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コーヒー

エチオピア原産でイスラーム世界で拡がり、16世紀以降、世界の主要な交易品となった嗜好品。

 コーヒーの木は年間を通して霜の恐れのない温暖な気候と、年間1200ミリの降雨量を必要とするので、ヨーロッパ大陸では栽培できない。亜熱帯の適当な高度の一帯が「コーヒーベルト」地帯といわれ、主に北半球の温帯に集中する先進国の需要をまかなっている。コーヒーの原産地はエチオピアであり、16世紀にはイエメンで栽培されるようになり、イスラーム教のスーフィズム(神秘主義)の信者が眠気を払い祈りに専念するために用い始めた。1536年、イエメンがオスマン帝国領となってから、イスラーム世界に広がり、イスタンブールで「コーヒーの家」が多数作られた。紅海の入り口に近いアラビア半島のモカが最初に盛んになった積出港である。

ヨーロッパに伝わる

 初めはレヴァント商人の東方貿易で、ついで17世紀からはオランダやイギリスの東インド会社によってヨーロッパにもたらされ、広く飲まれるようになった。イギリスではピューリタン革命から王政復古期に、ロンドンなどで「コーヒーハウス」が出現し、市民の情報交換の場となった。オランダ東インド会社はセイロン島、ジャワ島にコーヒーを移植し、1712年以降ヨーロッパに輸入するようになった。ジャワ・コーヒーはモカ・コーヒーよりもコストダウンに成功、ヨーロッパのコーヒー需要の中心となる。ついでフランスはハイチやマルティニック島、イギリスはジャマイカ島など、西インド諸島でコーヒー・プランテーションを作り、三角貿易でもたらされる重要な商品となった。ブラジルがコーヒーの産地として進出するのは19世紀からで、次第に他を圧倒するようになり、世界最大の産地となった。
 またドイツは東アフリカ植民地のキリマンジャロ山麓などで広大なプランテーションを設けコーヒー生産にあたった。ドイツ本国でもコーヒーの需要が増えたが、第一次世界大戦では物資不足から市民生活の中でコーヒーは生クリーム、砂糖とともに姿を消し、1918年のキール軍港での水兵反乱の際には食料庫のコーヒー豆が略奪されたという。<臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』1992 中公新書 などによる>

出題

 06年 センター本試 世界史B

ジャワ島のコーヒー

 オランダ(ネーデルラント連邦共和国)のオランダ東インド会社は17世紀にジャワ島を支配したが、次第に貿易から領土支配へと関心を変化させ、ジャワ島での商品作物の生産に力を入れるようになったが、そこで新しい作物として導入されたのがコーヒーであった。コーヒーを初めて味わったオランダ人は1616年にアラビアのモカに赴いたファン=デル=ブルークであるとされており、アムステルダムには17世紀の終わりごろまでは南アラビアのイェーメン地方産コーヒーに限られていた。ところがオスマン帝国がコーヒーの海外輸出を制限したため、1658年にはセイロン島で栽培が始められた。その後インドのマラバール海岸からジャワ島にコーヒーの苗木が送られ、何度かの失敗を経て、17世紀末にはジャワ島西部のバタヴィアの周辺での栽培に成功し、利潤も大きかったところから主要な商業作物となった。ジャワにおけるコーヒーは、他の砂糖、茶、綿、藍、ゴムなどと同じように、現地の農民に栽培と供出を義務づける義務供出制で栽培され、買い取り価格は会社が一方的に定めるものであった。
(引用)このほろ苦い飲み物ほどジャワの農業のあり方を、いやジャワそのものを変えたものはおそらくないであろう。その意味で、コーヒーと共に明けた18世紀はジャワに大きく脚光を当てたことになる。そしてその火が鮮やかなだけに、黒く彩られる陰の部分もまた限りなく暗かったと言うことができよう。<永積昭『オランダ東インド会社』1971 講談社学術文庫版 2000 p.171>
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ノートの参照
9章2節 ウ.奴隷貿易と近代分業システムの形成
書籍案内

臼井隆一郎
『コーヒーが廻り世界史が廻る』
1992 中公新書