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ジャコバン=クラブ

フランス革命運動を推進した政治組織。当初は幅広い党派で構成されていたが、その主導権をめぐり右派のフイヤン派、中間派のジロンド派、左派の山岳派などが抗争、分裂を重ね、最後に主導権を握った最左派の山岳派がジャコバン派と言われるようになった。

 ジャコバン=クラブの始まりは、三部会の第三身分議員の中のブルターニュ地方出身者が作ったブルトン=クラブにさかのぼる。1789年10月のヴェルサイユ行進で議会もパリに移動したのに伴い、11月にブルトン=クラブもパリのジャコバン修道院※に移り、その食堂を拠点として活動するようになった。1790年2月に正式名称を「憲法友の会」とし、さらに1792年9月からは「ジャコバン協会」となったが、一般にジャコバン=クラブと言われて、それが通称になった。ジャコバン=クラブとなってからは、会員が増え、国民議会議員以外にも門戸が開かれたため、1790年夏までには会員千名を超え、地方支部も152支部あった。
※ジャコバン修道院というのは、カトリックの修道会の一つジャコバン修道会の修道院。このころは修道院としては使用されておらず、その位置と広さが議員たちが集まるのに都合が良かった。
 ジャコバン=クラブは組織化された議会内の最大勢力であったので、その中で多数を占める党派が議会の主導権を握ることとなった。〝ジャコバン〟という響きには過激な革命家の集まりという印象が強いが、最初からそうだったわけではなく、当初の中心メンバーのミラボーバルナーヴらは立憲君主政を志向していた。しかし革命の展開と共に、内部分裂を繰り返し、立憲君主派はフイヤン派として分離し、穏健共和派であるジロンド派が覇権を握った。しかしつぎに山岳派と言われる急進派が台頭し、最終的には山岳派がその主導権を握り、ジロンド派は排除される。こうしてジャコバン=クラブを独占した山岳派がジャコバン派と言われるようになったため、〝ジャコバン〟=急進派というイメージができあがった。山岳派のロベスピエールの独裁も「ジャコバン派独裁」と言われている。

ジャコバン=クラブ内の主要党派の推移

 ジャコバン=クラブ内の主要党派は89年11月~94年11月のわずか5年間に、めまぐるしく勢力が交代した。それをまとめると次のようになる。
 1789年11月 設立 主流は立憲君主派
 1791年7月  分裂 立憲君主派が脱退しフイヤン派を結成。主流はジロンド派(最初はブリソ派といわれた)が握る。
 1792年9月~ 山岳派(モンターニュ派)が台頭 ジロンド派と抗争 → 国民公会期
 1793年6月  モンターニュ派がジロンド派を追放 
 1794年11月 テルミドールのクーデタでモンターニュ派敗北 11月12日、ジャコバン=クラブ閉鎖される。
          → ジロンド派はテルミドール派と言われ、総裁政府を支持
<柴田三千雄『フランス革命』岩波セミナーブックス p.106 などによる> 
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ノートの参照
第11章3節 イ.立憲君主政の成立