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スペイン立憲革命

ウィーン体制下のスペインで、1820年に憲法を復活し立憲政治を実現した。フランスの介入で弾圧された。

 ウィーン体制時代、ブルボン朝支配下のスペインでは、自由主義ナショナリズム(国民主義)の運動が、次第に活発になった。

1812年のカディス憲法を復活

 1820年1月1日、おりからラテンアメリカで起こった起こった独立運動を鎮圧するためにカディス港を出航しようとしていたスペイン海軍の兵士が反乱を起こし、1812年3月の「カディス憲法」の復活を要求した。事態に驚いた国王フェルディナンド7世は、兵士の要求を認め憲法の復活を宣言した。これをスペインでは「立憲革命」と言っている。
 このカディス憲法とは、ナポレオン支配下のスペインで、スペイン人がカディスで独自の議会(コルテス)を開催して定めた憲法で立憲君主政を初めて明確にし、当時「自由主義の政治的モデル」として最も先進的な憲法であった。それが1814年、ナポレオン没落後、スペインで復活したスペイン=ブルボン朝の国王によって否定されていたのものである。
スペイン立憲革命の影響 1820年初頭にスペインで立憲革命が成功したことは、ただちにウィーン体制のもとで抑えられているイタリアにも伝えられ、ナポリでのカルボナリの蜂起が起こった。翌21年には北イタリアのサルデーニャ王国のピエモンテ地方でも蜂起し、それぞれ憲法の制定を認めさせた。それに対してウィーン体制の維持を図ったメッテルニヒは危機感を強め直接ーストリア軍を派遣して鎮圧し、これらの憲法の施行期間は短期間に終わった。
 スペイン立憲革命は1823年まで継続したが、フランスのルイ18世がブルボン系のスペイン王を守るため介入し、フランス軍を派遣、その攻撃によって挫折した。
プロヌンシアミエント スペイン立憲革命は、軍隊の革命的決起で成功した。スペイン(及びその影響を受けたラテンアメリカ諸国では)その後もしばしば軍の反乱から革命が成し遂げられることが多い。このような軍隊の蜂起による革命をプロヌンシアミエントといっている。

ウィーン体制の動揺

 スペインの立憲革命は、この対応をめぐって、ウィーン体制を補完する国際組織であった五国同盟間に対立が生じた。絶対王政体制維持をめざすフランス・オーストリア・ロシアは、立憲革命への強硬な弾圧を進めたのに対し、イギリスはスペイン立憲革命を評価して支持し、介入には反対したので、同盟は事実上崩壊した。
 また本国スペインで立憲革命が起こったことは、スペインのラテンアメリカ植民地における独立運動をさらに活発にした。このラテンアメリカの独立運動が活発になる中で、1823年アメリカ合衆国がヨーロッパ諸国の介入に反対してモンロー教書を発表すると、イギリスはそれを支持したが他の諸国は反対し、そこでもウィーン体制の歩調の乱れは明確になった。

スペイン史における立憲革命の意義

 スペインでは、復活したブルボン王朝のフェルナンド7世の絶対主義王政に対し、自由主義派は秘密結社を作り、抵抗。1820年、たまたま新大陸に出航しようとしてアンダルシーアで待機中の部隊を反乱に立ち上がらせることに成功した。中央部の軍隊も反乱側に組し、国王は1812年の憲法(ナポレオン戦争下カディスで開催された議会で改革派が中心になって成立させた憲法。主権在民・出版の自由などが規定された。)を承認した。事態に唖然となったヨーロッパを尻目に、スペインは自由主義革命の行く手を照らす国となり、ポルトガル・イタリアでも同じ様な運動が起こった。しかし、ナバーラとカタルーニャの農村部では王党派の反乱が起こり、カタルーニャには臨時政府が出来た。自分達の領主権が侵される危険を感じた地主と貴族、労働者の騒乱に自分達の立場が危うくなることを恐れた資本家たちは立憲政治への共鳴を失った。1823年、「聖王ルイの十万の王子達」と呼ばれたフランス軍が侵入してくると、ろくに戦わずしてスペインにおける二度目の立憲政治の試みはあえなく崩壊してしまった。<J.ビセンス・ビーベス『スペイン』P.165-7>
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