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原産地はインドのアッサム地方とされている。茶葉を煎じた飲料は早くから中国では薬用として好まれ、17世紀以降主にヨーロッパに拡がり、特にイギリスで多く飲用されるようになった。19世紀には茶の主な産地はインド・セイロンに移った。

 植物としての茶の木の原産地は諸説あるが、現在ではインド北東部のアッサム地方とされるのが有力。アッサム地方に隣接する中国の雲南地方でも早くから茶葉を煎じて飲用とする風習がはじまっていたらしい。前1世紀には四川地方に伝わり、広く呑まれるようになった。中国ではその後、8世紀ごろまでに民衆に普及し、生活に欠かせない飲料となった。宋代には日本をふくめて周辺民族にも喫茶の風習が広がった。
 16世紀中ごろに中国に来たポルトガル人が、ヨーロッパ人で茶を初めて味わったと思われる。13世紀のマルコ=ポーロの『東方見聞録』には茶の記述がない。初めて茶をヨーロッパにもたらしたのは、17世紀の初め、オランダ商人であり、それは日本の緑茶だった。当初は高級な輸入飲料としてヨーロッパの宮廷内にとどまっていた。17世紀中ごろ、オランダからイギリスに伝えられ、宮廷から一般民衆に広がり、ブームとなった。茶を飲用する習慣と共に味を付ける砂糖や、容器としての陶器なども用いられるようになった。
 18世紀にはイギリス東インド会社が中国茶の輸入を独占したことから、アメリカ植民地人が反発し、アメリカ独立戦争のきっかけとなったことはよく知られている。1833年、東インド会社の独占が廃止されたことによって、中国からの茶の輸出が急増、イギリスはその貿易不均衡を解消するため、中国にアヘンを密輸出し、アヘン戦争の原因となった。一方、イギリスは国内の茶の需要を満たすため、植民地での茶の栽培を目指し、インドで茶の自生地を求め、アッサム地方の原木からインドやセイロンに茶の木を移植し、プランテーション経営によって茶を生産するようになり、19世紀後半には中国産を凌ぐこととなった。またアジアの茶をいち早くイギリスに届けるために高速帆船が建造されるなど、海運を発達させる要因ともなった。
 このように、茶は世界史と密接な関係があり、茶を通じて中国・インドなどのアジア地域と、ポルトガル・イギリス・アメリカなどの欧米諸国が交錯する歴史を知ることができる。世界史学習でも興味深い材料である。世界史における茶については多くの参考図書があるが、中国を中心とした茶の歴史に関しては<布目潮渢『中国喫茶文化史』1989 再刊岩波同時代ライブラリー>があり、その世界誌てきひろがりを知るには<角山栄『茶の世界史』1980 中公新書>が基本文献。他に今や古典であるが、岡倉天心の『茶の本』にも茶の歴史に関する記述がある。日露戦争後の1906年、日本の文化を西欧に紹介する目的で英文で書かれた本で、訳書も多数刊行されているが<桶谷秀昭氏訳の講談社学術文庫版 1994>が英語の原文も載せられていて便利。 → 茶(中国)   イギリスなどでの茶の流行   世界史の中の茶

Episode 紅茶と緑茶は同じ茶

 緑茶が中国からイギリスに運ばれる長い航海の間に発酵して紅茶ができた、などというのは俗説にすぎない。また紅茶と緑茶は別の種類であるというのも誤り。紅茶も緑茶も同じ植物の茶の葉をもとにしており、製法が違うだけである。つまり、発酵させないのが緑茶、発酵させるのが紅茶、そして発酵を途中で止めたものがウーロン茶、である。
 中国ですでに紅茶の製法は行われており、紅茶と緑茶は製造段階で分かれる。日本では緑茶、つまり茶葉を発酵させないで、煎茶や抹茶にして飲んだ。イギリスでは紅茶、つまり茶葉を発酵させたものを煎じて飲むむのが好まれた。日本では一般的な飲み方の他に、「茶の湯」という独自の文化を生まれ、イギリスでは紅茶に砂糖とミルクを入れて飲むことが一般的となるという文化の差異が生じた。<角山栄『茶の世界史』1980 中公新書 p.49-54 この本には緑茶文化と紅茶文化の興味深い対比が論じられている。>

参考 茶とTEA

 茶(チャ)は中国での発音は、広東語では CH'A 、福建語では TAY の二系統がある。日本語やポルトガル語の CHA、アラビア語の CHAI、トルコ語の CHAY などは前者の系列、オランダ語の THEE ドイツ語の TEE、英語の TEA、フランス語の THÉ などは公社の系列で、それぞれ茶の伝播したルートを示している。<角山栄『同上書』 p.12>

茶(中国)

中国では4世紀ごろ四川省で茶の栽培と飲用が始まり、唐代には普及し、宋代に一般化し、日本など周辺地域にも広がった。中国の茶は16世紀中ごろヨーロッパにもたらされるようになり、17世紀からはイギリス向けの主要輸出品となった。19世紀後半からはインド・セイロンで茶の栽培が始まると中国の茶の輸出は衰えた。

 茶の木(茶樹)は、その原産地が長く不明で諸説あったが、現在ではインドのアッサム地方説が有力で、それに隣接するビルマ(ミャンマー)のシャン高原、中国雲南省を含む一帯で自然に成育していたらしい。中国の四川省では4世紀ごろから茶畑が作られ、栽培されるようになり、飲用が始まったとされる。それは早くから薬用として用いられていたが、漢代には中国全土に広がり、唐代には嗜好品として一般民衆が日常的に飲用するようになった。
『茶経』 中国最古の茶の専門書と言われる、陸羽の『茶経』は、760年頃に書かれ、茶の製法や飲み方、産地や茶器のちがいなど伝えていて、茶が一般に普及したことが知られる。『茶経』によれば、すでに現在の番茶、煎茶、抹茶、固形茶の違いがあった。

宋代の茶の流行

 飲茶の習慣は宋代にとくに盛んになり、長江下流や四川地方の農村で茶が栽培され、都市には茶館が作られて広く飲まれるようになった。茶が流行すると喫茶用の器が必要となり、それが中国における陶磁器の生産増加をもたらした。有名な景徳鎮で陶磁器の生産が始まったのも宋代のことである。また周辺の遊牧民族にも飲茶の習慣が伝えられた。彼らは茶を栽培することが出来なかったので、中国の茶と遊牧民の馬を交易する茶馬貿易が国境地帯で盛んに行われた。このような茶の流通と貿易に目をつけた宋朝は茶を専売制とし、重要な財政基盤とした。宋以降の中国の王朝でも同様であった。

日本への茶の伝来

 日本に茶と喫茶の仕方が伝えられたのは中国の宋からであった。宋にわたって臨済宗を伝えた栄西が1192年に茶種を持ち帰り、現在日本で栽培されている茶はその子孫だという。また栄西は『喫茶養生記』は薬種としての茶の効用を紹介している。中国の茶は煎茶として飲むことが一般化し、抹茶の飲み方は早く廃れてしまうが、日本では抹茶が「茶の湯」として独自の発達をした。マテオ=リッチは、中国と日本との茶の飲み方の違いを報告している。他の宣教師にも日本の「茶の湯」の文化に関心を寄せたものも多かった。しかし、茶はヨーロッパに知られることはなかったらしく(マルコ=ポーロの東方見聞録にも茶のことは出てこない)、ようやく16世紀に中国を訪れたヨーロッパ商人や宣教師たちが茶の存在を伝えた。

Episode 栄西、実朝の二日酔いを治す

 日本に茶を伝えた栄西は、鎌倉に寿福寺の開山となった。その主著『喫茶養生記』も現在、寿福寺に所蔵されている。鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』の建保2(1214)年2月4日条にはこんな記事が見られる。
(引用)晴、将軍家(実朝)聊(いささ)か御病悩、諸人奔走す。但し殊なる御事無し。是若し去夜御淵酔の余気か、爰に葉上僧正(栄西)御加持に候するの處、此事を聞き、良薬と称して、本寺(寿福寺)より茶一盞(さら)を召進す、而して一巻の書を相副へ、之を献ぜしむ、茶徳を誉むる所の書なり、将軍家御感悦に及ぶと云々。<龍粛校注『吾妻鏡』四 岩波文庫 p.110>
 栄西が二日酔いに苦しむ実朝に茶を勧め、効果があったわけで、このとき栄西が実朝に献上したのが『喫茶養生記』だった。

日本からヨーロッパに初めて輸出

(引用)1609年、オランダ東インド会社の最初の船が日本の平戸に来航、翌10年、オランダは平戸からバンタムをつうじてヨーロッパにはじめて茶を輸出した。これがヨーロッパへもたらされた最初の茶であるといわれている。もしそうだとすれば、ヨーロッパ人が最初に知った茶は日本の緑茶であったと言うことになる。日本が鎖国をせずにヨーロッパとのあいだに自由な貿易を続けていたならば、日本茶はヨーロッパでもっと広く知られていたかもしれない。鎖国にもかかわらずオランダは出島において貿易を許されたとはいえ、その後日本との茶貿易は衰え、それに代わって中国から茶の供給を受けることになる。<角山栄『茶の世界史』1980 中公新書p.15>

茶の流行(ヨーロッパ)

17世紀の後半にヨーロッパで流行し、茶と砂糖の消費が急増した。特にイギリスでは中国・インドからの茶の輸入を東インド会社が独占し、大きな利益を得た。

ポルトガルからオランダへ

 インド航路を開拓し、最も早く海路で中国に来航したポルトガル商人は、絹・香料などをリスボンにもたらした。これらをリスボンからフランス、ネーデルラント、バルト海方面に運んだのはネーデルラント連邦共和国(オランダ)船だった。1595年にポルトガルがオランダ船をリスボンから排除したために、オランダは直接東インド方面に船を派遣するようになった。こうしてオランダは1596年、ジャワ島に商船を派遣、その地にアジア貿易の拠点を築いた。1609年、オランダ東インド会社の船が初めて平戸に来港し、ヨーロッパで初めて茶を輸入した。オランダはさらに1623年にはアンボイナ事件でイギリスを排除し、東アジア貿易の主導権を握った。この海洋国家オランダにおいて1637年頃から国内で飲茶の流行が始まった。

オランダでの流行

 ヨーロッパでのの流行は、まずオランダ東インド会社によって日本・中国産の茶がもたらされた17世紀前半のオランダから始まった。その頃オランダでは上流社会の女性のあいだに茶会が流行し、高価な茶を競って買いいれるようになり、中には家庭崩壊にまでいたったこともあるという。オランダの茶貿易はバタビアで中国商人から買いいれたので高くつくたが、イギリス東インド会社が直接広州で中国から茶を買いいれるようになると、次第にイギリスに押されてオランダの茶貿易は衰退した。

イギリスでの茶の流行

 始めは薬用として意識されていが、それが一般的な飲料となったきっかけは、ステュアート朝復古王政の時代の1662年、チャールズ2世に嫁いできたポルトガル王国ブラガンザ家の王女キャサリンが、茶を飲む習慣をイギリス宮廷にもたらしたことだったという。またその持参品には当時貴重品とされていた砂糖が含まれており、キャサリンはお茶に砂糖を入れる飲み方を広めたのだった。ついでオランダ総督のウィレムに嫁いでいたジェームズ2世の娘メアリが名誉革命でイギリスに戻り、メアリ2世となったが、彼女もまたオランダ上流家庭で流行していた飲茶の風習をイギリスにもたらした。
 この飲茶の習慣はたちまちのうちに一般家庭にも広がったが、イギリスでは牛乳に茶を入れ、砂糖を加えて飲むのが流行した。そのため、茶はイギリス東インド会社が中国から輸入し、砂糖は西インド諸島からの輸入するものが急増した。以後、茶はイギリスの中国貿易での主要な輸入品となっていったが、ビールが好まれたドイツと、ワインが一般的であったフランスでは茶は根付かなかった。
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トワイニング社のティーバッグ
キャサリン王妃

Episode 銀の代わりに砂糖を持参金に

(引用)キャサリンが船に乗ってイギリスへ輿入れしてきたとき、持参金として銀塊をもってくる約束であったのに、砂糖をバラスト代わりに積んできた。これにはチャールズ2世も驚いたが、当時砂糖は銀塊に匹敵するほどの貴重品であった。茶も貴重品であったが、まったく輸入に依存していた砂糖は、1665年におけるイギリス輸入量はわずかに88トンにすぎなかった。これでは王侯貴族といえども容易に入手するわけにはいかない。キャサリンが砂糖を持参金がわりにもってきたのもうなずけるであろう。<角山栄『茶の世界史』1980 中公新書 p.91-92>

茶の流行に伴うイギリスの生活革命

 こうして中国から大量の茶がイギリスにもたらされると、それに入れる砂糖と、器としての陶器の需要も大幅に伸びた。さらに、茶を飲む習慣が一般社会に浸透した18世紀のイギリスでは、その食生活を中心とした生活に大きな変化をもたらした。
(引用)たとえば朝食は、16世紀後半エリザベス1世の時代に牛肉(しり肉)を三切れとっていたのが、18世紀はじめには、革命的変化が起こってティとバターつきのパンで朝食とる習慣が確立した。また宮廷の日常の飲み物も、エール、ビール、林檎酒(サイダー)、ワインであったのが、いまやティが中心的飲み物となった。そのほか18世紀に新しくイギリス人の食卓に登場した食べ物には、じゃがいも、米、トマト、アスパラガス、ほうれん草があり、18世紀はじめからデザートに果物がつくようになった。・・・こうした食生活における大きな変化は、インドからの舶来綿布によって引き起こされた衣料革命とあわせて、イギリスに生活革命をもたらすことになる。<角山栄『茶の世界史』1980 中公新書 p.38-43>
 なお、19世紀前半のホイッグ党の政治家として活躍し、第1回選挙法改正を実現(1832年)したグレイは、若い頃に独自の茶葉のブレンドを考案、それが「アールグレイ」と言われている。

世界史の中の茶

アメリカ独立戦争はイギリスによる茶貿易の独占に対する植民地側の反発から始まった。また、イギリスはインド植民地支配の柱の一つに茶栽培がり、アヘン戦争はそれを背景として起こった。またイギリスのインド・セイロン支配でも茶は重要な作物となった。中国からの茶の輸入の早さを競う競争は海運業を盛んにした。

アメリカ独立戦争と茶

 イギリスで一般化した茶は、アメリカ大陸のイギリス植民地の白人にも広がった。18世紀後半になると七年戦争、およびフレンチ=インディアン戦争で財政が苦しくなったイギリス本国は植民地に対する課税を強めたが、その一つが1773年の茶法(茶条例)であった。これは東インド会社のアメリカへの茶の直売を認めるものであった。植民地では茶はオランダからの密輸品として入っていたが、安い東インド会社の茶が入ってくると、植民地側の密輸業者や茶商の権益が脅かされることになるので、反発した植民地人はボストン茶会事件を起こした。これがきっかけとなってアメリカ独立戦争になる。本国の東インド会社の茶を飲まないことを誓ったアメリカ人は、その代わりにコーヒーを愛飲するようになったという。そのため、アメリカでは今でも紅茶よりもコーヒーが好まれている。

茶とアヘン戦争

 17世紀半ば以降、イギリス東インド会社の最大の輸入品になったのはインド産綿布(キャラコ)であったが、安価な綿布はイギリスの伝統的国民産業であった毛織物工業綿工業にとって大きな脅威となりキャラコ論争がもちあがった。毛織物や綿織物の製造業者の激しい抗議によって、1700年にはキャラコ輸入禁止法が成立した。そのため、東インド会社の輸入品の中で、中国産の茶の占める比重が重くなっていった。
 東インド会社はイギリス国内での茶の需要の急激な増大に応えるため、中国茶の輸入を増やしたが、中国に対する輸出品として自国の毛織物やインド産の綿布などを売り込んだが、中国では質の良い絹織物と綿織物が自給できたため、輸出は増えなかった。そのため、中国との貿易はイギリスの一方的な輸入超過となり、茶の代価として支払うが増加し、イギリスにとって不利な状況が強まった。そこで考え出されたのがインド産のアヘンを中国に輸出することであった。18世紀末、インド産の大量のアヘンが輸出量が増大し、そのためアヘン中毒者があふれ、中国の銀が今度はイギリスに流れることになった。 → イギリスの三角貿易(19世紀)
 イギリス産業革命が進行した後の1830年代になると、国内で自由貿易主義が台頭、1833年には東インド会社の中国貿易独占権が廃止され、多くの商社、商人が中国貿易に参入するようになると、アヘン密貿易はさらに増大した。イギリス政府は依然として広東だけでの管理貿易を維持しようとする清朝政府に対し、貿易自由化を強く求めたが、効果はなかった。アヘンの害が広がったことで、中国当局はその取り締まりを強化し、アヘンを廃棄したことに対して、イギリスが抗議と称して武力を行使したのが、1839から42年のアヘン戦争であった。<角山栄『茶の世界史』1980 中公新書 p.102-106> 以下、< >は同書の頁。

ティ・レース

 アヘン戦争の結果、1840年の南京条約で中国は開港場を増やし、さらに公行の廃止によって自由貿易体制に組み込まれ、しかも関税自主権が認められないという状態のもとでイギリス工業製品を受け容れることとなった。イギリスはさらに口実を設けて1856~58年のアロー戦争を仕掛けて中国での商業活動の自由を獲得した。
 こうして自由化された中国貿易は活況を呈し、リヴァプール、ブリストル、グラスゴーなどの港から中国茶を目指して商船が殺到するようになった。1840年代後半から中国貿易で茶を最も早くイギリスに運ぼうとして快速船の建造競争が始まった。当時はまだ帆船であったが、風を多く受ける帆と、抵抗を少なくする流線型の船体を持つクリッパー船が設計され、建造された。
 ところがそこに強力な競争相手が現れた。1849年、イギリス政府が自由主義政策の一環として航海法を廃止したため、アメリカ商船がイギリスの中国貿易に割り込んできたのだった。1850年12月、アメリカのクリッパー船オリエンタル号が1500トンの紅茶を積んで、香港から95日にロンドン港に入港し。同時に出発したイギリスのクリッパー船アスタート号の97日より先着したことでイギリス造船業者は衝撃を受け、船の改造に取り組んだという。
 1850~60年代はこのティ・レースが最も盛んだったが、1865年に南北戦争でアメリカが脱落したこと、1869年にスエズ運河が開通し、大幅に距離の短縮が図られたこと、そして帆船のクリッパー船はスエズ運河を通れなかったことから、一気に蒸気船時代に切り替わったことによって帆船時代が終わり、ティー・レースも終わりを告げた。<p.111-115>

Episode レースに間に合わなかった高速帆船

 1969年11月22日、ティ・レース(中国からの紅茶を早くイギリスに運ぶ競争)のために造った最新型高速船「カティーサーク号」が進水した。しかし、その6日前にスエズ運河が開通していた。帆船は運河を通るのには向いていないので、結局この最新型高速船は一度もティ・レースに参加できずに悲劇の運命をたどった。<p.115>

インドでの茶の生産

 一方、イギリスは増大する国内の茶の需要を満たすため、中国茶に代わる茶の産地を求めるようになった。インドで探索した結果、1823年にブルース兄弟がインド東北のビルマとの国境地帯であるアッサム地方で、初めて自生の茶を発見した。それが自生する茶の木であることがわかるまでは、時間がかかったが、1838年、ようやくアッサム茶の茶葉がロンドンに届けられ、中国社に劣らない品質が認められた。事業家に当たっては、労働力の不足、コレラの発生など悪戦苦闘が続き、ジャングル開拓には像を使うなどにおって茶プランテーションを開き、1840年に量産に成功した。経営の採算が合うようになったのは1848年であった。それでも1460年代には茶園はバングラデシュ、インドのダージリンなどに広がった。<p.118-124>
 そして1880年代にはセイロン島でも茶のプランテーションが作られるようになった。1860年代にはイギリスの紅茶輸入量の90%は中国産であったが、80年代には50%に落ち込み、20世紀にはインドとセイロンの茶が中国産を圧倒することとなる。インド・セイロン産の紅茶が中国産の紅茶を量において上回ることができた理由は、中国での茶の生産が伝統的な小規模家族経営にとどまっていたのに対市、インドとセイロンではプランテーションによる大規模な資本主義的経営方式がとられた点にある。<p.155>
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第6章2節 エ.宋代の社会
書籍案内

布目潮渢
『中国喫茶文化史』1989
岩波同時代ライブラリー

角山栄
『茶の世界史』1980
中公新書

岡倉天心
『茶の本』桶谷秀昭訳
講談社学術文庫