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ナロードニキ/ヴ=ナロード

1860~70年代、ロシアの青年知識人層(インテリゲンツィア)によるヴ=ナロード(人民のなかへ)を掲げた革命運動。運動には失敗しテロリズムに向かったグループもあったが、後のロシア革命運動の原点となった。

 1860~70年代のロシアで、ツァーリズム支配を倒し、社会主義を実現する運動を、ロシア独自のミール(農村共同体)にひろめることで革命に結びつけようとした、都市の知識人をナロードニキと言った。人民主義者との訳語で言うこともある。バクーニンアナーキズムの思想の影響を受けた青年、学生などのインテリゲンツィアが、「ヴ=ナロード」(人民の中へ)を合い言葉に、農村の中に入り革命思想の宣伝に努めた。

ヴ=ナロード「人民の中へ」

 ロシア語で、「人民の中へ」を意味するのが、“ヴ=ナロード”V narod であった。インテリゲンツィアの青年の間でひろまった、農民の中に入り革命思想を広める運動のスローガンとなったこの言葉から、彼らはナロードニキと言われた。1874年はその運動が最も盛り上がり、多くの知識人青年が農村に入り、熱心に農民を啓蒙して革命運動を起こそうとした。その指導者プレハーノフらは政治結社「土地と自由」を結成した。その理念は、ロシアにおいては、資本主義社会を経ることがなくとも、ミール(農村共同体)を基盤とする独自の社会主義社会を建設することができる、というものであった。
 しかし、彼らの熱心な活動にも関わらず、保守的な農民を動かすことが出来ず、彼らは次第に絶望してゆき、ナロードニキ運動を否定するグループの一部は直接行動によって権力者を打倒するしかない、と考えるテロリズムに走り、また一方では、革命に絶望して社会正義を否定するニヒリズムに陥っていった。「土地と自由」結社も、テロリズムを肯定する「人民の意志」派と、あくまで農村共同体を基盤とした運動を続けようとする「土地総割替」派に分裂した。その後、テロ活動も続き、ついに1881年にアレクサンドル2世の暗殺実行へと走るが、その実行犯はナロードニキのから分かれたテロリストであった。またプレハーノフらはナロードニキ運動から離れ、マルクス主義に接近し、ロシア社会民主労働党の源流となっていく。またテロリズムを否定してナロードニキ運動の流れを継承したグループの中からは、1901年に社会革命党(エス・エル)を結成し、ロシア革命期にボリシェヴィキと並ぶ勢力として重要な存在となる。

女性革命家ヴェーラ=ザスーリチ

 ナロードニキの中には女性活動家も多かった。その代表的な存在がヴェーラ=ザスーリチ(ベラ=ザスーリッチ)の生涯を簡単に振り返り、ロシアにおける革命運動、ナロードニキの情熱と苦悩の経緯を見てみよう。<鈴木健夫『世界の歴史22』近代ヨーロッパの情熱と苦悩 1999 中央公論新社 p.308-317 などによる>
ナロードニキの情熱 彼女は1849年、ロシア西部スモレンスク県の小貴族の家に生まれ、苦しい生活の中から姉二人とともにモスクワの寄宿女学校に入学、姉とともに革命運動に身を投じた。デカブリストの詩人ルイレーエフや、アナーキストのバクーニンらの影響を受けながら、ゲルツィンやチェルヌイシェフスキーらが提唱する、民衆を啓蒙して革命を起こし、資本主義を経ずに農村共同体を基盤にした社会主義社会を実現するというナロードニキの運動に加わるようになった。
 女学校を終えてモスクワ大学の入学試験に合格したが、大学には行かず、近郊の街で判事の助手として働きながら様々な訴訟や係争をあつかうなかで、農村の悲惨な状況を肌で知り、農民には教育と物質的援助が必要だと確信する。1868年にペテルブルクに出て裁縫や製本の仕事をしながら夜間の学校で労働者に読み書きを教えた。そこでバクーニン派の学生活動家ネチャーエフを知り、その活動を支援したが、翌年、テロリストを幇助したとして姉とともに逮捕され、獄中生活を送る。ネチャーエフは亡命から帰国後、モスクワ大学の同志をスパイと疑い、大学構内で射殺する事件を起こし、その事件はドストエフスキーの『悪霊』の題材となった。ヴェーラは釈放後も厳しい警察の監視下に置かれ、たびたび逮捕・流刑を経験、その中で確固たる革命の精神を身につけていった。1874年ごろはナロードニキ運動は最高潮に達し、多くの若い知識人の男女が各地の農村に入り、教師や保健婦などで働きながら民衆を啓蒙しようとした。しかし熱心な活動にも関わらず、彼らは冷たくあしらわれ「狂った夏」と言われる始末だった。
トレポフ銃撃事件 1875年、流刑からもどったヴェーラはキエフに赴き農民の啓蒙に務めたが、受け入れられることはなく挫折した。翌年ペテルブルクに戻ると、プレハーノフらが結成した「土地と自由」に参加、1878年、ペテルブルク特別市長官トレポフ銃撃事件を起こす。トレポフは警察長官時代から学生デモを銃火で鎮圧し、その残忍な弾圧に対して革命家は「人民裁判」の標的にしていた。ヴェーラは1月24日、請願者を装ってトレポフに面会、2発の拳銃を発射した。トレポフは負傷に終わり、彼女はその場で逮捕された。裁判では政府内でもトレポフのやり方に反対するものもあったためか、判決は無罪となり、釈放された。法廷では歓喜の声が上がり、群衆もヴェーラを歓呼で迎え、勝利のデモ行進を行い、警官と衝突した。ヴェーラは混乱を避けてスイスに脱出した。
テロリズムの苦悩 ヴェーラのトレポフ銃撃がきっっけとなって、その後も「土地と自由」メンバーによるテロが続き、皇帝アレクサンドル2世暗殺未遂事件も続いた。しかし革命運動のなかに過激なテロリズムをめぐって意見の対立が生じ、「土地と自由」結社は、テロを肯定する「人民の意志」派と、それを否定して農村での宣伝活動を主張する「土地総割替」派に分裂した。ヴェーラは自分の行動がテロ事件を誘発したことの責任を感じ、プレハーノフの「土地総割替」派に加わった。しかし、テロに走った「人民の意志」派は1881年3月13日、ペテルブルクでアレクサンドル2世に爆弾を投じ殺害した。そのテロリストの中心は女性革命家ソフィア=ペトロフスカヤだった。
マルクスへの手紙 ジュネーヴ亡命中のヴェーラはロシアの革命運動が混迷する中、すでに『資本論』第1巻がロシア語にも翻訳され、社会主義の理論的指導者として知られていたカール=マルクスに手紙を書いて、その意見を聞いた。ヴェーラが悩んだのは、ナロードニキが従来から主張しているロシアの農村共同体を基盤とする社会主義社会は果たして可能か、それともマルクス主義の説く、資本主義社会の成立を前提とすべきなのか、と言う問題であり、革命家の中での激しい議論が続いていたからであった。マルクス自身は「人民の意志」派を支持していたが、ロシア独自の社会主義の道も十分な可能性があると考え、ヴェーラに回答した。しかしヴェーラは次第に農村共同体への期待を失って行き、1883年、プレハーノフがジュネーヴで結成したロシア最初のマルクス主義組織「労働解放団」に参加し、その後、ロシアにおけるマルクス主義の受容に努めていく。その潮流の中から、後にレーニンが登場することとなる。

参考 石川啄木「‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。」

 石川啄木が1911年6月15日の夜に書いた詩の一節。
  われらの且つ読み、且つ議論を闘はすこと、
  しかしてわれらの眼の輝けること、
  五十年前の露西亜の青年に劣らず。
  われらは何を為(な)すべきかを議論す。
  されど、誰一人、握りしめたる拳に卓(たく)をたたきて、
  ‘V NAROD!’と叫び出(い)づるものなし。
 これは、この年1月18日に大逆事件の被告24人に死刑判決が出され、24日に幸徳秋水らの死刑が執行されたことに衝撃を受けた啄木が残した。当時社会主義やアナーキズムの影響を受け、天皇制やそのもとでの封建的な日本への疑問が青年のなかに広がっていた。石川啄木もその一人だったが、青年の社会への抗議が天皇制を倒そうとした「大逆」として抑えつけられ、民衆は同調することがなかった。それへの思いを「五十年前の露西亜の青年」、つまり1860年代のロシアのナロードニキの苦悩と絶望に託して歌ったのだった。啄木は翌1912年4月13日、27歳の生涯を終える。
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谷川・北原・鈴木・村岡
『近代ヨーロッパの情熱と苦悩』世界の歴史22
1999初刊 中公文庫2009