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デカブリスト、デカブリストの反乱

ウィーン体制下のロシアの1825年に起こった自由主義を求める青年将校の反乱。反乱に決起した人々をデカブリスト(十二月党)という。

 ナポレオンのモスクワ遠征に対する反撃に従事し、フランス軍を追ってパリに入ったロシア貴族出身の青年将校は、そこでフランスの「自由と平等」に直に触れ、自由主義国民国家に憧れる者も多かった。ロシアに帰った青年将校の中から皇帝の専制政治(ツァーリズム)に対する不満を強く感じる者が現れた。ウィーン体制のもとで、ヨーロッパの憲兵といわれたロシア皇帝は国際的な反動勢力の中心として、自由主義やナショナリズムへの弾圧を強めていたが、青年将校たちは、ツァーリズムとそれを支える農奴制がロシアの後進性の根元と考えるようになっていった。

ニコライ1世の即位の時の反乱起こる

 1825年12月14日に皇帝アレクサンドル1世が急逝し、ニコライ1世が即位することとなった。青年将校たちはチャンスが到来したと考え、反乱を起こした。しかし反乱は軍隊の一部に止まり、民衆的な広がりはなかった。不穏な動きを察知した政府はただちに反撃し、政府軍が反乱を鎮圧、首謀者(ペステリ、ルイレーエフ、アポストルなど)は逮捕されて、いずれも絞首刑となった。さらに事件に関係があるとされて500人以上が逮捕された。事件の起こった12月をロシア語でデカーブリというので、この事件に参加した人々はデカブリスト(十二月党員)と呼ばれることになった。
 この事件は、ドイツにおけるブルシェンシャフト、イタリアにおけるカルボナリの蜂起、スペイン立憲革命などとともにウィーン体制の反動政治に対する、自由主義ナショナリズムの運動の一つの表れであった。反動政治の最強の部分と思われていたロシアのツァーリズムのもとで起こった反乱は、鎮圧されてしまったが大きな衝撃を持って迎えられ、また約80年後にはじまるロシア革命(第1次)につながることとなる。

Episode デカブリストの妻

 反乱に失敗したデカブリストの貴族たちで絞首刑を免れた人々はシベリアに流刑となった。そのとき、年若い9人の妻たちが、夫のあとを追ってシベリアに行きったことが、当時の人々の、そしてその後のロシアの革命を目指す人々の涙を誘った。ニコライ1世は、一旦この婦人たちのシベリア行きを許したが、社会的な影響の大きなことを考え、なんとか途中から引き返させようとして、イルクーツクで、このままシベリアに向かえば一切の財産上の、そして名誉上の権利を放棄することの署名を迫った。婦人たちはそれでも屈せず、署名をしてシベリアに向かった。そのなかには、そのまま流刑地で死んだ夫人も何人かいた。この出来事を題材にして、詩人のネクラーソフが『デカブリストの妻』(ロシアの妻とも訳される)を1872~73年に発表した。トゥルベツキー夫人とヴォルコンスキー夫人の二人の独白を詩で表現し、当時の革命気運の起こっていたロシアで評判になった。政治犯として流刑にされた夫を慕って極寒の地に馬車を走らせる女性の愛に、多くの人が感動したのだった。ネクラーソフ(1821-1878)はプーシキンなどと並んで日本でもよく知られた詩人であり、その代表作として日本でもよく読まれた。<ネクラーソフ/谷耕平訳『デカブリストの妻』1950 岩波文庫>
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第12章1節 イ.ウィーン体制の動揺
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ネクラーソフ/谷耕平訳
『デカブリストの妻』
1950 岩波文庫