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イギリス東インド会社

1600年、イギリス絶対王政時代にロンドンの商人が組織し、エリザベス1世から特許状をうけ、アジア貿易を独占的に行った会社。重商主義による国の保護によって隆盛し、次第にインド経営を主体とするようになり、18世紀中頃以降は実質的なその統治機構に変質した。インドの民族的な抵抗であるインド大反乱を鎮圧した後の1858年に解散した。


イギリス東インド会社の創設

(1)1600年、ロンドンの商人がインド以西のアジア各地との貿易を独占するため、エリザベス1世の特許を得て設立した。1601年からアジア貿易を開始したが1航海ごとに資金を集める形態であったため、1602年に始まるオランダ東インド会社に後れをとるようになり、東南アジアの香辛料貿易からは撤退し、インド経営を主力とするようになった。

 イギリス絶対王政の最盛期、テューダー朝のエリザベス1世は、1600年12月31日、正式に「イギリス東インド会社」、つまり「東インド諸地域に貿易するロンドン商人たちの総裁とその会社」を法人と認める特許状を下付した。従って「東インド会社」East India Company というのは通称であるが、EICの略称は広く世界に知られるようになった。
 最初の東インド会社船4隻がロンドンを発ったのは1601年3月であった。500人以上が乗り組み、大砲を110門備えた武装船団であった。翌年10月にスマトラのアチェに到着、さらにジャワ島のバンテンに立ち寄り、マラッカ海峡ではポルトガル船を襲い、積荷の胡椒などを略奪、1603年9月に無事イギリスに戻り、103万ポンドの胡椒を持ち帰った。ロンドンに入荷した胡椒はそこからヨーロッパ各地に売りさばかれた。

オランダ東インド会社との競争

 イギリス東インド会社は、国王から貿易の特権を与えられた特許会社であり、それ以後、オランダ、フランス、デンマーク、スウェーデンといった西ヨーロッパ諸国が競って設立した東インド会社の最初のものである。その手本となったのは、すでに存在していたロンドン商人による地中海での東方貿易のためのレヴァント会社であった。それは一航海ごとに資金(株)を集め、船が帰国した後にその輸入品またはその販売代金を、投資額に比例して利益を分配するという株式会社の形態を採っていた。しかし、航海ごとに利益は分配されたため、恒常的・組織的な株式会社としては不十分なものであった。イギリスより遅れたが1602年に発足したオランダ東インド会社は、1回の航海ごとではなく、永続的に資金を集め、組織的な会社を組織し、利益を配当する形式をとったので、実質的な最初の株式会社と言うことができ、イギリスの東インド会社はその競争では後れをとることになる。
 イギリス東インド会社は一時、オランダ東インド会社との合同も考えたが、反対も強く、とくに1623年アンボイナ事件での両国の対立から、イギリスは東南アジア地域から撤退し、インド亜大陸経営に方向を転じる。1643年には現在のイラクのバスラに商館を設け、西アジアにも進出した。
 POINT イギリス東インド会社の性格  イギリス東インド会社について誤解しないためには次の点を注意しよう。
  • 国王の作った国営会社ではなく、商人が組織した会社であり、国王の特許状によって貿易独占権を得た。
  • 目的は当初は香辛料などの貿易の利益をえるためであり、領土的侵略ではなかった。
  • 東インドとは現在のインドに限定されず、喜望峰から東の東南アジア、中国・日本までを含む。
  • イギリス東インド会社は当初は恒常的な株式会社組織ではなかった(1航海ごとの清算)。
  • 18世紀中頃から、徴税権・行政権をもち、インド統治を行う機関に変質する。
 → 東インド会社の項を参照。

イギリス東インド会社の隆盛

(2)17世紀後半から18世紀。1657年から株式会社としての組織を確立し、オランダとの激しい英蘭戦争を展開した。1698年には合同東インド会社となり、インド経営を本格化した。

 イギリスの東インド会社が、オランダと同じ配当方式になるのはクロムウェル時代の1657年で、それ以後イギリス東インド会社はオランダとの競争力をつけ、その香辛料貿易独占に食い込んでいき、英蘭戦争での勝利もあって、18世紀にはオランダ東インド会社を追い抜き、巨大な利益を生み出すことになる。
 また東インド会社の活動がインド中心になるに伴い、その輸入品はまずインド産綿布(木綿)が中心となった。綿布はキャラコというが、それはカリカットがなまったものと言われている。綿布の輸入は毛織物業に打撃を与えたので、毛織物生産業者は綿布の輸入を制限しようとして、キャラコ論争が起こる。ついで中国産のがその流行もあって増大していった。

合同東インド会社

 東インド会社だけが特権的にインド貿易を独占していることに反発も生じ、1698年にはもう一つの東インド会社が設立されたが、1709年には合流して「合同東インド会社」となり、同時に組織の整備が行われた。合同東インド会社の本社はロンドンに置かれ、「インド館」と言われた。株主総会のもとで取締役会が経営方針を立て、専門的な委員会が作られ、事務局がおかれた。またインドのマドラスボンベイカルカッタなどに管区がおかれ、各地の商館を管区長が掌握した。社員の中には事務員の他に会社軍が組織され、その士官はイギリス人で、現地から兵士を雇っていた。<浅田実『東インド会社』講談社現代新書 など>

中国との貿易

 1660年代からまずイギリスの宮廷での飲用が始まり、徐々に民間にも広がって需要が急増した。東インド会社は1697年から直接中国との茶の取引を開始、1704年からは広州での貿易の権利を得て18世紀には茶の輸入が本格化し、茶は対中国貿易の80%をしめる主力商品となった。茶の流行に伴って、喫茶用の陶磁器の需要も増大した。茶を輸入すると同時にイギリスは毛織物を輸出しようとしたが、毛織物は中国では売れなかったので、イギリスにとって著しい輸入超過となり、対価としてのがどんどん中国に流入することとなった。

イギリス東インド会社のインド統治

(3)18世紀後半~19世紀前半。インド支配権をめぐってフランスとの間で抗争し、1757年のプラッシーの戦いで勝利して主導権を握った。さらにベンガル地方の徴税権・行政権を認められ植民地統治機構に変質した。同時に本国政府による統制も強まり1774年からはベンガル総督の管理下に置かれた。さらに産業革命の進行に伴い自由貿易主義が台頭、東インド会社による貿易独占に対する批判が強まっていった。

 1757年のプラッシーの戦いから1857年のインド大反乱までの100年間の東インド会社によるインド支配の歴史は、次のように要約することが出来よう。

18世紀後半 ベンガルの徴税権の獲得

 イギリス東インド会社(1)は、1600年創設以来、インドと中国の貿易の独占権を与えられていたが、17世紀後半までにはオランダとの抗争に打ち勝ち、その間、東インド会社は独自で武装し軍事的な力を有するようになり、イギリス東インド会社(2)の全盛期を迎えた。さらに18世紀を通してインド支配権をめぐってフランス東インド会社との間でカーナティック戦争(1744-48,49-54,56-63)を戦い、その勝利によってマドラスの後背地である南インドに足場を築いた。さらにベンガル地方では、1757年プラッシーの戦いでフランスと結んだベンガル太守軍を破り、その主導権を握った。翌1758年、イギリスはベンガル知事をおいて初代にクライヴを任命、ベンガル太守を傀儡化した。さらに1764年に東インド会社はベンガル太守をブクサールの戦いで破り、翌1765年にそれまでベンガル太守からディーワーニー(徴税権と行政権を含む権利)を与えられた。

本国政府による会社統制の強化

 東インド会社がベンガル地方のディーワーニーを獲得したことによって東インド会社は単なる貿易商社ではなく、土地と人民を徴税と行政を請け負う植民地統治機関に変質した。それに伴って本国政府には東インド会社の統制の必要が出てきたため、1773年には「ノースの規制法」と言われる法改正を行い、ベンガル知事に代わってベンガル総督(ヘースティングス初代総督)を置いて東インド会社の行政権を移行させ、統制を強化した。

1784年のピットのインド法

 その後も本国政府の対策は東インド会社に対する規制を強めることを目指し、1784年、ピット首相の時にインド法を制定した。このような規制を強める必要があったのは、当時ネイボッブと呼ばれた東インド会社役員や社員で私腹を肥やし、本国に戻って贅沢な暮らしをしたり、土地を手にして地主となり、腐敗選挙区を利用して下院議員になるものなど、いわゆるインド成金に対する反発が強まったためであった。ピットのインド法の内容は、次の二点である。
・インドに駐在する総督、知事、司令官などの任免権は本国のイギリス政府が持つこと。
・東インド会社の諸事業を監視する政府機関を設置し、その機関は会社の帳簿類を検閲できること。<浅田実『東インド会社』1989 講談社現代新書 p.176-178>

植民地支配の全インドへの拡大

 プラッシーの戦いを契機としてイギリス東インド会社はインド植民地機関へと大きく転身し、またインド人を傭兵(シパーヒー)として雇用して武装するようになった。そして、18世紀後半から19世紀にかけて、マイソール戦争(1767-69,80-84,90-92,99)、マラーター戦争(1775-82,1803-05,17-18)、シク戦争(1845-46,48-49)と立て続けに武力で制圧し、服従した地方政権は藩王国として自治を与えつつ、互いに連携がとれないように分割統治を行い、19世紀中頃までには、内陸の一部を除いてほとんどイギリスが支配し、ムガール帝国はその保護を受けて名目的に存続するのみとなった。

金納税徴収システムの整備

 このようにイギリスは支配領域をベンガル地方以外のインド各地に拡大しながら、インド統治の財源として植民地人から税を徴収するシステムを整備した。ベンガル州を中心とした地域ではザミンダーリー制(1793年より)、デカン高原を含む南インドではライヤットワーリー制を採用し、近代的な土地私有原則によって土地所有者を確定し、金納によって地租収入を確保しようとした。このインド植民地の富を収奪する体制によってインド村落の共同体的土地所有は崩壊し、貧困層を拡大させた。

イギリス産業革命の影響

 そしてこの時期はイギリス本国において産業革命が進展した時期であり、インドは本国の綿製品の市場、原料の綿花の供給地としての重要性を増すこととなる。この産業革命の影響はインドの伝統的な社会を根底から崩すこととなった。インドは東インド会社による課税と、産業革命の影響による綿花を主とした農村のモノカルチャー化とによって、急速にその困窮が進むことになった。インドを自国の資本主義の枠に収めることに成功したイギリスは、さらにインド産のアヘンを中国に輸出し、中国産の茶を輸入するという三角貿易を展開していく。

Episode インド成金“ネイボッブ”

 プラッシーの戦い以後、インドで徴税権を獲得した東インド会社は、単なるインド貿易の特許権を有する商社というにとどまらず、インドの植民地統治を行う権限を得た。その結果、社員には役得や汚職によって蓄財するものが現れた。彼らはイギリスに帰国してその財力にものを言わせて派手な生活をし、また腐敗選挙区で買収によって国会議員となり、名士となる者も多かった。このような「インド成金」は、当時ネイボッブと呼ばれ、羨望と非難の両面からよく話題にされた。インド民衆からの収奪によってネイボッブ達が贅沢な暮らしをしていることに対する批判が、次第に東インド会社のインド支配のあり方を見直す世論となっていく。

インド以外での東インド会社の動き

アメリカ独立運動の始まり 東インド会社が中国から独占的に買い入れた茶は、アメリカ大陸のイギリス植民地でも需要が高まっていた。1773年、イギリスは茶法を制定、アメリカでの茶販売を東インド会社だけに限定すると、植民地人が強く反発、同1773年年にボストン茶会事件が起き、これがきっかけとなってアメリカ独立戦争が始まる。
東インド会社のアヘン貿易 イギリス東インド会社は中国では茶の輸入を最大の利益としていたが、その代わりとして毛織物、綿織物を中国に売り込もうとした。しかしそれらの需要は少なく、対価としての銀が中国に流入するむ傾向が続いた。そこで東インド会社が目を付けたのはインド産のアヘンであった。東インド会社は 1773年にインドでのアヘン専売権、さらに1797年にはアヘン製造独占権を獲得し、主としてベンガル地方でアヘンを製造し、「会社アヘン」として売り出し、中国にも独占販売を行った。ここにイギリス・中国・インドを結ぶ19世紀の三角貿易が成立、利益の大きいアヘン貿易には私貿易商人ものりだし、1820年代から密貿易も増大した。

イギリス東インド会社の解散

(4)19世紀、産業革命後の自由主義が台頭、イギリス内政での自由主義的改革とともに東インド会社の貿易独占権に対する非難が強まり、まずインド貿易の独占権、さらに中国貿易での独占権を失った。こうして商業活動を停止して単なる統治機構のみとなった上で、インド大反乱の鎮圧した後の1858年に解散した。

自由貿易主義の台頭

 17世紀の後半に東インド会社はアジア貿易の独占権を有する商社という性格から、植民地インドを統治する機関へと変身し、1774年からはベンガル総督の管轄下に置かれていたが、19世紀に入るとその貿易特権は次々と廃止されていく。その背景には、産業革命の進展によって自由貿易主義の要求が強まり、東インド会社の貿易権独占に対する批判が強まったことである。
 まず1813年の特許状法によって東インド会社のインド貿易の独占権が廃止され、さらに1833年には新特許状法によって茶と中国貿易での独占権廃止も決定され、これによって商業活動は停止となった。なお、対中国貿易の契約は1834年までとなっていたので、貿易の自由化(すべての国民に貿易に参加できること)が実施されたのはそれ以降ということになる。これによって東インド会社はインド統治機構(というより植民地統治請負業者)として、徴税権の行使など植民地行政にのみあたることとなる。
 中国では中国貿易での東インド会社の独占がなくなったため、イギリス商人は一斉に中国との貿易に乗り出し、盛んにアヘンの密輸を行った。そのため中国国内のアヘン問題・銀の流出が深刻となって、1840年アヘン戦争が勃発する。それは南京条約の締結で終わるとともに、中国の半植民地化の出発点となった。

インド大反乱

 インドでの東インド会社体制を揺るがしたのは、イギリス国内の動きだけでなく、インド民衆の抵抗も東インド会社支配のあり方を転換させる要因であった。その爆発が1857年の東インド会社の傭兵であるシパーヒーが起こしたインド大反乱(シパーヒーの乱)である。イギリス本国政府は、インド大反乱の勃発は、東インド会社のインド統治の失敗と考え、翌1858年8月に、インド統治法を制定し、ついに東インド会社を解散させ、インドは本国政府が直接支配下におくこととした。これはランカシャーを中心とする綿工業の産業資本家の要求でもあった。これによって1600年に特許状を与えられて始まった東インド会社が終焉した。

インド帝国の成立

 なお、東インド会社の株主に対しては、なお1874年まで配当金を支払うと約束していたので、東インド会社の残務処理業務はまた存続し、その残務整理のすべてが終わった1877年インド帝国の成立となった。東インド会社解散後の19世紀後半、イギリスのインド植民地直接支配の時代になって1869年にはスエズ運河が開通し、また帆船から蒸気船、木造船から鉄鋼船への転換がなされた。<浅田実『東インド会社』1989 講談社現代新書>
 → イギリスのインド植民地支配

Episode 東インド会社の復活?


East India Company
"Boston Tea Party" 100g
 現在のロンドンにも「東インド会社」を名のる会社がある。あの東インド会社が復活したの? と驚いたが、この会社は1978年に紅茶の販売を目的に設立したインド人実業家が、2010年にイギリス紋章院から「東インド会社 East India Company」の名称を使用することを認められたものだそうです。現在は堂々とEICの紋章つきの紅茶を販売しており、ロンドン土産として好評だそうです。<Wikipedia による>
 現在の「東インド会社」で売っている紅茶を飲んでみようとアマゾンで探したら、なんと“ボストン・ティーパーティ"というブレンドがあった。あの茶会事件の絵がラベルになっている。「ボストン茶会事件」と名づけられた紅茶を「東インド会社」が販売しているというのは面白いが、味の方は保証の限りではなさそうだ。
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書籍案内

浅田実
『東インド会社』
1989 講談社現代新書

羽田正
『東インド会社とアジアの海』興亡の世界史15
初刊2007
2017 講談社学術文庫