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ツァーリズム

16世紀以降のロシアの皇帝による専制政治とそれを支えた社会体制。18世紀に最盛期となった。1917年のロシア革命で消滅。

ロシア皇帝の公式名称であるツァーリの称号は、15世紀後半のモスクワ大公国イヴァン3世の時に初めて使用されたが、定着したのは16世紀のイヴァン4世の1547年からである。この称号は全ロシアの支配者の意味として使われ、ローマ帝国のカエサルがロシア語に転化したものである。ロシア国家において、独特な強化を遂げた皇帝専制体制のことをこの名称からツァーリズムという。

ツァーリズムの形成

 ロシアは、封建制・農奴制を基盤とした貴族社会が強固に出来上がっていたが、イヴァン4世は皇帝(ツァーリ)として貴族勢力の抑圧に努め、雷帝と恐れられた。その後も皇帝と貴族は対立関係にあり、政情も不安定が続いたが、ロマノフ朝(もともとは貴族に擁立された王朝であった)のピョートル1世/大帝は、西欧の文化・制度を導入しつつ、巧みに貴族層を抑え、上からの勤惰を進めて官僚制・軍事組織を整備し、18世紀初頭の北方戦争に勝ってバルトの覇者と言われるようになるという権威の確立に成功し、ロシアにおけるツァーリの支配は完全なものとなった。18世紀後半には女帝エカチェリーナ2世の時にその体制は完成したとされる。エカチェリーナはドイツ生まれの女性で、宮廷内での激しい権力争いに勝利して皇后として実権を握った。ロシア人の民族指導者という性質ではなく、18世紀の主権国家競争に成功した人物と言うことが大事である。ヨーロッパの宮廷間の国際結婚や養子縁組は日常茶飯事で、外国人の皇帝や国王はけして珍しくない。ツァーリズムは、主権国家(絶対王政)形成期の一類型である。

ツァーリズムの変容

 18世紀末ロシアで、ツァーリズムの動揺が始まる。フランス革命に始まった大きな社会変動、政体転換の影響がロシアにも及んだ。ナポレオン戦争でのもロシア遠征はロシア国家の危機ではあったが防衛に成功したものの、ナポレオン軍を追ってフランスにいたったロシア軍の若い将校の中には、自由と平等を理念とした新しい社会に目を開かれ、また産業革命を進展させて海外に進出を続けているイギリスからも刺激を受けることとなった。19世紀前半のウィーン体制時代のロシアアレクサンドル1世が保守反動の中心勢力として、国内ではツァーリズムの維持に努め、それを否定する最初の動きであったデカブリストの反乱、また支配下にあったポーランドの反乱を鎮圧、さらに国外では「ヨーロッパの憲兵」として、「諸国民の春」といわれたオーストリアからのハンガリー民族運動などの独立運動を抑圧する任務を負った。

ツァーリズムの動揺

 19世紀後半には、ロシアの産業革命も進行して、ツァーリズムを時代遅れの専制政治として批判する勢力はさらに強くなり、皇帝側も対応が迫られた。特にクリミア戦争の敗北はツァーリズムにとって大きな衝撃となり、皇帝専制政治を維持しながら社会変革をしなければならないという矛盾に充ちた時代となった。アレクサンドル2世農奴解放令を出したこと、その彼がナロードニキのテロリズムによって暗殺されたことにその矛盾があらわわれている。

ツァーリズムの崩壊と終焉

 その後、ロシアはツァーリズム体制下で国内の政治や社会制度での近代化を停滞させながら、領土拡張というの大国化を強行し、矛盾を深めていった。一方、労働者・農民の解放を目ざす社会主義も、1898年、ロシア社会民主労働党が結成されて本格化し、脅威を感じた政府によって厳しく弾圧され、運動方針を巡って分裂した。しかし、20世紀に入り、日露戦争の最中に、労働者の権利と戦争停止をニコライ2世に訴える労働者の請願行動が軍隊によって弾圧されるという血の日曜日事件が起こって、民衆の中でのツァーリ信仰は完全になくなった。この第1次ロシア革命での国会開設など立憲君主政への移行が実現した。
 その後、ストルイピンらの改革でツァーリズムは力を弱めていったが、世界の帝国主義的対立が深まる中で、なおもツァーリは実質的な権威であり続けた。しかし、帝国主義戦争である第一次世界大戦に参戦したことから一気に国内矛盾が爆発して、第2次ロシア革命へと進み、ロマノフ朝ニコライ2世が革命の最中に処刑され、ツァーリズムは終焉する。
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ノートの参照
5章2節 ウ.スラヴ人と周辺諸民族の自立