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ワルシャワ大公国

ティルジット条約の規定により、1807年、ナポレオンがプロイセンのポーランド旧領に建国した国家。

 18世紀末のオーストリア、ロシア、プロイセンの三国によるポーランド分割の結果、ポーランドは国家としては消滅してしまった。1806年、イエナの戦いでプロイセン軍を破ったナポレオンは、プロイセン領の旧ポーランドにワルシャワ大公国を建設、翌1807年にティルジット条約と結び、プロイセンに承認させた。ポーランド人にとっては、1795年の国家消滅以来の国家再建と歓迎されたが、実態はドイツ人ザクセン公がワルシャワ大公の位を兼ね、またロシアとオーストリアに分割された地域は含まれておらず、憲法もナポレオンによって制定されたので、民族独立の回復とは言えなかった。
 このワルシャワ大公国は、ナポレオン没落後のウィーン議定書において消滅し、その大部分はポーランド立憲王国となって実質的にロシアの支配を受け、一部はプロイセン領となった。 → (4)ポーランドの苦難

ナポレオンの与えた国

 ポーランド人はナポレオンを民族の解放者として歓迎した。ワルシャワ大公国に対しても、プロイセン領ポーランドのすべてを含むものではなかったし、「ポーランド」の名を与えられず大公位もザクセン公にあたえられたにもかかわらず、彼らはワルシャワ大公国はポーランド国家再興の核であると信じた。そのため、ナポレオンの保護下に入った他の民族の多くとは違って、最後までナポレオンに対してあらゆる犠牲を惜しまなかった。
 ナポレオンは1807年、ワルシャワ大公国憲法をドレスデンで口述した。その中には「奴隷制は廃止される。すべての公民は法の前に平等である。」と定められた。奴隷制とは農奴制のことであり、ここではフランス革命の原理が導入された。さらに同年12月の農民問題に関する勅令では農民の移動の自由を認めた。しかし、村を出る農民は土地だけでなく家屋、家畜、農具、収穫物などすべてを地主に返還しなければならず、地主の利益が保護されていた。ポーランドの支配層であるシュラフタの地位は揺るがなかった。

モスクワ遠征とポーランド兵

 1812年、ナポレオンが実行したモスクワ遠征には、ワルシャワ大公国はフランスの同盟国中の最大の兵力10万を出兵させた。
(引用)ナポレオンの「大陸軍」の中で、ワルシャワ公国軍だけが祖国再建という大義を持っていた。それだけに彼らの活躍は目ざましかった。だがモスクワ入城も束の間、「大陸軍」の苦しい撤退が始まった。公国軍の本領が発揮されたのはこのときだった。彼らは、最も危険な後陣に位置して、主力軍の撤退を援護した。それだけに将兵の損失も大きかった。再び公国の土を踏んだ者は2万4000人に満たなかった。<山本俊朗・井内敏夫『ポーランド民族の歴史』1980 三省堂選書 p.84>