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イギリス東インド会社

(1)1600年、エリザベス1世が創設したアジア貿易の特権的株式会社。重商主義による国の保護によって隆盛した。

イギリス絶対王政の最盛期、テューダー朝のエリザベス1世は、1600年12月31日、正式に「イギリス東インド会社」、つまり「東インド諸地域に貿易するロンドン商人たちの総裁とその会社」を法人と認める特許状を下付した。東インド会社はここに始まるが、最初の東インド会社船4隻がロンドンを発ったのは1601年1月であった。翌年10月にスマトラのアチェンに到着、1603年9月にイギリスに戻り、103万ポンドの胡椒を持ち帰った。ロンドンに入荷した胡椒はそこからヨーロッパ各地に売りさばかれた。

オランダ東インド会社との競争

 この東インド会社は、世界最初の国王から貿易の特権を与えられた特許会社であったが、一航海ごとに資金(株)を集め、船が帰国した後にその輸入品またはその販売代金を、投資額に比例して利益を分配するという株式会社の形態を採っていたが、航海ごとに利益は分配され、恒常的・組織的な株式会社としては不十分なものであった。イギリスより遅れたが1602年に発足したオランダ東インド会社は、1回の航海ごとではなく、永続的に資金を集め、組織的な会社を組織し、利益を配当する形式をとったので、実質的な最初の株式会社と言うことができ、イギリスの東ンド会社はその競争では後れをとることになる。
 イギリス東インド会社は一時、オランダ東インド会社との合同も考えたが、反対も強く、とくに1623年のアンボイナ事件での両国の対立から、イギリスは東南アジア地域から撤退し、インド亜大陸経営に方向を転じる。1643年には現在のイラクのバスラに商館を設け、西アジアにも進出した。

イギリス東インド会社の隆盛

(2)17世紀後半から18世紀。東インド会社によるインド経営が開始される。

 イギリスの東インド会社が、オランダと同じ配当方式になるのはクロムウェル時代の1657年で、それ以後イギリス東インド会社はオランダとの競争力をつけ、その香料貿易独占に食い込んでいき、英蘭戦争での勝利もあって、18世紀にはオランダ東インド会社を追い抜き、巨大な利益を生み出すことになる。
 また東インド会社の活動がインド中心になるに伴い、その輸入品はまずインド産綿布(木綿)が中心となった。綿布はキャラコというが、それはカリカットがなまったものと言われている。綿布の輸入は毛織物業に打撃を与えたので、毛織物生産業者は綿布の輸入を制限しようとして、キャラコ論争が起こる。ついで中国産のがその流行もあって増大していった。

合同東インド会社

 東インド会社だけが特権的にインド貿易を独占していることに反発も生じ、1698年にはもう一つの東インド会社が設立されたが、1709年には「合同東インド会社」として合流し、同時に組織の整備が行われた。合同東インド会社の本社はロンドンに置かれ、「インド館」と言われた。株主総会のもとで取締役会が経営方針を立て、専門的な委員会が作られ、事務局がおかれた。またインドのマドラスボンベイカルカッタなどに管区がおかれ、各地の商館を管区長が掌握した。社員の中には事務員の他に会社軍が組織され、その士官はイギリス人で、現地から兵士を雇っていた。<浅田実『東インド会社』講談社現代新書 など>

イギリス東インド会社のインド統治

(3)18世紀後半~19世紀前半、インド植民地統治機関に変身して存続した。

1757年のプラッシーの戦いから1857年のインド大反乱までの100年間の東インド会社によるインド支配の歴史は、次のように要約することが出来よう。

18世紀後半 ベンガルの徴税権の獲得

 イギリス東インド会社(1)は、1600年創設以来、インドと中国の貿易の独占権を与えられていたが、17世紀後半までにはオランダとの抗争に打ち勝ち、その間、東インド会社は独自で武装し軍事的な力を有するようになり、イギリス東インド会社(2)全盛期を迎えた。さらに18世紀を通してインド支配権をめぐってフランス東インド会社との間でカーナティック戦争(1744-48,49-54,56-63)を戦い、その勝利によってマドラスの後背地である南インドに足場を築いた。さらにベンガル地方では、1757年のプラッシーの戦いでフランスと結んだベンガル太守軍を破り、その主導権を握った。翌1758年、イギリスはベンガル知事をおいて初代にクライヴを任命、ベンガル太守を傀儡化した。さらに1764年に東インド会社はベンガル太守をブクサールの戦いで破り、翌1765年にそれまでベンガル太守からディーワーニー(徴税権と行政権を含む権利)を与えられた。

本国政府による会社統制の強化

 東インド会社がベンガル地方のディーワーニーを獲得したことによって東インド会社は単なる貿易商社ではなく、土地と人民を徴税と行政を請け負う植民地統治機関に変質した。それに伴って本国政府には東インド会社の統制の必要が出てきたため、1773年には「ノースの規制法」と言われる法改正を行い、ベンガル知事に代わってベンガル総督(ヘースティングス初代総督)を置いて東インド会社の行政権を移行させ、統制を強化した。

1784年のピットのインド法

 その後も本国政府の対策は東インド会社に対する規制を強めることを目指し、1784年、ピット首相の時にインド法を制定した。このような規制を強める必要があったのは、当時ネイボッブと呼ばれた東インド会社役員や社員で私腹を肥やし、本国に戻って贅沢な暮らしをしたり、土地を手にして地主となり、腐敗選挙区を利用して下院議員になるものなど、いわゆるインド成金に対する反発が強まったためであった。ピットのインド法の内容は、次の二点である。
・インドに駐在する総督、知事、司令官などの任免権は本国のイギリス政府が持つこと。
・東インド会社の諸事業を監視する政府機関を設置し、その機関は会社の帳簿類を検閲できること。<浅田実『東インド会社』1989 講談社現代新書 p.176-178>

植民地支配の全インドへの拡大

 プラッシーの戦いを契機としてイギリス東インド会社はインド植民地機関へと大きく転身し、またインド人を傭兵(シパーヒー)として雇用して武装するようになった。そして、18世紀後半から19世紀にかけて、マイソール戦争(1767-69,80-84,90-92,99)、マラーター戦争(1775-82,1803-05,17-18)、シク戦争(1845-46,48-49)と立て続けに武力で制圧し、服従した地方政権は藩王国として自治を与えつつ、互いに連携がとれないように分割統治を行い、19世紀中頃までには、内陸の一部を除いてほとんどイギリスが支配し、ムガール帝国はその保護を受けて名目的に存続するのみとなった。

金納税徴収システムの整備

 このようにイギリスは支配領域をベンガル地方以外のインド各地に拡大しながら、インド統治の財源として植民地人から税を徴収するシステムを整備した。ベンガル州を中心とした地域ではザミンダーリー制(1793年より)、デカン高原を含む南インドではライヤットワーリー制を採用し、近代的な土地私有原則によって土地所有者を確定し、金納によって地租収入を確保しようとした。このインド植民地の富を収奪する体制によってインド村落の共同体的土地所有は崩壊し、貧困層を拡大させた。

イギリス産業革命の影響

 そしてこの時期はイギリス本国において産業革命が進展した時期であり、インドは本国の綿製品の市場、原料の綿花の供給地としての重要性を増すこととなる。この産業革命の影響はインドの伝統的な社会を根底から崩すこととなった。インドは東インド会社による課税と、産業革命の影響による綿花を主とした農村のモノカルチャー化とによって、急速にその困窮が進むことになった。インドを自国の資本主義の枠に収めることに成功したイギリスは、さらにインド産のアヘンを中国に輸出し、中国産の茶を輸入するという三角貿易を展開していく。

Episode インド成金“ネイボッブ”

 プラッシーの戦い以後、インドで徴税権を獲得した東インド会社は、単なるインド貿易の特許権を有する商社というにとどまらず、インドの植民地統治を行う権限を得た。その結果、社員には役得や汚職によって蓄財するものが現れた。彼らはイギリスに帰国してその財力にものを言わせて派手な生活をし、また腐敗選挙区で買収によって国会議員となり、名士となる者も多かった。このような「インド成金」は、当時ネイボッブと呼ばれ、羨望と非難の両面からよく話題にされた。インド民衆からの収奪によってネイボッブ達が贅沢な暮らしをしていることに対する批判が、次第に東インド会社のインド支配のあり方を見直す世論となっていく。

イギリス東インド会社の解散

(4)19世紀、貿易独占権を失い、さらに商業活動を停止して単なる統治機構のみとなった上で、1858年に解散した。

自由貿易主義の台頭

 17世紀の後半に東インド会社はアジア貿易の独占権を有する商社という性格から、植民地インドを統治する機関へと変身し、1774年からはベンガル総督の管轄下に置かれていたが、19世紀にはいるとその貿易特権は次々と廃止されていく。その背景には、産業革命の進展によって自由貿易主義の要求が強まり、東インド会社の貿易権独占に対する批判が強まったことである。
 まず1813年の特許状法によって東インド会社のインド貿易の独占権が廃止され、さらに1833年には新特許状法によって茶と中国貿易での独占権廃止も決定され、これによって商業活動は停止となった。なお、対中国貿易の契約は1834年までとなっていたので、貿易の自由化(すべての国民に貿易に参加できること)が実施されたのはそれ以降ということになる。これによって東インド会社はインド統治機構(というより植民地統治請負業者)として、徴税権の行使など植民地行政にのみあたることとなる。

インド大反乱

 イギリス国内の動くだけでなく、インド民衆の抵抗も東インド会社支配のあり方を転換させる要因であった。その爆発が1857年の東インド会社の傭兵であるシパーヒーが起こしたインド大反乱(シパーヒーの乱)である。イギリス本国政府は、インド大反乱の勃発は、東インド会社のインド統治の失敗と考え、翌1858年8月に、インド統治法を制定し、ついに東インド会社を解散させ、インドは本国政府が直接支配下におくこととした。これはランカシャーを中心とする綿工業の産業資本家の要求でもあった。これによって1600年に特許状を与えられて始まった東インド会社が終焉した。

インド帝国の成立

 なお、東インド会社の株主に対しては、なお1874年まで配当金を支払うと約束していたので、東インド会社の残務処理業務はまた存続し、その残務整理のすべてが終わった1877年にインド帝国の成立となった。東インド会社解散後の19世紀後半、イギリスのインド植民地直接支配の時代になって1869年にはスエズ運河が開通し、また帆船から蒸気船、木造船から鉄鋼船への転換がなされた。<浅田実『東インド会社』1989 講談社現代新書>
 → イギリスのインド植民地支配