定して植民地側を屈服させようとした。反発した植民地側はイギリス製品の不買運動などに立ち上がり、1774年9月にフィラデルフィア大陸会議を開催して13植民地の代表が集まり、本国との対立は決定的となって、1775年のアメリカ独立戦争となる。このようにボストン茶会事件は、アメリカ独立戦争勃発の引き金となった事件であった。

Episode アメリカ人がコーヒーを飲む理由

 ボストンで本国の植民地政策に対する反対の中心になっていたのはサミュエル=アダムス、及びサンズ-オブ-リヴァティーの面々であった。彼らは、の不輸入運動を展開、密輸業者も同調した。さらに、ボストンの婦人達は茶を飲まない誓いを立て、かわりにコーヒーを飲むようにした。「アメリカ人は茶条令を機会に、茶碗から、コーヒー茶碗へと転向した」。<今津晃『アメリカ独立革命』p.115>

ボストン港封鎖

 ボストン茶会事件の報復としてイギリスは、1774年3月、茶会事件の損害1万5千ポンドを弁償するまで、ボストン港を閉鎖するという法案を通過させ、6月1日に実施した。ボストン通信委員会のサミュエル=アダムスは5日「厳粛な連盟と規約」を作成、イギリスとの一切の取引の停止とイギリス製品のボイコットを決議。植民地と本国は「経済戦」に突入した。ボストンの経済は破綻状態になったが市の失業対策委員会は公共事業を拡大し対応した。また、他の植民地諸州もマサチューセッツ支援に立ち上がり、大陸連合会議開催の気運が高まった。イギリスはさらに「強圧的諸条令」を制定した。

強圧的諸条令

 1774年5月にイギリスが定めた条令で、「耐えがたき条令」 Coercive Acts とも言う。ボストン茶会事件にたいする報復としてボストン港封鎖の措置に続いて定められたつぎのような内容の条令である。
  1. マサチューセッツ統治条令:参議会議院を勅任とし、町会は総督の許可無く開催できない。(王政支配を強化し、タウン-ミー ティングの実権を奪おうとしたもの。)
  2. 裁判条令:総督は裁判を本国で行う事が出来る。
  3. 軍隊宿営条令:軍政を布くための施設の徴用を可能にする。
  4. ケベック条令:ミシシッピまでの地域をインディアン保留地とし、自由な開拓を認めず、その地域でのカトリック信仰を許可。
 これらのイギリス本国の制裁措置に対して植民地側は1774年9月、フィラデルフィアで大陸会議を招集し、イギリス本国との通商を拒絶することを決議し、両者の対立は緊張の度合いを増し、ついに1975年4月、武力衝突が起きてアメリカ独立戦争が始まる。
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ノートの参照
10章2節 ア.北アメリカ植民地の形成