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中国原産の薬用、嗜好品とされ、17世紀以降主にヨーロッパに拡がり、特にイギリスで多く飲用される。

 茶は、中国では早くから、薬用または嗜好品として用いられていた。唐代には陸羽の『茶経』に茶の製法や飲み方が書かれており、一般に普及したことが知られる。世界史における茶については多くの参考図書があるが、<布目潮渢『中国喫茶文化史』1989 再刊岩波同時代ライブラリー/角山栄『茶の世界史』1980 中公新書などによる茶の歴史。>が基本文献。他に今や古典であるが、岡倉天心の『茶の本』にも茶の歴史に関する記述がある。日露戦争後の1906年、日本の文化を西欧に紹介する目的で英文で書かれた。訳書も多数刊行されているが<桶谷秀昭氏訳の講談社学術文庫版 1994>が英語の原文も載せられていて便利。 → イギリスなどでの茶の流行   世界史の中の茶

宋代の茶の流行

 飲茶の習慣は宋代にとくに盛んになり、長江下流や四川地方の農村で茶が栽培され、都市には茶館が作られて広く飲まれるようになった。茶が流行すると喫茶用の器が必要となり、それが中国における陶磁器の生産増加をもたらした。有名な景徳鎮で陶磁器の生産が始まったのも宋代のことである。また周辺の遊牧民族にも飲茶の習慣が伝えられた。彼らは茶を栽培することが出来なかったので、中国の茶と遊牧民の馬を交易する茶馬貿易が国境地帯で盛んに行われた。このような茶の流通と貿易に目をつけた宋朝は茶を専売制とし、重要な財政基盤とした。宋以降の中国の王朝でも同様であった。

日本への茶の伝来

 日本に茶と喫茶の仕方が伝えられたのは中国の宋からであった。宋にわたって臨済宗を伝えた栄西が1192年に茶種を持ち帰り、現在日本で栽培されている茶はその子孫だという。また栄西は『喫茶養生記』は薬種としての茶の効用を紹介している。中国の茶は煎茶として飲むことが一般化し、抹茶の飲み方は早く廃れてしまうが、日本では抹茶が「茶の湯」として独自の発達をした。マテオ=リッチは、中国と日本との茶の飲み方の違いを報告している。他の宣教師にも日本の「茶の湯」の文化に関心を寄せたものも多かった。しかし、茶はヨーロッパに知られることはなかったらしく(マルコ=ポーロの東方見聞録にも茶のことは出てこない)、ようやく16世紀に中国を訪れたヨーロッパ商人や宣教師たちが茶の存在を伝えた。

Episode 栄西、実朝の二日酔いを治す

 日本に茶を伝えた栄西は、鎌倉に寿福寺の開山となった。その主著『喫茶養生記』も現在、寿福寺に所蔵されている。鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』の建保2(1214)年2月4日条にはこんな記事が見られる。
(引用)晴、将軍家(実朝)聊(いささ)か御病悩、諸人奔走す。但し殊なる御事無し。是若し去夜御淵酔の余気か、爰に葉上僧正(栄西)御加持に候するの處、此事を聞き、良薬と称して、本寺(寿福寺)より茶一盞(さら)を召進す、而して一巻の書を相副へ、之を献ぜしむ、茶徳を誉むる所の書なり、将軍家御感悦に及ぶと云々。<龍粛校注『吾妻鏡』四 岩波文庫 p.110>
 栄西が二日酔いに苦しむ実朝に茶を勧め、効果があったわけで、このとき栄西が実朝に献上したのが『喫茶養生記』だった。

日本からヨーロッパに初めて輸出

(引用)1609年、オランダ東インド会社の最初の船が日本の平戸に来航、翌10年、オランダは平戸からバンタムをつうじてヨーロッパにはじめて茶を輸出した。これがヨーロッパへもたらされた最初の茶であるといわれている。もしそうだとすれば、ヨーロッパ人が最初に知った茶は日本の緑茶であったと言うことになる。日本が鎖国をせずにヨーロッパとのあいだに自由な貿易を続けていたならば、日本茶はヨーロッパでもっと広く知られていたかもしれない。鎖国にもかかわらずオランダは出島において貿易を許されたとはいえ、その後日本との茶貿易は衰え、それに代わって中国から茶の供給を受けることになる。<角山栄『茶の世界史』1980 中公新書p.15>

茶の流行

17世紀の後半にヨーロッパで流行し、茶と砂糖の消費が急増した。特にイギリスでは中国・インドからの茶の輸入を東インド会社が独占し、大きな利益を得た。

オランダでの流行

 ヨーロッパでのの流行は、まずオランダ東インド会社によって日本・中国産の茶がもたらされた17世紀前半のオランダから始まった。その頃オランダでは上流社会の女性のあいだに茶会が流行し、高価な茶を競って買いいれるようになり、中には家庭崩壊にまでいたったこともあるという。オランダの茶貿易はバタビアで中国商人から買いいれたので高くつくたが、イギリス東インド会社が直接広州で中国から茶を買いいれるようになると、次第にイギリスに押されてオランダの茶貿易は衰退した。

イギリスでの茶の流行

 始めは薬用として意識されていが、それが一般的な飲料となったきっかけは、ステュアート朝復古王政の時代の1662年、チャールズ2世に嫁いできたポルトガル王ブラガンザ家の王女キャサリンが、茶を飲む習慣をイギリス宮廷にもたらしたことだったという。またその持参品には当時貴重品とされていた砂糖が含まれており、キャサリンはお茶に砂糖を入れる飲み方を広めたのだった。ついでオランダ総督のウィレムに嫁いでいたジェームズ2世の娘メアリが名誉革命でイギリスに戻り、メアリ2世となったが、彼女もまたオランダ上流家庭で流行していた飲茶の風習をイギリスにもたらした。
 この飲茶の習慣はたちまちのうちに一般家庭にも広がったが、イギリスでは牛乳に茶を入れ、砂糖を加えて飲むのが流行した。そのため、茶はイギリス東インド会社が中国から輸入し、砂糖は西インド諸島からの輸入するものが急増した。以後、茶はイギリスの中国貿易での主要な輸入品となっていったが、ビールが好まれたドイツと、ワインが一般的であったフランスでは茶は根付かなかった。
catherine-of-braganza
トワイニング社のティーバッグ
キャサリン王妃

Episode 銀の代わりに砂糖を持参金に

(引用)キャサリンが船に乗ってイギリスへ輿入れしてきたとき、持参金として銀塊をもってくる約束であったのに、砂糖をバラスト代わりに積んできた。これにはチャールズ2世も驚いたが、当時砂糖は銀塊に匹敵するほどの貴重品であった。茶も貴重品であったが、まったく輸入に依存していた砂糖は、1665年におけるイギリス輸入量はわずかに88トンにすぎなかった。これでは王侯貴族といえども容易に入手するわけにはいかない。キャサリンが砂糖を持参金がわりにもってきたのもうなずけるであろう。<角山栄『茶の世界史』1980 中公新書 p.91-92>

茶の流行に伴うイギリスの生活革命

 茶を飲む習慣が一般社会に浸透した18世紀のイギリスでは、その食生活を中心とした生活に大きな変化をもたらした。
(引用)たとえば朝食は、16世紀後半エリザベス1世の時代に牛肉(しり肉)を三切れとっていたのが、18世紀はじめには、革命的変化が起こってティとバターつきのパンで朝食とる習慣が確立した。また宮廷の日常の飲み物も、エール、ビール、林檎酒(サイダー)、ワインであったのが、いまやティが中心的飲み物となった。そのほか18世紀に新しくイギリス人の食卓に登場した食べ物には、じゃがいも、米、トマト、アスパラガス、ほうれん草があり、18世紀はじめからデザートに果物がつくようになった。・・・こうした食生活における大きな変化は、インドからの舶来綿布によって引き起こされた衣料革命とあわせて、イギリスに生活革命をもたらすことになる。<角山栄『茶の世界史』1980 中公新書 p.38-43>
 なお、⒚世紀前半のホイッグ党の政治家として活躍し、第1回選挙法改正を実現(1832年)したグレイは、若い頃に独自の茶葉のブレンドを考案、それが「アールグレイ」と言われている。

世界史の中の茶

アメリカ独立戦争はイギリスによる茶貿易の独占に対する植民地側の反発から始まった。また、イギリスはインド植民地支配の柱の一つに茶栽培があった。

アメリカ独立戦争と茶

 イギリスで一般化した茶(tea という英語も cha からきた)は、植民地アメリカの白人にも広がった。18世紀後半になると七年戦争で財政が苦しくなったイギリス本国は植民地に対する課税を強めたが、その一つが1773年の茶法(茶条例)であった。これは東インド会社のアメリカへの茶の直売を認めるものであった。植民地では茶はオランダからの密輸品として入っていたが、安い東インド会社の茶が入ってくると、植民地側の密輸業者や茶商の権益が脅かされることになるので、反発した植民地人はボストン茶会事件を起こした。これがきっかけとなってアメリカ独立戦争になる。本国の東インド会社の茶を飲まないことを誓ったアメリカ人は、その代わりにコーヒーを愛飲するようになったという。そのため、アメリカでは今でも紅茶よりもコーヒーが好まれている。

インドでの茶の生産

 イギリスは中国茶に代わる茶の産地をインドで探した結果、1823年にインドのアッサム地方で自生の茶が発見され、それをインド各地に移植してインドにおける茶の生産が始まり、やがて中国(および日本)の茶を圧倒するようになる。こうしてインドから大量の茶がイギリスにもたらされると、それに入れる砂糖と、器としての陶器の需要も大幅に伸びた。
 イギリス人の茶好きはその後も続き、インド産の茶では間に合わず、中国から茶の輸入も続いた。そのためイギリスの輸入超過の状態が続き、支払いのために銀が中国に流入した。これを食い止めようとしたイギリスは茶の代価としてインド産のアヘンを密輸するようになる。これによって今度は中国側が輸入超過に陥って銀が流出し、アヘンの蔓延も大きな社会問題となった。ここから起こったのが1840年のアヘン戦争であり、中国の半植民地化の第一歩となる。 → イギリスの三角貿易(19世紀)

Episode 紅茶と緑茶

 日本のお茶は緑茶で、ヨーロッパのお茶は紅茶である。この両者は別な作物なのではなく、同じ植物の茶の葉をもとにしており、製法が違うだけで、発酵させないのが緑茶、発酵させるのが紅茶、発酵を途中で止めたものがウーロン茶、である。中国の緑茶を長い航海をかけてイギリスにはくぶ間に自然に発酵して紅茶ができた、という説があるが、それは俗説で、中国ですでに紅茶の製法は行われていた。日本では緑茶が、イギリスでは紅茶がが好まれ、一方では一般的な飲み方の他に、「茶の湯」という独自の文化を生み出し、イギリスでは紅茶に砂糖とミルクを入れて飲むことが一般的となった。<角山栄『茶の世界史』1980 中公新書 には緑茶文化と紅茶文化の興味深い対比が論じられている。>
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第6章2節 エ.宋代の社会
書籍案内

布目潮渢
『中国喫茶文化史』1989
岩波同時代ライブラリー

角山栄
『茶の世界史』1980
中公新書

岡倉天心
『茶の本』桶谷秀昭訳
講談社学術文庫