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ロシア遠征/モスクワ遠征

1812年、ナポレオンが行った大遠征。失敗し、その没落が始まる。

 1812年5月、ナポレオン1世が40万の軍を率いて行った大遠征。「モスクワ遠征」ともいう。ロシアのアレクサンドル1世が、ナポレオンの出した大陸封鎖令に反して、イギリスに対する穀物輸出を続けていることに対する制裁が口実であった。ナポレオン軍は9月にモスクワに入城したが、ロシア軍のクトゥゾフ将軍は退却戦術をとってモスクワに火をつけ、ナポレオン軍の糧道を断った。そのためナポレオン軍は退却することとなり、ロシアの「冬将軍」と言われる厳しい冬の寒気に悩まされ大きな犠牲を出し、遠征は失敗に終わった。なおこのとき、ナポレオン軍はフランス兵だけはなく、多くの同盟国の兵力を動員したが、その中で最大の兵力はワルシャワ大公国のポーランド兵であった。
「1810年12月、ロシアのアレクサンドル1世は関税改革を行い、フランス商品の輸入に重税をかけた。対ロシア戦争は避けられない情勢となったが、フランス国内では経済危機で失業者の増加、不作のため食糧高騰、財政悪化などのためすぐに遠征軍を派遣できず、ようやく12年になって、2月プロイセンとの、3月オーストリアとの同盟を成立させ、5月9日、ナポレオンはサン-クルー宮殿を出発。フランス兵30万、ドイツ兵18万、ポーランド兵9万など混成部隊であった。9月上旬、クトゥーゾフのロシア軍とボロディノで会戦、ロシア軍は半数を失って後退、9月16日ナポレオン軍がモスクワに入城。」<井上幸治『ナポレオン』岩波新書 P.169>

ナポレオンのモスクワ入城

 ロシアの文豪トルストイの『戦争と平和』に描かれたナポレオンのモスクワ入城の情景は次のようなものである。
(引用)9月2日、モスクワではフランス軍をくい止めて戦うことは出来ないと判断したクツゥーゾフは、軍のリャザンへの撤退を命じる。翌日フランス軍がモスクワにはいる。先遣隊は無人のモスクワに驚愕、ロシア人貴族との交渉に意気込んでいるナポレオンを「滑稽な(リディキュール)な状態においてしまうことを重臣連中は恐れる。結局モスクワが空であることを知ったナポレオンは「モスクワが空だ。実にありうべからざる出来事だ。」とひとりごちる。(P.504-513)モスクワ総督ラストプチンがモスクワ放棄直前に行ったヴェレシチャーギン(ナポレオン賛美のビラを撒いた)処刑したことが述べられている。(P.539-542)モスクワ炎上はどちらの手によるものではないこと。<トルストイ/米川正夫訳『戦争と平和』第三部第三編 岩波文庫Ⅲ P.553-554>

チャイコフスキー 「大序曲1812年」

 ロシアの作曲家チャイコフスキー(1840~93)は、ナポレオンのモスクワ遠征を題材に、1880年に「大序曲1812年」(作品49 変ホ長調)を作曲している。独立した序曲でチャイコフスキーの作品としては重要ではないが、歴史的出来事に題材を採り、ロシアの愛国心を恥ずかしげもなく謳いあげている。侵入するナポレオン軍を「ラ=マルセイエーズ」で表現し、フランス軍が旗色が悪くなるにつれて弱々しくなり、代わってロシア帝国国歌が高らかに鳴り響き、何とクライマックスでは本物の大砲の音を使うというしろものである。ということで人気が高く、自衛隊軍楽隊も大砲入りでよく演奏する。もっとも旧ソ連時代はロシア帝国国歌は演奏できなかったので、その部分は別な曲が使われたそうです。なにはともあれ、アバド指揮のシカゴ交響楽団の演奏を紹介しておきます。(左掲)
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ノートの参照
第11章3節 オ.ナポレオンの大陸支配
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チャイコフスキー
『大序曲1812年』
アバド指揮 シカゴ響 SONY
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